喫茶店アナグラで
翌日、ユカは仕事が手につかなかった。
心ここにあらずで、考えごとをしているかとおもえば、メモ帳を取り出しては何度も読み返していた。
――なんて思われるかしら?
不安ばかりが先に立ち、心中なんともおだやかでない。ため息ばかりがもれ出た。
昨晩のこと。
小寺に連絡して会う約束をした。その小寺の声がはずんでいただけに、オカルトのような話をして、彼の期待を裏切るのが怖かった。
おばの幸子にも連絡をとったが、こちらはため息の出るようなことはない。
「じゃあ、来週の月曜日にしようか。お店、お休みだから。晩ごはん、用意しとくからね」
幸子は快く承諾してくれた。
そのあと、智子にも電話を入れた。
来週月曜日の夜六時、幸子のマンションに行くことになったと……。
夕方、六時過ぎ。
ユカは指定された喫茶店――アナグラのドアを押し開けた。
頭上でガランガランと鈴が鳴る。
店内は名前そのもので奥に向かって細長く、しかも窓がひとつもなく薄暗かった。期待と不安の入り混じった、なんとも複雑な心境で足を踏み入れた。
カウンターに丸イスが並んでいる。通路をはさんだ壁側にはいくつかのテーブルがあり、半分ほどの席はサラリーマンらしき客で埋まっていた。
小寺は入ってすぐのテーブルにいて、ユカの姿を認めると笑顔で立ち上がった。
「お疲れさま」
手招く小寺はTシャツ姿。
昨日とはずいぶん印象がちがって見えた。
「待った?」
ユカは笑顔を返し、それから小寺と向き合うように席に着いた。
「それほどでもないよ。それより、こっちこそすまないな。こんなところに呼び出して」
「暗いね」
「酒も飲めるんだよ」
「そうなんだ」
カウンターの奥の棚には、アルコールのボトルがずらりと並んでいた。カウンターの席ではビールを飲んでいる客もいる。
「食べた?」
「ううん。仕事、さっき終わったから」
「忙しいんだな」
「そうでもないんだけど、なかなかきっちり終わらなくてね」
仕事が定時に終わることはまれである。
だが今日のユカは、それとは別のことで時間をとられていた。おもいきり気合を入れ、いつになく念入りに化粧をしていたのだ。
「じゃあ、なんか食べるだろ? 話をするのは、そのあとゆっくりでいいからな」
「うん」
小寺の気づかいがうれしかった。昔の同級生として話したい――昨晩の電話のとき、そのように伝えてあったのだ。
「オレも食べようと思ってたんだ」
小寺がメニューをユカに渡す。
ユカは悩んだあげく、腹の虫の意に反し、ミートスパゲティを選んだ。
相手が智子なら、もっとボリュームのあるものにしたであろう。だが目の前にいるのは小寺で、もしかしたら運命の人になるかもしれない。その乙女心が、いつになくひかえめな選択をさせていたのだ。
「マスター、ミートスパゲティとカツカレー」
小寺の声に、カウンターの中のマスターがうなずいて返す。
この喫茶店では、小寺はなじみの客となっているように見えた。
「小寺君って、ここによく来るの?」
「いつも昼メシを食いにな、職場に近いから」
「あたしはね、ほぼ毎日お弁当」
「すごいな」
「どうして?」
「だって、朝早く起きて作るんだろ」
「ううん、お弁当屋さんの出前」
「なんだ、感心して損したな」
小寺が白い歯を見せて笑う。
「失礼ね」
ユカも笑った。
笑いが収まったところで、小寺がユカを見つめて唐突に言う。
「きれいになったな、鈴部さん」
「えっ?」
一瞬、頭の中が白くなる。
会っていきなり、そんなことを言われるとは思いもしなかった。
「いや、中学のときとは別人みたいで」
「それって、よほどブスだったってこと?」
ユカはわざと、ひねくれた言い方をしてみせた。
「とんでもない」
「じゃあ、ほめてくれたの?」
「もちろんだよ」
「お世辞抜きで?」
「ああ、思ったままを言っただけだよ」
小寺があたふたしている。
ここまで言わせれば、ユカとしては十分に満足である。
「本気にするからね」
「よかったよ。オレ、ひどいこと言っちゃったのかと思って」
「でも、小寺君も変わったよ。昨日、だれだかわかんなかったもの」
「オレ、中学のときは丸坊主だったからな」
「そうだったかしら?」
同じクラスだったとはいえ、小寺とはほとんど話すことがなかった。だから髪型まで記憶にないのは当然である。
「部活、剣道をしてたんだ。それに家がお寺だったんで、オヤジのヤツが髪型にうるさくてね」
「そう、小寺君の家ってお寺だったよね。そのことだけはよく覚えてるの。うちも神社だったから」
「そのことだけ?」
「名前もね。寺という字がついてるから」
「そうなんだ」
小寺がいかにもがっかりという顔をする。
「ごめん。あたし、女子校だったから」
女子校に進んだからといって、中学時代の同級生を忘れる理由にはならない。
そのことに気づき、ユカはあわてて弁解をした。「でも、小寺君だけじゃないのよ、覚えてない人。ほかにもいっぱい……」
「気にすることないよ。思い出してもらえただけでありがたいんだから」
「お礼、あたしも言わなきゃね。顔まで覚えてもらえてたんだから」
「白状するとね、あの日たまたま見かけて、鈴部さんなんじゃないかと。あとで名前を確認したら、やっぱりそうだったんだ」
「事件のあった日?」
「ああ。捜査でオレも、アップルに行ってたから」
「じゃあ小寺君、カンニングしたんだ。それってズルイよ」
「ごめん。もし、ちがってたらと思うと……」
「かんべんしてあげる。さっき、お世辞でもほめてくれたから」
「お世辞じゃないって」
「いいのよ、そんなに気を使わなくても」
「いじめられっぱなしだな、さっきから」
小寺が苦笑いする。




