火出したるもの
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
うわっ、こーちゃん。その鍋、いくらなんでも使い込み過ぎでしょう。
色の変わり目で、いつもどれくらいの「かさ」で水を沸かしているのか、もろ分かりとかちょっとねえ。自分しか触れない、使わないの腹積もりだろうけど、熱の伝導率とかにも関わってくるって聞いたことあるよ。ストレスフリーにいきたいんだったら、少し考えてもらえると嬉しいかな。
それにしても人間って、本当に色々な道具を作り出してきた物だね。鍋とか包丁とか、同じ分類の中でも、名前や形も全然違うものがあるでしょう? ただ作り出すだけでも大変なのに、それを用途に応じて様々に変化させちゃうんだから、効率の追求って生命の本能なんだろうね。
そして、効率はお金で買うことができる。快適な生活をしたかったら、お金は使うべき時に使った方がいい。加えて、値が高いものに遠慮なく踏み込むべきだね。安物買いのなんとやら……もしくは、もっと怖いものに出会うかも知れないから。
ちょっと僕の実家であった話、聞いてみないかい?
僕の地元は、つい最近まで薪や練炭とかが火をおこす立役者だった。けれども、インスタント食品もろもろとかで、頻繁に火を扱うようになってくると、とうとうプロパンガスを扱うことに決めた。
知っていると思うけど、プロパンガスはそれぞれの会社が、自由に価格設定できる仕組みになっている。相場はあるものの、その気になれば無知なる消費者に、ぼったくり価格を吹っかけて、搾り取ることも可能。
僕の母さんは、値段に関してはうるさい人。年ごとのガス代の経過をしっかりと監視しているし、値上げ通知にも敏感。他の会社と比べて高くなるところがあれば、あっさり切り捨てた。おかげで家の壁につけられているガスタンクは、よくその格好を変えていたよ。別の会社のものにね。
そんな母親の徹底ぶりが功を奏したのか、ついに値段が安いまま、ほとんど上がらないガス会社と契約を結ぶことができたんだ。相変わらず、毎年毎年監視はしているのだけど、ほとんど値上がりせずに、今までの最安値をキープし続けている。たとえ、よく消費することになる、冬でもだ。
火力も抜群で、お湯を沸かす時間が今までよりもずっと早くなった気がした。インスタントのスープやラーメンを食べる僕としても、願ったりかなったりな状況。僕は母親の英断を喜んでいた。
数年後の、ある日の昼を迎えるまでは。
学校が思いがけず早く終わった僕は、すぐに自宅へ駆け戻った。今朝、出かけて遅くなると親が話していたとおり、家には誰もいない。
買い食いは禁止されている身の上。お金は緊急連絡用の十円玉くらいしか、学校に持って行っていなかった。
家に着くやランドセルを放り出し、財布をひっつかむと、近くのスーパーマーケットへ走る。新発売の大盛りカップ焼きそばを堪能するためだ。
日を改めて、何回か食べるつもりだった僕は、一気に五つ。おまけにお菓子とジュースも入れた買い物袋を提げて、台所に飛び込んだ。
戸棚から、いつもお湯を沸かすのに使っている、ゆきひら鍋を取り出す。その底は、一部がすっかりはげてしまっていた。
以前にレトルトカレーを水に入れたまま火にかけていた時、ちょうど手が離せない事態に見舞われ放置したため、水が蒸発しつくしたのだ。カレーの袋と鍋底がくっつき、肌をはがす羽目になった惨劇。その傷跡だった。
それからの僕は、できる限り火元から離れないようにしたんだ。誰に何を言われようが、お湯が沸いて目標にしっかり注ぐまで、その場を離れない。じっと立ち尽くして、鍋肌にくっついた気泡が浮かび上がっていくところを、つぶさに見張っていたんだ。
水を入れた鍋をコンロに乗せる。火をつけようとスイッチを押すのだけど、「チチチチ」と音がするばかりで、後に続くはずの青い炎は、一向にせり上がって来ない。
スイッチを切って、ガスの元栓を調べる。確かに開いているのを確認した。
ガスが止められるという事態だったら、過去に何度かあった。でもその場合は、ガス会社から電話がやってきて、すぐに利用を止めるよう言われる。もしくはガスメーターについている、復帰ボタンを押すように指示された記憶があったんだ。でも今回、電話は入ってきていない。
あと考えられるとしたら、ガスボンベが空っぽになってしまっていることだけれども……電話でこちらのガスの使用量が分かる人たちが、ガスボンベが空になっていることに、気づかないことなどあり得るのだろうか?
