4.探検
目が覚めると、わたしはベッドの上にいた。ああ、頭がずきんずきんする。昨日のお酒がまだ残っているのだろう。もともとそんなに強くないわたしなのに、昨日は男連中におだてられてすっかり飲まされてしまった。壁時計を見ると、もう八時過ぎだ。はっ、もしかして、朝食がおわってしまったかもしれない……。
慌てて廊下へ飛び出そうとしたわたし――こと高木莉絵は、ふと鏡に映った自分の姿を目の当たりにして、愕然とした。蒼ざめた顔。服は昨日のまんまだし、髪もぼっさぼさだ。結局、身支度をととのえてからようやく食堂へ駆けつけた時には、広間の大時計は九時を告げる鐘を鳴らしていた。
食堂へ入ると、プログラマーの岡林吾郎と主婦の丸山文佳が向かい合って食事をとっていた。二人はあまり会話をするでもなく、淡々と食事をとっている感じだった。
「あら、りえさん。よく眠れたかしら」丸山がこちらを振り向いた。丸山文佳――、背が高く細身の美人だ。宝塚歌劇団の男役をやらせても十分にこなせそうな雰囲気がある。高校時代には彼女は間違いなく、後輩の女子生徒からバレンタインチョコをいっぱいもらっているはずだ。そして、この人はいつもわたしに対して愛想がいい。まあ、ここにいる女性客はたったの二人だから、それも当然なのだろうけど……。
「ああ、高木さん。おはようございます……」と、岡林も呼応したが、こいつは誰にでも愛想がいいから、反射的に口ずさんだ軽い言葉のようだった。
ほかの席に目を向けると、すでに食事を済ませた皿が残っているのが三席あって、二つの席にまだ使用されていないきれいな皿と、スプーンに三角にたたまれた布ナプキンが置いてあった。そのうちの一つはどう見たってわたしの席ということになるのだが、もう一つはいったい誰の席なのだろう?
そういえば、昨日もたしか食事の席は七つ設けられていた。けれど、実際に食卓に着いたのは六人であった……。
まじめに考えていたのに、一ノ瀬氏がやってきて、目の前においしそうなスープ皿を置いていったから、それまで考え込んでいた内容をわたしはすっかり消去してしまった。
「おはようございます。莉絵さま。よく眠れましたでしょうか。あったかいスイートコーンのクリームスープでございます。どうぞお召し上がりくださいませ」
それは、トーストを食べ終えたわたしが、熱くておいしいコーヒーをすすりながらほっとしている時に起きた出来事であった。玄関ホールのほうでドンと大きな音がした。一ノ瀬氏がちょっと見てきますと部屋から出て行ったのだが、なにかしら騒ぎが生じているようであった。心配して騒ぎの様子を見に行った丸山が、しばらくすると戻ってきた。
「新しい訪問者よ。おじいさんが一人――。昨日は一晩中、あの嵐の中で外にいたんですって。かわいそうに、ぶるぶる震えていたわ」そういい終えると、丸山はそのまま食堂から出て行った。
やがて、一ノ瀬氏が男を連れてきた。なるほど、髪がぐしょぐしょの丸眼鏡をかけた猿のようなしわしわ顔の男である。でも、丸山がいってたおじいさんという表現は少し失礼過ぎたかもしれない。実際は四十代半ばの中年ではないかと、わたしは判断した。
「お食事にいたしますか。それとも、まず、温かいシャワーを浴びてからにしますか」
「まずは飯じゃ。はよう、食いもんもってこい」
執事の優しい言葉に、中年男はここぞとばかりに威張り散らした。
「それでは、ちょうどこの席があいておりますから、どうかお使いください。こちらの席の方は、今朝の食事はいらないと、さきほど確認をいたしましたから、どうぞご遠慮なく」
やはりこの席に座るべき人物は、ほかにいたのだ! そして、一ノ瀬氏はその人物と接触をしたことになる……。
運ばれてきた朝食の全部をぺろりとたいらげた中年男は、ようやく穏やかな顔つきになった。
「昨日は外で一夜を明かされたのですか。それは大変な目にお会いになりましたね」
プログラマーの岡林が気を利かせて、中年男に話しかけた。
