消えたナイフ
潮風がユカの髪を乱す。
係長が警察に連絡をとっているのを見ながら、ユカは喫茶店アップルの前の歩道でしゃがみこんでいた。
さっきから体の震えが止まらない。
「鈴部さんはここにいて」
電話を終えた係長はそう言い残し、速足で再びアップルの中に消えた。ユカの表情から受けたショックを見て取り、気づかってくれたのだろう。
ユカは係長の言葉に素直に甘えた。
しばらく潮風に吹かれていると、気持ちがしだいに落ちついてきて、ひたいのイヤな感覚もやわらいできた。
――あの声って……。
あのときたしかに、レジのあたりから女性の声が聞こえた。
意味はわからない。
だがその声で、マスターがレジの中にいることがわかった。
――でも、どうして?
なぜか、そこには声の主がいなかった。
常識では考えられないことだ。
なによりも声の主は女性だった。マスターのものならまだしも……。
――そら耳?
いや、はっきり聞こえた。
声を聞いてレジの内側をのぞいたのだ。
さらに、あのとき感じたイヤな感覚。
――霊感?
ユカはこのときはじめて思った。
自分だけが感じるイヤな感覚――智子の言う妙な体質というものが、世間で言われるところの霊感なのではないかと。
――だったら、どうして市役所の地下でも?
そもそもイヤな感覚の出る場所は市役所の地下に限られていた。だからユカは、それがホコリアレルギーだと思っていた。
――女性っていえば……。
肖像画の女性に、なにかしら引っかかる違和感のようなものを覚えた。
――なんだろう?
絵のどこかが、どこだかわからないが、前に見たときとちがうような気がしてならない。
「顔色が悪いみたいだけど?」
声をかけられて、ユカはハッと顔を上げた。
いつかしら係長がもどってきて、ユカの横に立っていた。
「いえ、だいじょうぶです」
うなずいてみせたが、足が固まったようになって動かない。
「ほんとにだいじょうぶ?」
「足がしびれちゃって」
ユカはひざに手をそえると、ヨイショッとかけ声とともに立ち上ったのだった。
十数分後、数台のパトカーが到着した。
喫茶店アップルの周辺は黄色の規制テープで封鎖され、さっそく刑事たちによって捜査が始められた。
ヤジウマが遠巻きに取り囲み、商業地区マリンは一転してものものしい雰囲気となった。
帰りの公用車の中。
係長が現場の詳しい状況を教えてくれた。
マスターの首の後部には、ナイフが刺さった状態で残っていたそうである。
――そうだ!
あのときユカが感じた違和感――絵のどこかが前に見たときとちがう。それがなんなのか、凶器がナイフだと聞いて気がついた。
――果物ナイフだわ。
絵の中の女性は、むきかけのリンゴを左手に持っていた。たしか前に見たときは、もう一方の右手には果物ナイフがあったはず。
だからリンゴをむく女なのだ。
それが今日、女性の右手から果物ナイフが消えていた。そして凶器はナイフである。
「ナイフって、もしかして果物ナイフでした?」
「そうだよ。でも鈴部さん、そこのところは見てなかったはずじゃ? よくわかったな」
「なんとなく」
ユカは言葉をにごした。
絵の中の果物ナイフが消えていた。
そのことがマスターの殺されたことに関係あるのでは――そんなオカルトのような話、だれも信じやしないだろう。
それにだ。
絵に描かれた果物ナイフが消える。そんな摩訶不思議なことが現実にあろうはずがない。
――見まちがいだったのかも。
ユカは自信がなくなってきた。
――そうだわ、智子に。
今晩、智子と会う約束をしている。このことを智子に確認してみようと思った。
「鈴部さん、そうとうショックを受けたみたいだったな」
「あんなの見たの、はじめてだったから」
「ボクもさすがにね」
「それで中に入るなって?」
「見たら、メシが食えなくなるだろ」
「おかげでお昼、なんとか食べられそうです」
「いや、おせっかいだったかもしれんな。鈴部さんの場合、なにがあっても食べられそうだから」
係長がいたってまじめな顔で言う。
「まあ、ひどい。これでも年ごろの女の子なんですからね」
ユカは思い切りにらんでやった。
とたんに、おなかがグーとはでに鳴る。
腹の虫が、色気より食い気だと異議を唱えたのだ。