7.摩耶
羊皮紙を手渡す時、黒のワンピースドレスからわずかにはみ出した細い両腕は、まるで粉雪のごとき白さだった。かつて僕は聞いたことがある。雪国で幼い頃に育った女の子は、紫外線を浴びる量が絶対的に少ないから、色白が多いのだと。彼女もそうなのだろうか。
「なんだ、これは?」川本は受け取った羊皮紙の中身を確認した。
「ペルパピですね。人格を記した文書。略してペルパピです」と、黒髪少女はすまし顔で答えた。それを聞いた川本は、小馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らした。
「お嬢ちゃん。そんなぶっとんだ省略語を使われても、おじさんたちはついていけないのさ。だから、こうしようじゃないか。こいつはこれから『パピルス』と呼ばせてもらう。もっとも、羊皮紙とパピルス紙は、厳密には異なる代物だけどな。
さてと……。まず、このパピルスの二番目に書かれている『川本誠二』とは、まさに俺の名前だ。そして、ほかの名前もその大部分が聞いたことあるものだ。たとえば、女と思われる名前が全部で四つあるけど、そのうちの三つは俺たちがすでに掌握している名前だよな。
とどのつまり、残った『西野摩耶』ってのが、あんたの名前で間違いないのかな?」
「はい、その通りです」と、少女はこくりとうなずいた。
西野摩耶ちゃんか……。かわいらしい名前だな、と僕は個人的に思った。
「なあるほどねえ。だとすると、変だなあ。
まだ判明しない名前が、ひとつだけあることになる……」もったいぶった口調でつぶやいてから、川本は視線をゆっくりと岡林へ向けた。
「まいったなあ。お嬢さん――」岡林と称していた男が、悪びれる様子もなく、さっと両手をあげて降参の体勢を取った。
「さっき順番に名乗らせた行為に、まさかこんな恐ろしい罠が仕掛けられていようとはね。
ああ、そうさ。そこに記されている通り、俺の本名は堂林凛三郎だよ」
「てめえ、どういう魂胆で、嘘なんかついたんだ?」と、藤ヶ谷がきつく詰め寄った。
「職業柄なんとなくかなあ、としか言いわけできないな。それに、俺の本職はプログラマーではないぜ。しがない私立探偵だ――」
岡林吾郎――、いや、堂林凛三郎が、ついに自らの正体を明かした。
「けっ――。どおりで俺がプログラムの説明を求めた時、こいつは口ごもったわけだ」川本が吐き捨てるようにいった。
「まあ、いいじゃないか。たかが名前だぜ。そう深刻に考えるなよ」と、堂林は軽く開き直る。
「あなたねえ。これから何が起こるか分からないこの異常な状況で、少なくともあたしたちに嘘を騙ったという事実は、これからもずっと消えないんだからね」と、丸山が突っ放すように忠告した。
「そして、人狼っちゅうもんは、基本、大嘘つきなんじゃよなあ」と、久保川も冷たい目線を堂林へ送った。
「まあまあ、みなさん、そんなに興奮なさらずに。
罪滅ぼしといっちゃなんですが、われらが新しき同朋、西野さんが提供してくれたこの貴重なパピルスについて、さっそく俺なりの見解を述べさせてもらいましょうか」そういって、堂林はさりげなく川本から羊皮紙を奪い取った。
「ここに書かれた『Profile No.1』の文字。これは、このパピルスが何枚かあるうちの一枚目だということをほのめかしています。おそらく、パピルスはまだほかにも存在するのでしょう。
次に、パピルスに書かれている人物名の前にふられた番号ですが、これは、今回進行している『リアル人狼ゲーム』の主催者が、我々十人のゲーム参加者に割り当てた番号ということになりましょう。少なくとも、この番号は二階にあるみなさんの個室の部屋番号と一致していますよね」
堂林は淡々と説明した。「換言すれば、我々十人は、このゲームの主催者である高椿子爵とやらに、完全にデータ管理されていることとなりますね。
ところで、西野さん、あなたはこのパピルスをどこで見つけられたのですか?」
「机の引き出しに入ってました」と、西野さんが答えた。