「まったく、とんでもないことじゃて。突然、口をふさがれたと思ったら意識がのうなってな、目が覚めたら、だあれもいない真っ暗な小屋ん中におったんじゃからのう」
「小屋?」
「ああ、この屋敷からちょっと離れた場所にある。いちおう屋根はあったけど、こんな嵐じゃから、ないのとおんなじじゃって」
「いったい、なんの小屋ですかね?」
「知らん。木で作られた小汚い小屋じゃ」
「ほかに何かありましたか。その、小屋と屋敷以外にですけど」
「ない。見たのは森だけじゃな」
「そうですか……」プログラマーは腕組みをして考え込む。「わたしは岡林と申します。失礼ですが、あなたのお名前は?」
「名前か――。名前は、久保川恒実と申す。職業はとある田舎町の診療所に勤務する村医師じゃ」
すると、会話している二人の男の目線がわたしのほうに集中したので、仕方ないから、わたしも挨拶をした。
「ピアニストの高木莉絵です」
「ほう、ピアニストとね――。こりゃまた、ご立派なものをお持ちで、えへへへ……」
いきなり気味の悪い笑みを浮かべると、久保川医師はわたしをじろじろと見つめてきた。でもその視線が向けられた部位は、顔が二に対して、胸元は八であった。
「久保川さま。二階に一つお部屋があいておりましたから、そこをおつかいくださいませ」と、一ノ瀬氏が告げて、久保川医師を案内して食堂から出て行った。正直、わたしはほっとした。別に減るものではないが、あれだけ嬉しそうに胸を見つめられても、こっちは悪寒以外になにも感じないのだから。
プログラマーと食堂で二人きりになった瞬間、彼のほうから語りかけてきた。
「さっきの執事の言葉を聞いたかい。この屋敷には、まだ一人、俺たちが出会っていない客人がいるようだぞ」
「そのようね」と、応じつつ、わたしは岡林をひそかに観察した。こいつはわたしの胸にそんなに視線を合わせないけれど、果たしてそっちのほうに興味がないのだろうか。
「高木さんはもう会われましたか? その、まだ顔を出していない人物にですけど」
「いいえ。そんな人がいるなんて、ちっとも知らなかったわ」
「そうですか」そういって少し考え込んでから、岡林が提案してきた。「どうです。鬼が出るか、蛇が出るか――。今からこの屋敷をいっしょにまわってみませんか。ちょっとした探検ですよ」
「ええ、喜んで……」あまり気乗りはしなかったが断れる空気でもなかった。
屋敷の探検はまず一階からはじまった。岡林が食堂の中に三つある扉のうちの、奥にある扉へ近づいて、そっと押してみたが動かなかった。
「この扉には鍵が掛けられている……」
そこはおそらく厨房へ至る扉で、さっきまで一ノ瀬氏が出入りしていた扉でもあるのだが、久保川医師を連れ出したときに、ついでに鍵も掛けてしまったのだろう。
岡林は次に食堂から出て、廊下から厨房へ行こうとしたのだが、廊下の突き当りにも扉があって、やはり鍵が掛けられていた。
「畜生、今は厨房へは行けないということか……」岡林はむなしそうに扉をゴツンと叩いた。そしてこちらを振り向くと、今度は驚いたように大声を発した。「あれれ、エレベーターがある!」
「あら、知らなかったの?」わたしは素っ気なく応対した。
「ああ。今、はじめて気付いたよ。実際に動くのか?」と、岡林はエレベーターに駆け寄って、ドアをさすった。
「少なくとも、二階と行き来はできるわよ。今朝、わたし使ったもんね」と、わたしは自慢げに答えた。
「そうか。二つも階段があるから、ちっとも考えなかったな。エレベーターが 屋敷にあるなんてさ」
「ふふふっ。あんた、頭良さそう見えて、案外、抜けてるところもあるのね」と、わたしはくすくす笑った。
「ねえ、居間に行ってみない?」
「そういたしますか、お姫さま……」そういって、岡林はかしこまっておじぎをした。
わたしたちは廊下を逆に進んで居間へ向かった。途中に玄関ホールがあったので、岡林が立ち止まってなにやら調べていたみたいだが、わたしにはなにをしていたのかよくは分からなかった。
