事件発生の朝
転送のタイムリミット、十時が近づきつつあるというのに、転送済マークのないメールがひとつ、いまだうらめしそうに残っている。
転送すべき部署がわからないのだ。
そのメールはミニ商業地区マリンの代表者からのもので、『喫茶店アップルを開けたいのだが、予備の鍵はどこが管理しているのか教えてほしい』という趣旨の問い合わせだった。
鍵が紛失したのではない。
ここ三日間ほど明かりはつきっぱなしだが、店は閉まったままで人影らしきものを見ない。経営者も月例の会合に出てこない。なにごとかあっているのではないか、確認のため店の中をのぞいてみたいということらしい。
ユカは喫茶店アップルのことを知っていた。友人と二度ほど行ったことがあったのだ。
――ヒゲだらけだったな。
店主の顔が思い浮かぶ。
店主のマスターは四十歳前後、顔じゅうヒゲだらけだったのを、今でもはっきり覚えている。
店の中は広く、窓側には十セットほどのテーブルがあり、それと向き合うように長いカウンター。なかでもとくに印象に残っているのは、レジの奥の壁にかけられた一枚の大きな肖像画であった。
その絵には等身大の若い女性が描かれており、その女性は丸テーブルを前にして座っていた。そしてテーブルにはフルーツの盛られたお皿があり、彼女の手にはむきかけのリンゴがあった。
リンゴをむく女。
これが絵のタイトルで、表題の書かれた紙が額縁の下に貼られてあった。
絵全体の色調は暗いが、中央に描かれた女性だけは浮き立つように目についた。レジの中に店員がいないときでも、そこにはだれかがいるような……そんな錯覚すら覚えたものだ。
喫茶店アップルは、港の隣接地――市が行った再開発事業により整備された地区にある。
その地区は戦後ながらく貨物船の荷揚げ場として栄え、いくつもの大型倉庫が立ち並んでいた。それがのちに隣接する海岸が工業地帯の用地として埋め立てられ、新しい港が建設されるにともない、それまでの荷揚げの場としての拠点を失った。
その後しばらく、利用されなくなった空き倉庫はそのまま放置されていた。それが十年ほど前、市の再開発事業により周辺の道路網や下水道が整備され、今のミニ商業地区へと生まれ変わる。
このとき倉庫は耐震工事のほか店舗用として内部が区分されたが、外観はほぼそのままの状態で残されることになった。レトロ風の街並みを残したいという市民の声と、経費節減をめざす市側の思惑が合致したのである。
現在は三十店舗ほどが入居しており、内部の改装は借り主の趣向にいっさい任せられていた。
こうしたことから、再開発事業を行った市に問い合わせが来たのだろう。
――海運会社かしら?
ユカはそう思った。
場所が港湾地区の一部にあるのだから、土地の所有は国もしくは県であろう。で、土地はともかく建物の所有者は、以前に使用していた海運会社のように思われたのだ。
――それともうちかしら?
再開発事業は市が施工したので、管理は引き続き市が行っていることも考えられる。ただ、事業には企画課をはじめ都市整備課や建築課など、いくつもの部署がかかわり合っていた。
どの部署に転送すべきか迷って当然である。
ユカはパソコンの時計を見た。
タイムリミットの十時まで、あと十分たらずとなっていた。