09.善人、奇病を治す
湖畔の娼館、俺とエリザだけが残ったホールで二人っきりになった。
エリザの指摘。
息をするように人助けをしてるって言われて、それで困り果てて、とてもじゃないがそういう気分じゃなくなった。
だから娼館の人間には全員退出してもらって、二人っきりにしてもらった。
「参ったなあ」
「そんなに悩む必要はないと思うわよ」
二人っきりになった事で、エリザは男装状態ながらも、いつもの女口調で喋った。
「そうかな」
「今まで通り人助けをして、たまに食糧を台無しにしてればいいのよ。例の余剰分買い取りのね」
「それでいいのかな」
「最後の審査の時、悪事の減点幅の方が大きい気がする」
「そういうものなの?」
「私の見立てだと、だけどね」
私見だと強調しつつも、エリザはどこか確信を持っているようだ。
「つまり、同じ対象にすることでも、加点より減点の方が大きいから、食糧の収穫を増やしつつ台無しにしても、結果的にはマイナスって事だね」
「そういうこと」
頷くエリザ、やっぱり確信してるっぽい顔。
「たとえそうじゃなくて、善行積み過ぎてやっぱりダメになった時はまた、一緒に考えてあげるから」
「そうだね。ありがとうエリザ、キミがいて良かった」
「……どういたしまして」
どうしてか返事まで一拍あけたエリザ。
そんなエリザと一緒に娼館を出ることにした
こうなった以上いる必要はないのだ。
店を出て、馬車に乗り込もうとした時、視界の隅っこに少女を見つけた。
知識の林檎を食べさせたあの少女だ。
彼女は風呂敷を背負って、立ち去ろうとしている。
「ちょっとまって――キミ」
私は馬車を待たせて、少女に歩み寄った。
「あっ。ありがとうございますアレス様」
私の仮名を読んで、頭を下げる少女。
「何処に行くの?」
「クビになったので、家に帰ります」
「クビ? 店の人に何か言ってあげようか」
「大丈夫です、アレス様によくしてもらったから、弁償しないでいいって事になりました」
「そっか」
「それに、今は色々読みたいです。文字が読めるようになったので、いろんな本とか……とにかくいろんな文字を読みたいです」
目をキラキラさせる少女。
知識を持つとろくな事をしない、そんな事を言う人間もいるけど、少なくともこの子は知識を持たせていい子だったみたいだ。
そんな少女の事が好ましくなって。
「じゃあ家まで送ろう」
「えっ? でも」
「ついでにもう少し話を聞きたいしね」
「はい、わかりました」
少女を馬車の所に連れ帰って、待っていたエリザに。
「ちょっと寄り道するよ」
「そうなると思ってたさ」
エリザは笑って、男言葉で答えた。
少女を一緒に馬車に乗せて、湖畔の娼館をたつ。
「そういえばキミの名前もまだ聞いてなかったね」
「あっ、そうでした」
「せっかくだから、キミの名前を書いてみて」
「……はいっ!」
少女は嬉しそうに頷いた。
紙とペンを彼女に渡して、名前を書いて貰う。
ちなみにこの手の、それなりの身分の人間が乗る馬車には必ず紙とペンが用意されている。
どこかに連絡をとったり、何かしらの指示を出したりするのは良くある事だからだ。
私が常に懐にサインと家紋入りの羊皮紙を持っているのと同じことだ。
その紙とペンを受け取った少女は、膝の上で器用に文字を書いていく。
「出来ました!」
「マリ・キュリー。いい名前だね」
「ありがとうございます! アレス様のおかげで自分の名前がかけました!」
ものすごく喜んでくれた。
「ほう、綺麗な字を書けるんだな」
紙をのぞき込んだエリザ、男言葉で感心した。
「そうなんですか?」
「正しすぎるがな。これなどは正しいが、日常ではまず使われない方の書き方だ」
「そっか、略字の方を使うもんね」
「略字ってこうですか」
マリはエリザが指摘した字の下に別の字を書いた。
並んでいると一目で分かる、書記のために簡略した方の文字だ。
「うん、それだね」
「そうなんですか……」