「たしかに、玄関のドアは、内側から鍵を開ければ外へ出られますね。もっとも、まだ雨がひどい状態だから、日向ぼっこするにはもう少し待たなければなりませんがね」といって、岡林が笑った。
そのあと、わたしたちは居間に行った。居間には藤ヶ谷がひとりでいて、例のごとく、わたしにはなにがしたいのか意味不明な、重たい鉄のかたまりを使って遊んでいる。扉を開けた岡林をにらみつけて、「なんだ、お前。なにか用か?」と、いつもの乱暴な声で怒鳴りつけてきた。そういいながら、わたしがいっしょにいることに気付くと、怪訝そうな顔で近づいてきた。
昨日初めて会っただけなのに、わたしはどうもこの藤ヶ谷という男が苦手だ。決してマッチョが嫌いというわけではない。むしろ、血管が浮き出たあの太い筋肉のかたまりで力まかせに抱きしめられたら、どんなに気持ちよくなるのだろうか、といやらしい想像をすることもある。
やっぱりわたしの胸を見ている……。そして、あいつの股間が徐々に膨らんできた。昨日とおんなじだ。たしかに、わたしの胸を見た男性が股間を膨らませておどおどする光景を、これまでにわたしは幾度となく目の当たりにしてきたのだが、藤ヶ谷の場合はこれとは少し状況が違っていた。股間のふくらみに制限がないのだ。トレーニングパンツに浮き出る男根と思われる突起は、人参の大きさくらいに膨れ上がった。変質者なのだろうか、それとも羞恥心というものが欠如した単細胞人間なのだろうか、藤ヶ谷はそれを隠そうとはしなかった。むしろ、女の子に見せつけて、快感を覚えているのではないかとさえ、わたしには思えた。これまでの人生で、片手で数えるくらいの人数なら、わたしにもセックス経験があるのだが、これだけ大きな一物を持った男となると、残念ながら一人もいなかった。
もしもあの馬のような男根で突かれれば、わたしの女性器なんてひとたまりもなく破壊されてしまいそうだ。でも、あえて告白させてもらうと、かつて一番気持ちよかったセックスは、咳がこみ上げるほどまでに激しく、長時間にわたって突き上げられた時であった。だが、藤ヶ谷のセックスは間違いなくその上をいくと思われる。
わたしはプログラマーにもこっそり目を向けた。イケメンというには抵抗があるけど、決してぶさいくな男ではない。セックスを求められれば、状況次第ではイエスと答える可能性もまだ十分に残されている。でも、こいつはタバコを吸うといっていた。これまでの経験上、タバコを常習する男は、セックスが弱くて、わたしを満足させることができなかった。まあ、そんなのは単なる偏見なのかもしれないし、片手の人数という、統計学上では問題があるサンプル数の中で導かれた誤った結論なのかもしれないが、いずれにせよセックスに関しては、岡林は藤ヶ谷ほどに期待はできない。
「やあ、大将――。ご機嫌いかがですかな」岡林は、茶化すように藤ヶ谷に声をかけると、そのまま居間を立ち去ったので、わたしもすぐあとをついて行った。藤ヶ谷から浴びせられるHな視線をじりじりと背中に感じつつ……。
居間の奥には共用のトイレが設置されている。いちおう二つの扉があって、男性用と女性用とに区別がされてはいたが、その気になれば、どちらでも使用は可能だ。トイレがある廊下の突き当りに、さらに別の扉があった。こちらには、『リネン室』と書かれた表札が付いていた。岡林が扉を開けようとすると、タイミングよく中から女性が出てきた。家政婦の一ノ瀬歩美子。執事の一ノ瀬祐之氏の妻である。ニコニコと基本的に愛想はいいのだが、年齢のせいか、血の気が失せた肌は蒼ざめていて、あちこち皮膚がたるんだ箇所もいくらかみられる。
「ああ、こちらから先は入れませんので、どうぞお引き取りを……」
そういって、家政婦はわたしたちを追い返した。
「どうやらここには入れないようですね。じゃあ、二階へいきましょうか」と、岡林はそっけなく言葉を残すと、踵を返して、階段のほうへ向かって歩き出した。
