リンゴをむく女
沈黙のあと、智子がおもむろに口を開く。
「その霊も、ふた通り考えられてよ。ひとつは死んだ人の霊。この霊は肖像画の女性のものね」
「リンゴをむく女か……」
「そう、モデルになった女性よ。なにかわけあって死んで、霊が絵から離れられずにいるのよ」
「怖いね」
「怖いどころじゃないよ。絵から出てきて、果物ナイフでマスターを刺し殺したんだから」
「そんなのありえないよ」
「たしかに現実にはね。でも前に読んだ本にあったんだけど、そういうこともあるらしいの」
「ほんと?」
「可能性がなくはないってことよ」
「だけど、おかしいと思わない?」
「なにが?」
「あのとき、出してって声を聞いたのよ。それって自分じゃ、絵から出られないってことじゃない?」
「そっかあ、あの女性は絵から出られないのよね。出られなきゃ、マスターを殺せないってことになる」
「でしょ」
「わかんなくなってきた」
智子がお手上げのポーズを作ってみせる。
「ねっ、次いこう。それで、もうひとつは?」
「生霊よ。この世に実在する、生きている人の霊ってことになるかな」
「生きたままの霊ってあるの?」
「ほら、ワラ人形に五寸釘を打ちこんで、遠くにいる相手を呪い殺すって、あれよ」
「じゃあ、画廊のオーナーの妹?」
ユカはすぐに思いあたった。
「その線が強いわね。でも、まだマスターとの関係がわかんないから」
「仮定として書いとく」
二、絵に手が加えられていないケース
A、絵が差し替えられた(目的は不明)
B、絵に塗りつぶしたあとがない(霊が関係していて、その霊はふたとおり考えられる)
ア、死霊(モデルの女性。絵から出られない)
イ、生霊(宮山メグミ。マスターとの関係不明につき仮定)
ユカはペンを走らせ、第二のケースを書き終えた。
「こんなふうに項目ごとにまとめると、すごくわかりやすいよね」
智子がメモをのぞいて言う。
「でも二番なんか、あたしたちの妄想よ。だって、現実にはありっこないもの」
「ううん。どちらかと言えば、あたしはそっちだと思うの。もともとユカが、ありえない声を聞いたことから始まったんだもん」
「そうだけど……」
ユカは大いに不満であった。
二番目のケースを認めること。
それは自分の特異体質――霊感のあることを認めることになってしまう。
「ユカって、やっぱり霊感があるのよ。それも強い霊感がね」
智子があらたまった顔で続ける。
「ほら、巫女をしているでしょ。もしかしてそれでかもよ」
「声が聞こえたのが?」
「うん。巫女ならあるかもって、そう思ったの。恐山の巫女みたいにね」
「うちの神社、そんなんじゃないんだけど」
「似たようなものなのよ。知ってるでしょ、巫女の口を借りて、霊がしゃべるっていうの」
「でもあれって、巫女が霊を呼び出してたんじゃなかった? あたしは呼んでないもの」
「信じなくてもいいけど、声が聞こえたってことは事実でしょ。それも密室でね」
「だけど……」
「呼び出しもしないのに霊が声をかけてくる。ユカはね、それだけ霊感が強いのよ」
「声なんて、かけてほしくないんだけど」
「ほっといたらいいのよ」
「でも、やっぱり気になるわよ」
「無視すればいいの。その霊だって、メッセージを伝えたいだけなんだから。ユカを媒体にしてね」
「あたし、霊に利用されてるってこと?」
自分が霊の交信の媒体。
そう考えただけで鳥肌の立つ思いがする。
「霊にとって、ユカは大切な存在。だからね、ユカには悪さしないの」
「なら、ちょっと安心」
たしかに、これまで霊に悩まされたことはない。
ひたいにムズムズとする感覚――これが霊のしわざだとしても、その場所は市役所の地下に限定されており、ふだんの生活になんら支障はなかった。
「霊感なんてなくなればいいのに」
ユカは気を取り直すように言ってから、智子のおなかを指さした。
「そこにくっついてる脂肪みたいにね」
「あら、言ったわね。できるものなら、あたしだってこんなのない方がいいわよ」
腹のタルミをつかんでみせ、智子は吹き出すように笑った。
それからあらたまった顔で言う。
「ねえ、ユカ。小寺君がユカの話を信用するとしてもよ、警察のほかの人たちはどうなのかしら?」
「わかんないけど、そこは小寺君しだいかも。捜査にてこずってるそうだから」
「そんなことまでユカに話したんだ」
「同級生のよしみで、こっそり話してくれたんだと思うけど」
「それで、てこずってるって?」
「アップル、密室だったでしょ。だからって」
「そうなんだよねえ。今度のことって、アップルの鍵を開けるところから始まったんだもん」
「それがとんでもないことに」
ユカはうんざりという顔で、つい大きなため息をもらしていた。
「ユカ、たいへん!」
ねぎらいの言葉かと思いきや、智子は呼びボタンをたたいて言った。
「チョコパフェ!」




