11
純誠視点
あっけに取られすぎて言葉が出て来ないなど、はじめての経験だった。
ぽかんとして、その次に純誠を支配した感情は苛烈な怒り。カッと頭に血が上って、ここが外で、周りにほかの客がいることすら忘れて、テーブルを思い切り拳で打った。水のグラスが揺れて、水滴が周囲へと飛び散る。
「ふざけるなっ……!! おまえはっ、人を、なんだと思ってるんだ! もういい、俺は帰る!」
「きちんと報酬は払うよ。人に聞かれるとまずいから、座ってくれないか」
「もう二度と顔を見せんな! クズが!」
純誠が背を向け出て行こうとすると、男はやれやれと芝居じみたため息をついた。
「仕方ないか……。だったらほかの人に頼むとするよ。こんな依頼を引き受けるような輩に。彼女、壊れちゃうかもしれないね……」
純誠は思わず、足を止めた。聞いてしまった以上、無視できなかった。それがこの男の思惑通りであっても、純誠の良心がそれを許さなかった。
「なにを企んでいる? それを聞いて、俺が本人にバラさないとでも思ったのか?」
簡単な解決策として、優一本人に今聞いたことを話してしまえばいい。そうすればこの男の計画はもろく崩れ去る。
「おや? どうしたんだい、きみには関係ないことなのだろう? 優一の彼女と、面識もないんだから。それに簡単に誘いに乗るような女だとしたら、手酷い扱いをされて捨てられても、自業自得だろう?」
「簡単に靡く女じゃなかったらどうする気なんだ。回答によってはこのまま警察に行く」
話が話なだけに、純誠は仕方なく席に戻った。鞄からスマホを取り出して、時間を確認する。この男と顔を合わせてから、驚くことにまだ五分しか経っていなかった。
「警察沙汰になるようなことをしたら妻に叱られてしまうよ。あくまで穏便にことを進めるさ。……穏便にね」
そのなにか含みのある言い方が気になった。
優一の彼女が身を引くように仕向けるために、なにをするかわかったものではない。周囲はこの温和そうな雰囲気に騙されがちだが、この男はためらいなく人を傷つけられる類の人間だ。彼女をうまく酔わせてホテルに連れこみ、写真を撮るくらいのことは平然とやってのけるだろう。それをネットに晒すぞと脅しをかけるくらい、きっと朝飯前だ。
そうなれば表向きは穏便に、彼女は優一に別れを告げる――。
純誠は顔をしかめた。たしかにまったく面識のない女だが、傷つくとわかっていて見捨てられるほど薄情者ではない。
「私が手をつけてもよかったんだけどね、優一の彼女は私の好みじゃなくて。私はどちらかといえば勝ち気で美人な……そうそう、きみの妹みたいな子がタイプでねえ」
男は笑っていた。だがその目の奥は、冗談を言っていなかった。
純誠を脅すために、なにが一番効くのかわかった上でちらつかせている。
純誠を確実に従わせるために、理世のことを調べたに違いない。血の気が引いていくのを感じながらも、弱みを見せたくなくて男をにらんだ。怒りに燻る腹の底から、ドスの効いた低い声を出す。
「理世になにかしたら、ただじゃおかない」
純誠だけではない。母も養父も黙っていない。きっとふたりとも飛んでくるはずだ。
「おお、怖い怖い。なんにもしないよ。ただ好みだって言っただけだ。きみはシスコンなのかな? かわいい妹を持つとお兄ちゃんは大変だねぇ?」
「うるさい、黙れ」
「そんな優しいきみにこんなことを頼むのは気が引けるけど……」男はためらうような口調で、しかし今度こそはっきりと命令した。「優一の彼女を、寝取ってくれるよね?」
この男の要求を跳ね返すのは簡単なことじゃない。純誠が逃げれば優一の彼女は間違いなくひどい目に遭うだろう。しかもこうして計画を知ってしまったことで、理世にこの男の魔の手がかかるかもしれない。
「……うまくいく保証はない」
苦渋の色濃く答えた純誠の言葉を了承と受け取り、男はぱっと顔を輝かせた。
「そこは安心していいよ。もし失敗しても誰もきみを咎めたりしないさ。彼女の気持ちを少しでもきみに向けるよう努力してくれれば、あとはこちらでどうとでもできる。もともと冷めた子だ、それっぽい証拠さえあれば優一の気持ちもすぐに冷めることだろう。成功してもしなくても、もう二度と、きみの前に顔を見せないと約束する」
念書を書いてもいいと男は言った。
これがもし倫理の範囲内での要求だったら。それこそすぐにも引き受けただろうが、残念ながらそうではない。
「あ、それと。優一と別れた後の彼女のことは、きみが好きにしていいからね」
煮るなり焼くなり。
捨てるなり、そのまま彼女にするなり。
男は簡単そうに、そう言ってまた笑った。
ふたりの仲を引き裂いておいて、はいさようならと手のひらを返すように彼女を捨てることができるだろうか。
(無理、だろうな……)
だからこそ、つけこまれたのだろう。非情になりきれない純誠だから。
「近いうちに彼女の身辺調査の報告書を送るから。とりあえず、はい。これが優一の彼女の写真」
機嫌よく懐から一枚の写真を取り出して、怒りと自己嫌悪に押し潰されそうになっている純誠の前にすっと滑らせた。
