幸子おばさん
幸子は若くして家を出ていたので、ユカが顔を合わせるのはまれである。とくに祖父が亡くなり、ユカがアパートに移り住んでからは、会うことがめっきり減っていた。
住まいは町の中心部を南北に走る大通りに沿ってある繁華街。JRの駅にほど近い、マンションの二階に独りで住んでいる。
占いの店は一階にあり、入り口に「占い」とだけ小さな看板が出ている。よく当たるというウワサを聞きつけ、わざわざ遠くの町から電車で訪ねてくる者もいるそうだ。
そのマンションにユカは、母に連れられ何度か訪れたことがあった。しかし店の方には、かつて一度も入ったことがない。そこが神聖な領域のように思われて近寄りがたかったのである。
その思いは、ユカが勤め始めてからも変わることはなかった。
まれに夜、飲み会などの行き帰り、店の前を通ることがある。けれど明かりのついた看板を見ても、決して店に立ち寄ることはなかった。
とはいえ……。
幸子そのものは、ユカにとってはいつだってステキなおばさんだった。
見かけは若々しく、会えばいつも話がはずんだ。姉妹でも性格は母親とは正反対で、幸子には夢を語るようなところがあった。
父から耳にしたことだが……。
幸子が占いの仕事を始めたのは、婚約者を交通事故で失ってからである。決まった占い師にもつかず、ほとんど独学で占いのことを習得して、現在の場所に今の占いの店を開いたそうだ。
当初、美子は反対したという。神社の娘がそんなまやかしみたいな商売をと言って。
ただ祖父は、幸子の不幸な境遇を思ったのか、店を開く資金の一部を出したどころか、その後の生活費なども援助していたらしい。
わずか二年ほどで、幸子は占い師として自立していけるようになった。そして美子も、そのころから口を出さなくなったらしい。
こうしたことがあって……。
今の幸子と、今の占いの店があるという。
夕方六時前。
市役所を出たユカと智子は、幸子の待つマンションへ徒歩で向かった。仕事帰りの人混みのなか、十五分ほどでマンションの下に着く。
「あそこよ」
ユカは占いの店を指さして教えた。
今日は休みなので、店の明かりは消えていた。
「こんな近くにあったんだ」
智子はわざわざ店の前まで行って、頭上にある「占い」と書かれた看板を見上げた。
二階へはエレベーターで昇り、見覚えのある玄関のブザーを鳴らした。
「いらっしゃい、ユカちゃん」
ドアを押し開けた幸子がニコニコと、二人を笑顔で出迎えてくれる。
Tシャツとズボンに、花柄のエプロンを着けた幸子は、およそ占い師には見えない。五十を迎えた美子より三歳ほど年下のはずだが、四十歳前後といってもおかしくない。
「電話で話した智子よ」
ユカは振り向いて、背後に立つ智子を紹介した。
「こんばんは。すみません、せっかくのお休みの日なのに」
智子がペコリと頭を下げる。
「いいのよ、気にしないで。さあ上がって、もう食べられるのよ」
幸子に導かれた二人は、こじんまりとしたキッチンに通された。
「焼肉にしたの。若い人は、お肉がいいのかなと思って。さあ、好きなところに座って」
すでに食卓の上には、キャベツやピーマンなどの野菜が切りそろえられ、いつでも食事が始められる準備がなされていた。
「すみません。夕食までゴチソウしていただいて」
智子がしきりに恐縮する。
「いつも一人だから、あなたたちと食べるの、とっても楽しみにしてたのよ」
冷蔵庫の扉に手をかけた幸子が、「ねえ、二人ともビール飲むでしょ」と言って振り向く。
「うん、飲む」
「はい、いただきます」
二人の好みは甘いものだけではない。アルコールもいけるクチなのだ。
幸子は缶ビールを二人に手渡すと、肉の盛られた皿を食卓に置き、自分も席に着いた。
「おなか、すいてるでしょ。占い、食べたあとでゆっくりやろうね」
食卓が小さいので、幸子の顔がユカの目の前になる。
――おばあちゃんにそっくり。
薄化粧の幸子は姉の美子より、むしろアルバムの中の祖母に似ていた。
――占い師のときって、どんなだろう?
ユカにとって幸子は、いつもおばとしての幸子であり、占い師として接したことはない。
占いの店にいるとき――そこには、ユカの知らない占い師としての幸子がいて、客の未来を占っているのであろう。
ホットプレートのスイッチが入れられ、肉と野菜が手際よくのせられてゆく。
「幸子おばさんって、占いの店じゃ、どんな服装をしてるの?」
ユカはたずねてみた。
「それなりにそれらしくってところかしら。ただ、巫女の格好じゃないことだけは確かよ。若いときずいぶん着せられて、着あきちゃったからね」
幸子が笑ってみせる。
「幸子おばさんも、子供のころから巫女をさせられてたんだ?」
「そうよ、家を出るまでだったけどね。ずっと、イヤでしょうがなかったわ」
「あたしはね、家を出ても、いまだにさせられてるのよ。お母さんに呼びつけられて」
「わたしの場合、お姉ちゃんがいたからそこですんだの。ユカちゃん、ひとりっ子だから……」
ユカに同情してから、幸子は続けた。
「お姉ちゃんね、神社を継ぐの、すごくイヤがってたの。でもね、わたしがさっさと家を出てしまったでしょ。それで自分が継がなくちゃって」
幸子の言葉から……。
これまでユカの知らなかった、母親の苦い過去がかいま見られた。神社を継ぐと、はじめから決めていたのではなく、そこに至るまでに母なりの自己犠牲があったようだ。
「だから、今でもすまないって……」
妹は妹で、姉にずっと負い目を感じながら、かたや恩を感じながら生きてきたのであろう。
――そうだったんだ。
美子は自らも神主の資格を持ち、康二とともに神社の行事をソツなくこなしている。そんな姿から、当時のことは想像もつかなかった。
「お母さんが継いだの、鈴部家の長女だからって、ずっとそう思ってた」
「ううん、そうじゃないの。おばさんが継ぐことだって、やろうと思えばできたんだからね。それにいざとなれば、だれも継がないことだってね」
そうした事情があったとしても、母親への不満がすんなり収まるわけではない。娘に対し同じイヤな思いを背負わせ、同じイヤな道を歩ませようとしているのだから。
「だったらお母さん、あたしには押しつけなきゃいいのに」
ユカはつい不平をこぼした。
「じゃあ、ユカちゃんは神社を?」
「そうなの。プレッシャー、かけられっぱなし。あたしにも養子をとれって」
「苦労するね、ユカちゃん」
「うん」
ユカはひとつ大きな息を吐いた。
現実から目をそむけていられるものなら、いつまでもそうしていたい。だが母親を説き伏せるには、それなりの覚悟と労力を必要とする。
ならせめて、結婚相手ぐらい自分で決めたい。
そう思っていた。




