01.善人、嫁と一緒に文字を学ぶ
朝日の中目覚める、ベッドの上で体をおこして、伸びをする。
小さな体、ぷにっとした手足。
三歳になったばかりの私、記憶はそのままだけど、体は人並みに成長している。
生まれた日、天使の姿は見えたが、向こうはすぐに諦めたかのようにため息をついて、そのままいなくなった。
それ以来天使は姿を見せていない。
私に残った記憶はそのままだ。
前世の記憶、数十年生きた記憶を持ったまま赤ん坊に生まれ変わった。
アレクサンダー・カーライル。
それが私の新しい名前だ。
帝国の名門・カーライル公爵家の長男として生まれた私は、乳母日傘で何一つ不自由のない生活を送った。
よちよち歩きが出来るようになると、私のそばに同い年の女の子が連れてこられた。
アンジェリカ・シルヴァ。
私の許嫁で、新興貴族シルヴァ準男爵の一人娘だ。
父親の本気を見た。
記憶が残っている私は、公爵と準男爵の力関係をよく知っている。
公爵が言い出せば断れないのが準男爵だ。
同い年の私の許嫁はまだいい。
公爵がロリコンで自分の花嫁に歩けるようになったばかりの女の子が欲しいと言っても断れないのが双方の力関係だ。
肉体はよちよち歩きの子どもだけど、精神は父親よりも遥かに年上なのだ。
許嫁とはいっても、当然そんな目で見れるはずはない。
アンジェリカ――アンジェを実質見守りつつ、いい遊び友達の関係を築いた。
「おはよーごじゃいます……アレクしゃま……」
そのアンジェが私のそばで目を覚ました。
常に同じベットで寝てる彼女は、まだ半分寝ぼけているようで、普段よりも更に舌っ足らずだ。
「おはようアンジェ、顔を洗ってくるかい?」
「アレクしゃまといっしょがいい……」
「そうか、じゃあ行こうか」
私はアンジェの手を引いて、運動場になるくらい広い寝室から廊下に出た。
そこに、よく知っているメイドのアメリアがいた。
この屋敷でも指折りの働き者のアメリア、彼女は私に深々と一礼した。
「おはようございますアレク様、朝のお支度ですか? お手伝いします」
「大丈夫、自分達でできるから。それよりも後で朝のご挨拶にいくから、父上に報告しておいで。そうしないと父上がこっちに来るからね」
「旦那様はアレク様が大好きなのですもんね」
「とはいえ父上は公爵だ、あまりにも威厳のないところを見せてしまうと領内が安堵しないものだ」
「ああ……アレク様なんという聡明さ……。わかりました! このアメリア、ちゃんと旦那様を言いくるめます」
「大丈夫なの?」
「はい! アレク様のありのままを伝えればいいのです。挨拶にくるアレク様がもっとも愛らしく格好いいと真実を伝えれば旦那様も待たざるをえません!」
鼻息を荒くして、力説するアメリア。
勢いに気圧されそうになったけど、父上が納得しそうな言い方だ。
「分かった、じゃあ任せるよ」
「はい!」
☆
午後、この日から家庭教師がつくようになった。
屋敷の一室で、勉強机二つに黒板一つ。
私とアンジェのためにあてがわれた若い男の家庭教師が意気込んでいた。
「それでは、まずは文字の読み書きから始めます」
「はい、よろしくお願いします」
「お、お願いします」
私が軽く一礼すると、隣の机に座ってたアンジェが慌てて同じようにした。
「ではまず私が発音しますので、それに続いて読んでみて下さい」
家庭教師は黒板に文字を書いていき、それをはっきりとした発音で読んだ。
私とアンジェは言われたとおり、それを真似て読む。
一通り読み方を教わった後は、手元のノートに書き取りを指示された。
文字を一から勉強するのは新鮮だ、こんなことをするなんて何十年ぶりだろう。
私は気楽に書き取りをするけど、アンジェは一生懸命やっている。
