10
純誠視点
「朝帰りおめでとーう!」
帰宅した純誠を、理世がクラッカーを鳴らす仕草で迎え入れた。
しかし純誠の表情見るやいなや、満面の笑みがかき消えて、熟練の刑事のような懐疑的なものへと変容した。
「なにその浮かない顔。まさか……なんにもできずにすごすご帰ってきた、とか?」
純誠の沈黙を正確に読み取った理世は、嘘ぉ、信じられない、と嘆く。そんな妹の頭を軽くこづいた。
「兄貴をからかうな」
「いやぁ、それはヘタレな兄を持った妹の特権というものでしょう」
「あのなぁ……いや、もういい」
これ以上しゃべらされたら理世の思うつぼだ。
逃げるように寝室へ行き、着替えて戻ってくると、理世の隣にちゃっかり亮太が座っていた。
純誠は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。おもしろいからと呼んだに違いない。亮太は同じマンションに住んでいるので、駆けつけるのに三分もあれば充分だろう。
「こんにちは。りーちゃんがおもしろいもの見せてくれるって言うからおじゃましたんだけど……なんか、まずかった?」
純誠は向かいのソファに座って深々とため息をつく。
「おまえは悪くない。全部理世が悪い」
「いいえ。朝帰りしてきたのに、指一本触れられないヘタレだからいけなかったんです」
「まじか。いい大人なのにな……」
「おまえらな……」
別に指一本触れなかったわけじゃない。むしろ抱きしめた感触がまだ体中に残っているくらいだった。
どこもかしこもやわらかくて、しかもカモミールのようなあまい匂いまでした。
だが、しかし。こちらを意識していない女性に誰が手を出せるのだ。
ヘタレと言われてしまえば、その通りだ。
そうでなくても手を出してはいけない人だ。彼女には彼氏がいるのだから。
「理世おまえ、普段から浮気するやつは死ね不倫するやつは地獄へ堕ちろって散々言ってるくせに、兄をそそのかそうとするなよ」
「あー……それはそうだけど、ねぇ?」
ねぇ? と亮太と思わせぶりに顔を見合わせる。いちゃつくなら部屋に行け。兄に見せるな。腹が立つ。
「そうだけど、なんだ」
「奈都さんって、なんていうか……彼氏いる子の気配? 優越感からくる余裕? みたいなのがまったく感じられないんだよね。どっちかというと、男なんてこりごりだわーって感じの諦めをそこはかとなく感じる」
「思い違いじゃないのか?」
「いやいや、りーちゃんの勘って、すっごいよく当たるんだよ。大学に清純なイメージで人気の子がいたんだけど、その子が男好きで浮気性ってことをいち早く見抜いてすぐに距離を置いたし、なん股かけてるかまで正確に当てたし」
理世はなまじ見た目がいいだけに、男も女も思惑を持って寄って来る。おかげで人を見る目が鍛えられたのかもしれない。同様にそこそこ見目のいい純誠も、これまでの経験から、自分に気があるかないかくらいならばわかるのだ。
奈都は後者だった。
少なくとも、今朝、見つめ合ったあの瞬間までは。
「ふふん。女の勘、なめるなよってこと。バレてないと思ってるのは男も女も同じだよねー。あまいあまい。わたしのその勘からいって、奈都さんはたぶんフリーだと思う。しかも結構長い間いないんじゃないかな? だからお兄ちゃんが言い寄ることを許可しているわけだし?」
友達とはいえ、口説くのにも妹の許可がいるのか。呆れてものが言えない。
そこで亮太が疑問を挟む。
「でもさー、だったらなんで彼氏がいるって嘘をつくの?」
理世は痛いところを突かれたように、う、とうなる。
「それは……わからないけど、男避けとか?」
「あ、わかった! 変質者避けじゃない? なんか変なのに狙われやすそうだし」
「どうだろう……ありえるけど、よく考えたら女のわたしにまで嘘つく必要はないし」
うーむ、とふたりが無粋な推理に励むのをしり目に、純誠は自室へと静かに戻って、鍵をかけた。
そしてサイドテーブルの一番下の引き出しを開けて、中にあったファイルを取り出し、ベッドの端へと腰かける。
ファイルの表紙、調査報告書と記されたその一枚目をめくった。
調査対象者は――匂坂奈都。
隠し撮りと思われる彼女の写真が数枚。家族構成、学歴はもちろんのこと、ライフスタイル、人間関係、趣味嗜好から、過去の恋人の経歴に至るまで事細かに調べられている。
もちろん今の恋人の名前もだ。
奈都が恋人と一緒に写っている写真が一枚だけある。色素が薄めの髪と瞳を持ち、その長身によく映える細身のオーダーメイドスーツを着こなし、小洒落た柄のネクタイを結んだ三十代半ばの男。――片瀬優一。
写真の中のふたりは、とても仲よさげに並んで歩いている。
だから理世の勘は、外れているのだ。
それをわかっていて、隠していた。