「もしかしたら、我々の各部屋にもパピルスがあるかもしれませんね。このゲームの参加者の貴重な個人データが記されている……」堂林は悩ましげに右手で口元を覆った。
「いったい、なんのために……?」藤ヶ谷が首を傾げた。
「でも、興味深いことですよね。もしかしたら、ゲームの進行に必要な情報を提供してくれるのかもしれませんから」と僕は無難に意見をまとめた。
「摩耶ちゃんの部屋番号が『No.1』で、摩耶ちゃんの部屋にあったパピルスも『No.1』と書かれていたのよね。だからきっと、『No.10』までパピルスはあるんだわ」と高木がいつものほんわか口調で断言した。
「そういうことですね。だんだん面白くなってきたじゃないか」と、堂林が呼応した。
「面白いだなんて、不謹慎です」西野さんがピシャリといった。
「みなさん、どうかしているんじゃないですか。このままだと、そのうち誰かが殺されてしまいますよ!」
堂林が冷静な顔で問いかけた。「お嬢さん、どうして誰かが殺されると判断されたのですか?」
「部屋の本棚に並んだ本を見れば、そんなの分かります」そういって、彼女はいったん自分の部屋に戻ってから、またすぐに出てきた。彼女の華奢な胸元には、二冊のペーパーバックが抱えられている。
あとになって堂林から教えてもらったのだが、その二冊は、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』と、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』という、なんでもその筋ではかなり有名なミステリー小説だったらしい。でもこの時の僕は、そんなことは露知らずに、悲しいかな、西野さんに対して軽率な対応を振舞ってしまうのであった。
「僕の部屋にもありましたよ。その本……」
「だから、わたしはみなさんといっしょにいたくなかったんです」
西野さんは僕には目もくれようともせず、必死になにかをうったえようとしていた。
「なぜですか?」とっさに僕は彼女に訊ねたが、その途端、彼女の愛らしい眉がキッと吊り上がった。
「なぜって、あなた、この本を読んだことないのですか?」
西野さんの怒った瞳が僕をじっと見つめている。なんだか、どきどきしてくる。
「ええ、だって僕、英語は読めませんから……」
「そういう意味ではありません」
「えっ、どういう意味なんですか?」
「もういいです!」
そういうと、西野さんはプイっと顔を背けてしまった。意外と短気な性格らしい。
「もういいよ。無知は罪なり、知は空虚なり――。
分からないやつには永遠に分からないことだからなあ」と、堂林が僕をなぐさめる。
「ところであんたはもう質問を済ませたのか?」今度は川本が、西野さんへ声をかけた。
「質問?」西野さんはちらっと川本へ目を向けた。相変わらず凛々しいまなざしだ。
「そうだ。さっきのアオイという人工知能の声を、あんたは聞かなかったのか?」
「はい、聞きました」
そうだったのか、あのアナウンスはこの館のすべての場所に流されていたんだ……。
「じゃあ、話が早い。そこであったろう。俺たちは三日間で一回だけアオイに質問が許されている。もちろん、これから起こるかどうかはっきりしない殺人を未然に防ぐための、貴重な対抗手段となり得るな……」
「なにがいいたいんですか?」
「だから、まだ質問をしていないのなら、俺たち集団にとって有益な質問をしてもらいたい、ということさ」川本が遠回しに主張した。
「分かりました。なら……、今します」
西野さんは愛想なく返事をした。
「おい、ちょっと待て。そんなに急がなくても……」
「アオイさん。聞こえますか。わたし、これからあなたに質問をします。
この屋敷のマスターキーはいくつありますか?」
すると、天井からアオイの声が返って来た。
「確認します、西野さま。それはアオイへのご質問ですか」
「はい、そうです」
「このお屋敷のすべての扉を開けられるマスターキーは、たしかに存在します。そして、それは一つだけです!