まだ三歳になったばかりのアンジェがそうする姿は愛くるしくて、手を伸ばして頭をナデナデしたくなる可愛さだ。
ちなみに、この勉強部屋は密室ではない。
といっても開いてるのは窓じゃない、ドアの方だ。
開いたドアから廊下にいる父上と母上が顔を出して、私たちの勉強の様子を見ている。
やってる事はのぞきだけど、丸見えだ。
二人ともハラハラしている、親馬鹿の平常運転だ。
「では、書いたものを見せて下さい」
一通り書き取りを終えた後、家庭教師は私たちのノートを回収して、赤ペンで採点をしていった。
たいした量じゃないから、すぐにかえってきた。
「わあ、百点だ」
「よかったねアンジェ」
「はい! ありがとうございます! アレク様!」
アンジェの姿があまりにも愛くるしくて、とうとう手を伸ばして頭をナデナデしてあげた。
アンジェは恥ずかしそうにしながらも、えへへ、と可愛らしく微笑んだ。
ちらっとノートを見た、真面目に書いてるのが分かる字だ。
字を綺麗に書くのは才能だが、真面目に字を書こうとできるのは人間としての才能だと思う。
アンジェが大人になったらどんな人になるのか、すごく楽しみだ。
「おお、アレク、勉強しているのか-」
父上が部屋に入って来た。
ものすごい棒読み、白々しい声で「勉強しているのかー」と聞いてきた。
今通りかかった事にしたいんだろう。
「どれどれ、アレクの点数は……むっ」
父上の表情が変わった。
「どうしたんですか父上」
「95点か……いや、はじめてなら十分だ、うむ。それよりも字が上手い、うむ!」
「95点ですか?」
これにはさすがに驚いた。
いくら何でも、三歳児に教える内容のテストで間違えるはずがないんだけど。
「父上、それを見せて下さい」
「いやこれはアレクの初テストだ、まずは家宝として――」
「見せて下さい」
「う、うむ?」
珍しくちょっと強い私の口調に、不思議そうに首をかしげつつ、父上はノートを手渡してくれた。
私はノートを見た。
ほとんどが正解となっているところに、一箇所だけ×がある。
「……先生」
「はい、なんでしょうかアレク様」
「この文字の事なのですが」
「ええ、惜しかったですね。そこははねないのです」
「いえ、はねるのです。少し古い――それに堅い書き方なのですが」
「え?」
きょとんとする家庭教師。
話を聞いていた父上は私の手からノートを奪い取った。
×になってるところをみて、デレデレ親馬鹿モードじゃなくて、真顔で頷いた。
「うむ、確かにアレクの言うとおりだ。私も公文書の時は意識してこう書くぞ」
「そ、そうでしたか。浅学でおはずかしい……」
乾いた笑いでごまかそうとする家庭教師、一方で父上の真顔は一瞬だけど、すぐにまた親馬鹿モードに戻った。
「これが分かるとは……アレクはやはり天才だな」
「見せて下さいなあなた」
「うむ!」
「まあ……この字の上手さ、アレクは賢いのね」
「うむ! これほどの聡明さ、いますぐ私が家督を譲っても問題はないな!」
「えええ!?」
「ダメですよあなた」
いきなり何を言い出すんだ、って驚いてたら、母上が父上をたしなめた。
「アレクにはもっと豊かな少年時代を過ごさせたいものですわ。世間に名を轟かすのはもうしばらく先でいいでしょう」
名を轟かすのが前提なのですね母上……。
「うむ、それもそうだ。私はもう数年頑張らないといけないな!」
いえ父上、数年ではなく数十年は頑張って下さい。
あなたもまだ十分に若い、私の記憶が間違ってなければまだ30歳にもなっていないはずです。
「ともかくこれは家宝にする! いやせっかくだ、教会に聖物認定をさせよう」
「それはいい考えですわ」
両親はそう言って、私のノートを持って部屋から出て行ってしまった。
なんというか……はずかしいな、これは。