そう。純誠は、理世に紹介される前から彼女のことを知っていた。
それこそ、妹よりも詳しく。
純誠はファイルを唾棄するようにベットに放ると、両手で顔を覆ってうなだれた。
こんなはずではなかった。
ただそばで見守るつもりだった。友人として。理世のおかげでちょうどいいポジションを手に入れた。
あとは計画通りに進めるだけだった。
それなのに――。
危うくすべてを台なしにするところだった。
(いいや、まだ引き返せる)
だが、あのとき。
あのまま彼女に口づけていたら……。
そのあまい後悔が胸を焦がす。
(これじゃあ、あいつの思うつぼだ)
純誠は自嘲した。数年に一度会うか会わないかの男に呼び出された日のことを、苦々しく思い出しながら。
穏やかな昼下がりというにふさわしい午後のことだった。
純誠を唐突に呼び出したのは、生物学上の父親だった。
とはいえ純誠は認知されてもおらず、お父さんと呼んだことすらない、血の繋がっただけの赤の他人だ。
そんな相手のためにわざわざ足を運んだのは、家や会社に来られると迷惑だから。それだけの理由だった。
数年ぶりに再会したその男は、相変わらずな様子だった。
ロマンスグレーの髪をきっちり整え、歳を重ねることでさらに色気をにじませた目元と薄い唇には、いつもあまい微笑みをたたえている。ダークグレーのスーツを着て、いかにも会社役員といった優雅な風体で、長い足を組んでゆったりとコーヒーを飲んでいた。テーブルの下からのぞく革靴は、純誠の給料三ヶ月分はするだろうブランドもの。その高級腕時計は、サラリーマンの平均年収の二倍に匹敵する。
妬みはない。どうせ妻の金だろう。純誠は冷めた目でそれらを一瞥した。
母はその昔、この男の愛人のひとりだった。
妻のことを心底恐れているくせに、あちこちで若い女に手をつける最低なクズ男。庶子も純誠だけでないはずだ。
純誠が席に着くと、男は鷹揚にうなずいてみせた。
「やあ、よく来てくれたね」
「来たくて来たわけじゃない。さっさと用件を言え」
「きみはせっかちだね、久しぶりの親子の再会なんだからさ……」
男は肩をすくめた。今さらなにを期待しているのか。純誠はもうアラサーのいい大人だというのに。
それにだ。
(名前すら覚えているか怪しいくせに、なにが親子の再会だ。ふざけるな)
この男はつき合っている女性に対しても、きみ、という二人称を使う。はじめから名前を覚える気がないからだ。それはよそに作った子供に対しても同じだった。
「用がないなら帰る」
純誠が席を立ちかけたところでようやく、彼は本題に入った。
「優一に、恋人がいるらしいんだ」
「……は?」
(だから?)
「優一というのはきみのお兄さんでね」
「いや、それは知ってる」
純誠は優一という義兄の存在は知っていたし、大昔に一度だけだが偶然見かけたこともある。
白皙の美少年というにふさわしい容姿の、学生服を着た少年だった。周りはみんなふり返って彼を陶然と見つめていたが、まだ幼かった純誠は、彼のあまりの感情のなさに恐れおののいた。
あの人形のような、精気のまるでない目をした人が自分の兄かと、子供ながらに愕然としたものだ。
あのときのあの少年が大人になって、誰のことも映していなかったあの瞳が、この世界でたったひとりの大切な女性を見つけたのなら、それは喜ばしいことではないか。
だがそれと純誠が呼び出されたことと、一体どんな関係あるのか。
まさか世間話をするために呼んだわけではないだろう。続きを促した。
「それで?」
「妻が言うんだ。その女は、優一にふさわしくない、と」
この男は未だに妻のしりに敷かれているのか。
それなのに妻の目を盗んでは、やりたい放題、あちこちに種を蒔いて回っているのだ。
これを御せるのは妻だけなのに、なぜもう少し厳しく手綱を握れないのだろうか。こんな年中盛りのついた犬を放し飼いにしている意味がわからない。さっさと去勢して室内飼いにしなければ、純誠のような子がまた増えるだけなのに。
「妻に、なんとか穏便に別れさせるように言われたんだ。しかしね、手切れ金を渡して別れるよう迫れば、ますます二人の気持ちが盛り上がってしまうだろう? 障害があるほど燃え盛るものだ。きみにも覚えがあるんじゃないか?」
ないな、と思ったが、純誠は反応しなかった。男はお構いなしで話を続ける。
「それでね、私は考えたんだよ。相手の女に優一の代わりをあてがってあげればいいんじゃないかな、と。だが他人に頼んで、逆に弱みにつけこまれてこちらが脅されても困る。それに優一に少しでも似ていないと、その女も靡かないだろう?」
だからね――?
長ったらしい前置きをして、男は信じられないことをさらりと言ってのけた。
「優一の彼女を、寝取ってくれないかな?」
血の繋がった赤の他人 名前は決めてない