純誠と同年代くらいの女性だ。書店なのだろうか、黒いエプロン姿でお年寄りにおっとりと微笑んで対応している。特別美人ではないが、その微笑みは人を和ませるようなかわいらしさがあった。
しかし眉がわずかに下がっているせいだろうか、おとなしくて、どこか気弱そうな印象を受ける。彼女はきっと、男に押し倒されたら逆らえないだろうとも思ってしまった。ろくに抵抗できないまま、なす術なく一方的に蹂躙される、小動物のようだ。
誰にも相談出来ず、泣き寝入りして優一に別れを告げる。そんな未来がたやすく想像できてしまった。
この写真はだめ押しだったのだろう。その姿を目にしてしまったことで、純誠は断るという選択肢を完全に失ってしまった。
「よろしくね、純誠」
男は軽く純誠の肩をたたき、伝票を手に颯爽と通りすぎていく。
はじめて呼ばれた自分の名前。
嫌悪感しかなかった。
カランとベルが鳴って、どれくらい経った頃か。
純誠は大きく息をついて、スマホの録音を終了させた。
純誠も愚かではない。怒りで沸騰した頭でも念のため、時間の確認のふりをして会話を録音するくらいのことはやってのける強かさを持っている。
そしてきちんと会話が録音できているかどうかを確認しながら、今後の計画を立てた。
(舐められたものだな)
あの男は見誤ったのだ。純誠はお人好しではあるが、許せないと思った相手にはとことん非情になれるということを。
こちらには証拠がある。これは立派な脅迫だ。
念のため純誠は、意図的に同意しないようにしていた。
実際、うまくいく保証はないと言っただけで、引き受けるとは一言も口にしていないのだ。
だが証拠があったところで、もみ消される可能性が高い。これはあくまでも保険だ。
理世や家族に手を出されたら、それこそ後悔してもしきれない。家族を守るためなら、どんな手だって使う。誰だって利用する。
そのためには、おとなしく従っているように見せかけておくのが一番だろう。
純誠が思いついた打開策はこうだ。
まず優一の彼女に偶然を装って接触し、最低でも知人、できれば友人のポジションを得る。彼女は気が弱そうなので、そのあたりは強気で押し切ればなんとかなるだろう。
知人、もしくは友人として、節度を持ってつき合えばいい。
ふたりの関係を壊さない程度に。当て馬を演じてもいい。
結果は求めないという言質は取ってある。
とにかく、あの男に対してだけ、間男っぽく見えさえすればいいのだ。努力しているという体を見せつけておけば、きっと満足するだろう。
(後は……そうだ)
間違っても優一の彼女を誘惑してしまわないように距離感を間違えないように気をつけなければ。それこそ同性の友人のように、誤解を与えないように。
純誠は自分が、女性から好意を持たれやすい容姿をしていることを自覚していた。凡庸な中身を知られるとふられるが、初対面で嫌な顔をされたことはほとんど記憶にない。
ということはだ。飾ることなく普段通りの自分のままでいれば、彼女が自分に恋することはない。
真剣にそう考えていた純誠は、今、愚かな自分を恥じていた。
その逆の可能性を、まるで考えてはいなかったのだから、お笑い種だ。
これまでずっと、ありのまま自分を受け入れてくれる女性を求めていたのだ。
素を晒しても幻滅されるどころか、受け入れてくれる。そんなの、好きにならないはずがない。
純誠は自分が、人よりも理性的な人間だと思っていた。ろくでもない父親を反面教師に、これまで真面目に正しく生きてきたつもりだった。
だからこそ、人の彼女とわかっている女性に惹かれることになるなんて、思いもしなかったのだ。
あのとき彼女のお腹が鳴らなかったら、たぶん雰囲気に飲まれて口づけていただろう。
もしかすると、その先も――。
嫌がるそぶりは見せなかった……はずだ。おそらくは。願望かもしれないが。
意識していたわけじゃなかった。今日の朝まで、自分の気持ちの変化にすら気づいていなかった。
素の自分を受け入れてくれて、一緒にいるのが心地いい、とてもいい友人だった。
――それなのに。
危うく、あの男の思惑通りに彼女を寝取るところだった。
彼女が優一とうまくいっていないというのは理由にならない。
ぞっとした。やはりあの男の血が流れているのだ。まざまざと実感して吐き気を催した。
リビングからはまだ、かすかに理世と亮太の楽しげな声が響いて来る。
あの男と血が繋がっていない理世が、心底うらやましかった。純誠も養父の実子でありたかった。純誠を我が子のようにかわいがってくれた養父こそ、本当の父だと思ってはいるが……。
「まだ引き返せる」
あのときは、雰囲気がいけなかっただけだ。
優一から奪いたいほど彼女を愛しているというわけじゃない。
彼氏がいるのにほかの男に簡単に靡くような女だ。好きになるはずがないではないか。
心の中で彼女を貶めてみるが、自分に嫌気が差すだけだった。
あの日のことは、彼女の中でもなかったことになっているはずだ。気まずく思う必要はない。普段通りに接すれば……。
しかし普段通りとは一体どんなものだったのか、今ではまるで思い出せない。
「……大丈夫。まだ、愛しているわけじゃない」
言い聞かせるようにつぶやいた言葉は、誰もいない寝室に、白々しく響いた。
ハニートラップが仕掛けられない理由