そして西野さま。あなたの質問権が、たった今、消費されました」
本当にマスターキーがあったのか……。反射的に、僕は堂林へ目を向けた。
「堂林さん、さっきあなたはマスターキーを所持しているといってましたよね。そのマスターキーがあれば、僕たちは人狼から身を守ることができるのですよ!」
「あれははったりだよ。俺はそんなもん、はなから持っていやしないさ」と、堂林はあっさり否定した。そしてそのまま、堂林は僕のそばに寄ってきて耳元でささやいた。
「それより、あの西野って子、それほどおバカさんじゃなさそうだ。
彼女は今、『マスターキーがありますか』とは聞かずに、『マスターキーはいくつありますか』と訊ねたんだぜ……」
相変わらず堂林の主張は難解すぎて、僕にはさっぱり分からない。すると、分厚い胸板の藤ヶ谷が、さも自信ありげに、ほくそ笑んだ。
「じゃあ、俺の番だ。そのマスターキーは、今どこにある?」
「確認します、藤ヶ谷さま。それはアオイへのご質問ですか」
「ああ、そうだ」
「申し訳ございませんがお答えいたしかねます。そして藤ヶ谷さま。あなたの質問権が、たった今、消費されました」
アオイから返された答えはすこぶる厳しいものであった。どうやらマスターキーの在り処はこのゲームの行方を左右する重要機密なのだと、僕はこの時悟った。
「じゃあ、もう遅いから各自の部屋に引き下がろうぜ」と、突然、川本が提案した。
「そうよね、もう眠いし」と、丸山も賛同する。
僕はちょっと違和感を覚えた。いつもの川本なら、マスターキーをすぐにでも探し出せと、わめき立てそうなのに……。すると、横から西野さんが小声で訊ねてきた。
「みなさんはすでに質問を終えているのですか? だとしたら、どんな質問を?」
「じゃあ、あんたはそれを聞いていないということだな」と、川本が念を押した。
「はい、そうです」
どうやらアオイが発する質問の答えは、基本的に質問者へ返されるだけで、質問者のそばにいなければ返答を聞くことはできないみたいだ。
「これまでに俺たちの質問で判明した事実を要約すると、この人狼ゲームの参加人数が十人。さらに、その十人に一ノ瀬夫妻が含まれること。つまり、今ここにいる八人と、一ノ瀬夫妻の二人が、このゲームの参加者ということだな。
さらには、人狼はその十人の中にたった一人しかいないということ。そして、今あんたがした、館のマスターキーが一つしか存在しないこと、以上だ。
そして、まだ質問権を持っているのが……、堂林と、高木、相沢、久保川の四人だな」
川本が説明すると、堂林が前に出た。
「じゃあ、俺もさっそく質問をさせてもらおうかな……」
「なんだと。てめえ、さっきは質問をしたくないと拒否したくせに」
「状況が変わったのさ。さっきまでは俺は偽名を使っていたからな。うっかりみんなの前でアオイに質問をして、返答で俺の呼び名を本名で呼ばれちまうと、ちょいと面倒くさいなと思ったまでのことだ」
「ふん、勝手にしろ。けどな、下らねえ質問だけはするんじゃないぞ」
「いうに及ばずさ。じゃあ、アオイ、聞こえるか? このリアル人狼ゲームに『狂人』は全部で何人いる?」
堂林が意味不明な質問をした。すると、アオイの声が返ってきた。
「狂人とは、どういうことですか?」
なんだ、アオイも混乱をしているじゃないか……。
「狂人というのはな、ええと、人狼の味方だけど、人殺しはせず、ひそかに人狼の手助けをする存在だ。人狼ゲームでは定番キャラだな」
「確認します、堂林さま。それはアオイへのご質問ですか」
「ああ、そうだよ」
「申し訳ございませんがお答えいたしかねます。そして堂林さま。あなたの質問権が、たった今、消費されました」
答えられないのか、答えたくないのかは定かではないが、アオイが冷たく突き放した。
「てめえ、下らねえ質問をしやがって……」顔を真っ赤にした川本が、食らいついてきた。
「そうかなあ。俺はてっきり有意義な質問だと思ったんだけどなあ」と、堂林はちっとも反省の素振りを見せなかった。
そのあと、僕たちはそれぞれの部屋へ引き下がった。時刻を見ると、もう午前一時近くになっていた。気になったので、僕はまず机の引き出しを調べてみた。すると、驚いたことにパピルスが出てきたのだ。パピルスには僕の部屋番号である『No.7』の番号が記されてあった。でも、残念ながら僕には書かれている内容がさっぱり分からなかった。なぜなら、パピルスに書かれた文字は、全部英語だったからだ。
仕方ないので、僕はパピルスを机の上に置いてから、シャワーを浴びることにした。寝る前には、僕はいつもシャワーを浴びることにしている。お湯加減は申し分なかった。あの最新の電気式ボイラーのおかげなのだろう。ほっと落ち着いてくると、ふっとある考えが脳裏をよぎる。
ここからでも、アオイに質問ができるのだろうか?
