喫茶店アップル
ユカは公用車でアップルに向かっていた。
運転をしているのは直属の上司、ユカが日頃から世話になっている佐藤係長である。
決裁の結果。
マリンの代表には面接して話すことになる。
喫茶店の予備キーのないことは、前もって係長が電話で伝えてくれていた。
「電話じゃ、立ち合ってほしそうだったけど」
「鍵をこわして開けるんですね?」
「みたいだな」
鍵がなければほかに入る手立てはない。
マスターは用あって不在の可能性もあり、開けたことがのちに代表の責任問題にもなりかねない。店の中に入ったことは市も了解してのことだ。
代表はそうした証文がほしいのだろう。
とはいっても、代表は善意で動いているのだ。マスターに本当になにごとかあるとしたなら、それどころではすまされないのだから……。
ミニ商業地区マリンは、市役所から西に向かって車で十分たらずの距離にあった。
駐車場が整備されているので、車で行く者にとっては都合がいい。さらに街並みは整然としており、海が眺望できる景観も申し分ない。
こうしたことから、若者たちをターゲットにしたファーストフード店、ジーンズショップ、レンタルビデオ店、写真館、喫茶店など、三十店舗ほどが倉庫を改装して出店していた。
待ち合わせの時間、十一時。
ユカたちが到着したとき、すでに代表は喫茶店アップルの前で待っていた。
代表が笑顔で歩み寄ってくる。
六十歳ぐらいだと聞いていたが、顔も頭も年齢よりずっと若く見える。レストランを出店しており、当初よりマリンの代表をしているそうだ。
信頼の厚い人物というのが智子の見立てであった。
海からの風が強い。
ユカの長い髪が風に乱れて顔の前で舞った。
巫女のときはうしろでたばねるが、普段はそのままにしてあるので、こんなときはうっとうしい。
「悪いねえ、わざわざ来ていただいて」
「いえ、なんのお役にも立てませんで」
係長が頭を下げてわびる。
「すみません」
ユカも髪をかきあげて頭を下げた。
「じつは予備キー、ほかにはなかったんだよ。うちの店もそうだからね」
代表が苦笑いを浮かべる。
「どうもそのようですね。で、アップルさんのことなんですが」
係長がそれとなく喫茶店に目を向けた。
「なぜか明かりがついたまま、もう三日も閉められたままなんだよ」
「旅行とかは考えられませんか?」
「ひと月ぐらい前も、三日ほど店を閉めたことがあるんだがね。そのときは旅行だと、店のアルバイトの子に告げてるんだ。それが今回は、なにも聞いてないそうだ。旅行なら、ひと言ぐらいあるだろうに」
「ですね」
係長がうなずいてみせる。
「そもそも、そのアルバイトの子から連絡があったんだ。マスターからなにか聞いてないかってね」
「そうでしたか」
「そのうちひょっこりということもあるんで、気にかけてはいたんだよ。ところが、夕べの会合にも顔を見せなくてね。これはもう開けてみるしかないだろうと思って」
代表はきびすを返すと、カーテンの閉まった玄関のドアに歩み寄った。
係長があとに続く。
ユカは歩道側の窓からのぞいてみた。
レースのカーテン越し、窓ぎわの各テーブルに下がった電灯に、明かりがほんのり灯っている。暗くなれば、その明かりが外に漏れ出るのであろう。
代表の背中に向かって、係長がたずねる。
「どうされます?」
「ガラスを少しだけ割って、鍵を開けるつもりなんだが、私だけでやるのもなんだかね」
ドアの開かないことを教えるように、代表はノブをガチャガチャとまわしてみせた。
「それしかないみたいですね」
「できれば割りたくはないんだが」
代表は顔をしかめてみせ、ポケットからドライバーを取り出した。電話で話していたとおり、はなから割る腹づもりだったようだ。
ドアの上半分には、格子状の枠が二十センチほどの間隔で入っている。
腰をかがめた代表が、ドライバーの先端をノブの横の一画に打ちつけると、ガラスは音をたて容易に割れた。
続いて残った破片もたたき落とした。
代表がくり抜かれた枠からのぞく。が、すぐに体を横にずらし、あんたも見てくれ――そういった表情をした。
係長がうなずいてのぞく。
「べつにおかしなところはないみたいですが、どうされます?」
「入ってみるしかないだろうな」
代表は割れた格子から手を入れて内鍵をはずし、ドアを引き開けて店の中に足を踏み入れた。
あとを追うように係長とユカも入った。
店に入って五歩ほど進んだとき、ユカはおでこのあたりがいきなりムズムズとしてきた。
――ホコリ?
密閉された部屋のよどんだ空気のせいで、ここでもホコリアレルギーが出たのだと思った。
その場で立ち止まり、いつものようにひたいに指を押し当てる。
と、そのとき。
ここよ、と声がかすかに聞こえた。
――えっ?
ユカは振り向いて玄関に目を向けた。
ドアは閉められたままである。
「ここから出して」
再度、か細い声がした。
それはレジのあたりからで、声音からして女性のようだった。
レジに視線を移してドキッとする。
奥の壁に飾ってある肖像画の女性としっかり目が合ったのだ。
――まさか?
レジに歩み寄ってみた。
そしてカウンターの内側をのぞいたとたん、ユカはおもわず悲鳴をあげていた。
「きゃあー!」
そこには首のあたりを血まみれにした男がいた。顔のひげからしてマスターにまちがいない。
マスターは壁に背をもたれ、狭い場所にうずくまるように座り込んでいた。両腕はだらりと下がり、V字に広げた足が床に投げ出されている。
――死んでる。
直感的にそう思うと同時に、足が勝手にあとずさりを始めた。
店の奥にいた代表と係長が走り寄ってくる。
「そこ……」
ユカはレジを指さした。
「おう」
「あっ!」
二人もそろっておどろきの声をあげる。
「警察に!」
すぐさま代表が叫んだ。
「あっ、はい」
ケイタイを取り出しながら、係長が店の外にとび出していく。