うちにセットしてある二本のボンベ。そのどちらもが、すっからかんになってしまうまで。
僕はとうてい信じられず、家の裏手にチェーンで縛られた、ガスボンベたちを見に行った。親にはボンベを動かすなと言われたけれど、楽しみにしていた焼きそばを食べられるかどうかの瀬戸際。躊躇していられない。
僕は縛られたボンベの片割れを、抱えるこむようにして左右にぐらぐらと揺らしてみる。かすかに水音がしたような気がした。
重いかどうかで判断しようにも、ボンベ本体の重さがどれほどのものか知らない。ただ、それなりの重さがある、くらいしか判断できなかった。つまり僕のやっていたことはお利口さんを気取った素人による、憂いの「ポーズ」でしかなかったわけ。
形の上での心配な態度をとって、自己満足する僕。それでも最後に、ボンベをもうひと揺すりしたんだ。
「きゅ〜っ」とおならとお腹の虫を、足して二で割ったかのごとく奇妙な音が響く。確かにボンベからした。僕が耳を当ててみると、中で「シュー、シュー」と煙を吐いているような音が、とぎれとぎれに聞こえてくる。
壊した。僕は反射的に、そう思った。
ならば、知らんぷりしておくに限る。誰か他の人が気づいた時、初めて知ったような顔をして、被害者面すればいい。疑いが僕に降りかかるなんて、死んでもごめんだ。
でも、僕は焼きそばをあきらめきれない。台所に戻るともう一度、ガスの元栓を確認。スイッチを押した。
ついたんだ、火が。あの見慣れた青色の火が、なめるようになべ底全体に広がっていく。ほっと僕は胸をなでおろした。
けれどその安心は、ものの数秒でかき消える。青い火たちは、まるでピストン運動するかのように、ガス口となべ底の間で、出たり引っ込んだりを繰り返し始めたんだ。
火がなべ底に触れるたび、ジュッ、ジュッと油が跳ねるのによく似た音が響く。これほど変な当たり方をしているのに、ほどなく水は沸騰し、無数かつ特大の気泡を吐き出し始める。
そして、鍋から元気よくあふれ出た熱湯がガス口に入り込むと、あれほど盛んだった火の反復運動はピタリと止まってしまう。
吹きこぼれか。いや、それどころじゃない。本格的にガスを壊してしまったかもしれない。先ほど知らんぷりすると決めたはずなのに、僕はうろたえてスイッチを切ると、また家の裏手へ走っていったよ。
僕がボンベに駆け寄った時、二本並んだもののうち、手前の頭の部分に大穴が空いていた。ガス特有の嫌な臭いはしない。そして僕の視線は、開いた破れ目に乗っかっている、ある生き物にくぎ付けになる。
それは図鑑で見た、イグアナにそっくりだった。一メートルに少し足りないくらいの体躯。その背中には、つつかれたら血が出てしまいそうな鋭いひれが連なっている。でっぷりとしたお腹と、そこから生えた四本の足で、のたのたと灰色のボンベの側面を降りていく。
得体の知れなさに後ずさりする僕の前で、奴はぴょんと大きく飛ぶと、ブロック塀の上に乗っかった。奴の目前には、隣の家で育てている、アロエのとげとげした葉っぱがのぞいていた。
その葉っぱに向けて、奴は口を開く。そして見たんだ。その口の中から、あの時ガス口からのぞいた青い炎と同じものが、出てはすぐに引っ込んだのを。
アロエに葉の先っちょは、燃える間さえなく灰になった。もしもあの口の中身が僕に向けられていたら、今こうして話ができていないかもしれない。
奴はアロエの残骸に見向きせず、ブロック塀沿いに緩慢な動きで遠ざかっていった。姿が見えなくなるまで、僕はその場で立ち尽くしていたよ。
ほどなく、家にガス会社の人から連絡がきた。ガスを急激に使いすぎだということだ。僕は例のイグアナの件は誤魔化し、替えのボンベを用意してもらうよう依頼する。
業者の方が来るのに時間がかかったこともあって、タイミングよく帰って来た親がボンベの設置に立ち会う。親にも同じようにボンベの異状について質問されたけど、帰ってきたらこうなっていたと、ごまかさざるを得なかった。
ただ、奴の火を浴びたあのゆきひら鍋の外側の底は、あの数分ですっかり焦げ付いちゃっていたけど。