「もしもし、アオイさん、聞こえますか? 僕は今からあなたに質問をしたいのですが」
ダメもとで声を出してみたら、驚いたことに、天井から声が返ってきた。
「はい、アオイです。相沢さま、なにか御用でしょうか」
「あのお、質問をさせてください」少し恥ずかしかったけど、思い切って僕は質問することにした。
「西野摩耶さんに、彼氏はいますか?」
「確認します、相沢さま。それはアオイへのご質問ですか」
ちょっと……、そんなに大きな声で答えなくてもいいのに、と僕は一瞬身をすくめたが、さすがにこの部屋の外にいる人までアオイの声は届きやしないだろう。
「ああ、そうだよ。できれば、アオイさん――。もうちょっと小声で返答をしてくれると嬉しいんだけど……」と、僕は意味不明な要求を人工知能に出した。
「このゲームを行うために、ご主人さま率いる有能な組織が事前調査をして作り上げた参加者たちのデータファイルの中には、西野さまに現在、恋愛のお相手がいらっしゃるという情報は、いっさいございません。そして相沢さま。あなたの質問権が、たった今、消費されました」
そういって、アオイの声はプツッと途切れた。僕は天を仰いだ。ああ、なんて、すがすがしいのだろう……。不気味な屋敷に閉じ込められて、退屈極まりなかった苦悩が一変して、これまでの人生で味わったことがない最高の充実に満たされたのだ。
それに、ここで同居するほかの男どもなんて、みんなおっさんばかりだ。西野さんが好みそうな男は、どう考えても僕しかいない。
でも、さっき僕は彼女に幻滅されてしまった。明日からは名誉挽回に精進せねばなるまい。
それにしても、あれだけかわいいのに彼氏がいないとは、つくづく世の中とは不思議なものだ。まあ、かわい過ぎると余計に警戒をされてしまうのかもしれない。だとしたら、こいつは人生最大のチャンスだぞ。摩耶ちゃん……。ああ、あの小さな顔を思い浮かべるだけで、不謹慎だが、僕の股間は大きくなってしまう。
はっ、しまった……!
さっきのアオイへの質問だけど、『彼氏がいるのか』ではなくて、『セックス経験があるのか』にしておけばよかった。ああ、なんて愚かなことをしてしまったのだろう。あと三日待たなければ次の質問はできないじゃないか。こいつは失敗だったな……。でも待てよ。いくら大掛かりな組織が調べた個人データとはいえ、一人の人間が処女なのか、そうでないのかなんて、さすがに調べ切るには限界もあろう。うっかり、『処女ですか?』、なんて質問したところで、お答えいたしかねます、あなたの質問権が消費されました、と返されたら、それこそ目も当てられない。やはり、彼氏がいないことを確認できただけでも、ここは一歩前進とすべきだろう。
それに、あのツンツンした態度。どう考えても、彼女は処女でありそうなオーラに満ちあふれている。でも、普段はああいう態度でいながら、大好きな相手にだけは豹変してデレデレする女の子も、世の中にはいくらもいるだろう。まだ処女であると断定するのは、さすがに危険だな。でも、もしも彼女が処女で、僕の所有物となったとしたら、ああ、これまでの僕の人生をあざ笑いやがったゲス野郎どもを根底から見返すことができるのに。
ふふふっ、とにかく明日が勝負ってことさ。いとしい摩耶ちゃん、待っていてね――。
膨れ上がった妄想にふけてしまって、だいぶ長い間シャワーを浴びていたようだ。バスタオルで濡れた髪をふきながら、僕はユニットバスから外へ出た。そして、一糸まとわぬ状態でぶらぶらと部屋の中をうろついた。化粧台の大鏡には、僕のありのままの肉体が映し出される。身体が乾き切るまで素っ裸でいるのが僕は大好きで、いつもそうしている。もちろん、この部屋の扉の鍵はさっき掛けておいたから、誰もここへ入ってくることはあり得ない。
さすがに、ここへ摩耶ちゃんが現れたりしたらドン引きだな。あんまり君がかわいいから、ほら、僕の股間がこんなに大きくなっちゃったよ、と下ネタをいったところで、彼女に受けるとは到底思えないし。
ふと見ると、部屋の扉が少しだけ開いていた……。
おかしいな、たしかさっき閉めておいたはずなのに……。慌ててバスタオルを腰に巻くと、僕は扉へ近づいて行った。
次の瞬間、後頭部に強い衝撃を受けた僕は、目の前が真っ暗になった……。