「あくまで文字そのものの知識、実際どう使われてるのかは分からないって事か」
エリザがそういって、私が頷く。
「そうした方がいいと思ったからね」
「全てを知ってしまうと人生つまらんものな。絶妙なさじ加減、実にお前らしい」
なんかエリザにほめられた。
私はただ手を差し伸べただけだ。
そうこうしているうちに目的地に着いたようだ。
馬車が止まり、外を見たマリが先に跳び降りた。
私とエリザが続けて降りたそこは、郊外にある寂れかけたあばら屋だった。
「お姉ちゃん、ただいま!」
「お帰り、マリ」
マリの声につられて出てきた大人の女。
彼女は私達を見てぎょっとして、血相を変えて家の中に逃げ込んだ。
「あっ……ご、ごめんなさいお姉ちゃん。ごめんなさいアレス様!」
マリは慌てて、姉と私、両方に謝った。
「うん? どうしてあやまるの? しかも両方に」
「わからないのか?」
答えたのはエリザ。
男装中の彼女に「どういうこと?」と顔を向ける。
「彼女の姉の顔。あれは――」
「うん、知ってるよ。病気だよね。顔が溶け落ちるように見える病気」
「気がついてたの」
「それはだって、見れば分かることでしょ」
見た目のインパクトはかなりすごいものだ。
マリの姉が姿を見せたのは一瞬だけだが、その一瞬だけではっきりと分かる程のインパクトはある。
「人はそれを嫌悪する。嫌悪された彼女は多分息を潜めるようにしてここで暮らしている。それを忘れて妹が何も知らない人間を連れて来た」
エリザが一気に説明してくれた。
なるほどそういうことか。
「そっちよりも、魂の方に目がいった」
「魂?」
「結構高ランクだった、来世は多分かなりすごい」
「いい事をしてるのか?」
エリザがマリの方を向いて、彼女に聞く。
マリは文字を覚えた喜びも何処へやら、な消沈した感じで答えた。
「お姉ちゃん、せめて来世はちゃんと生まれるようにって、いい事をし続けてるの。でも、そんな事を思いながらいい事をする自分は偽善者だ、っていつも自分を責めてる……」
「そっか……」
それはつらいかもしれない。
「マリ!」
怒気を孕んだ声が聞こえた。
マリの姉が再び姿を見せた。
本来は顔を見られたくない、なのに姿を見せた。
その顔と声にはやけっぱちの感情が読み取れた。
「そんな事、いちいち他人に話さないで!」
「ご、ごめんなさいお姉ちゃん!」
「何処のどなたかは分かりませんが――」
怒りのまま私の方を向く彼女。
そんな彼女に手を伸ばす。
「な、なにを――」
「病気なら治すだけの事さ」
エリザが代わりに答えてくれた。
さすがに付き合いが長いだけあって、私がやりたいことを一瞬で理解してくれた。
魔法でマリの姉の病気を治す。
賢者の剣から知識を求めると、「不治の病とされているが――」と枕詞がついていた。
普通は不治の病だが、賢者の剣の知識と私の魔力で、その場で治した。
「あっ……」
「ひぃっ」
「……美しい」
「えっ?」
私の反応に怯えた彼女だが、直後の言葉に戸惑った。
びっくりして、目を見開いている。
その表情もまた美しかった。
「そりゃ美しいさ」
エリザが口角を器用に片方だけ持ち上げた。
「本当は美しいのに、治せない病気で台無し。いい罰でしょ?」
そう言って、ちらっと空を見上げたエリザは、何故かものすごい侮蔑の色が瞳の中にあった。
そんな彼女とはよそに、マリが慌てて家の中に駆け込んで、水を張った桶を持ってきた。
水面に姉の綺麗になった顔が映し出された。
きっと病気のため鏡はなくて、マリがとっさに鏡になるそれを用意したのだろう。
それで自分の顔を見て驚いて、今度は俺を見た。
「あなたが……?」
「うん、それが本来の君の顔だ」
「…………」
唖然。
そして、その表情のまま、滝のような涙がこぼれる。
彼女は呆然としたまま泣き続けたあと。
「あ、ありがとう」
と一言絞り出したっきり、また感極まって、今度はわんわんと声を上げて泣きじゃくったのだった。