二階へ上がると、岡林は左手の廊下へ向かった。『No.3』と書かれた扉の前で足を止めると、ここが俺の部屋なんだと、どうでもよさそうな情報をさも自慢げに述べたので、わたしはおかしさをこらえるのに必死だった。
岡林はさらにその奥へ進んだ。そして、『No.2』の扉の前で、無造作にノックをし始めた。わたしはちょっと真っ蒼になったが、少しすると中から、「なんだ?」と聞き覚えのある声がした。扉を開けてぬっと顔を出したのは、川本誠二だった。
「ああ、ここがあんたの部屋か。となりの『No.3』は俺の部屋なんだ」と岡林は動じる様子もなく飄々と答えた。
「用がないのなら、むやみに呼び出すんじゃねえよ」そういって、川本は機嫌悪そうに扉をバタンと閉めた。
「ちょっと……。まさかあんた、これから全部の部屋の扉を叩いて回る気なの?」
「ああ。だとしたら、どうだというんだい?」
「冗談じゃないわ。だったら、あんたがひとりでやりなさいよ」
「まあまあ、もう少し付き合ってくれよ」と、岡林の顔に反省をするそぶりは確認されなかった。
次にわたしたちは廊下の突き当りに当たる『No.1』の扉の前までやってきた。例のごとく岡林が無神経にいきなり扉をノックするが、今度は応答はなかった。岡林が扉のノブを回して強引に中へ入ろうとしたが、扉は開かなかった。
「どうやら、中から鍵が掛けられているようだな……」岡林がポソっとつぶやく。
「だあれもいない、開かずの間ってことなのね。気味が悪いわ。さあ、いきましょうよ」と、わたしが提案をしたが、岡林が突然人差し指をピンと立てて口の前にやった。しずかにしろ、という合図だ。
「ちょっと待てよ、誰かが中にいる! 気配がするんだ……」と岡林が小声でささやいた。わたしはどうしたらいいのか分からなくなった。
「おーい、誰かいますか? いたら、開けてください」
岡林が続けてどんどんと扉を叩いたが、やはり応答はなかった。結局わたしたちは、断念をして引き下がるしかなかった。
「誰かが中にいて、俺たちの様子に聞き耳を立てていたんだ。間違いないよ。はっきりと息づかいが聞こえたからな」と、岡林は悔しがった。
このあと、『No.4』の部屋から丸山が出てきたので、ここが彼女の部屋であることをわたしたちは確認した。探検をしているところだというと、丸山も面白そうだからといって、一緒についてきた。
さらに、わたしたちは建物の反対側になる廊下へ足を向けてみた。『No.5』の部屋の扉を叩こうとする岡林を、わたしが制した。
「ここはわたしの部屋よ。勝手に開けないでちょうだい」
そう。わたしがここにいるということは、実は今、この部屋には鍵が掛かっていないのだ。この館の各部屋は、中に人がいなければ鍵は掛けられないのだから……。
「そうか、じゃあ次の部屋へ行こう……」
岡林はわたしの部屋にはさほど興味がなさそうに、さっさと次の部屋へと足を運ぶ。
わたしの部屋のとなりの『No.6』の部屋で廊下は突き当りになっている。館の反対側の廊下では、『No.1』から『No.4』までの四つの部屋があったのに、こちら側には二つの部屋しかないのが、わたしにはとても不自然に思えた。
『No.6』の部屋をノックした岡林は、応答がないのを確認すると、扉を開けようとした。すると今度は、扉はすんなりと開いた。中を一目見て、わたしたちはここが藤ヶ谷の部屋であることを、いやがおうにも確信させられることとなった。乱雑に布団がめくられたままのベッドに、脱ぎ散らかして床に放り投げられたままのシャツとパンツは、トレーニング姿の藤ヶ谷が昨日着ていたものであったからだ。そして、彼は現在は居間にいるから、この部屋には鍵が掛かっていなかったというわけだ。
「ここから奥へは進めないな。こっちの扉の鍵はしっかりと掛かっているからね」と、岡林が指差した扉は、廊下の突き当りに当たる場所にある扉であった。それは、藤ヶ谷の部屋から廊下へちょうど出たところにあった。
「だけど、相沢の部屋はいったいどこにあるんだろう?」
「さあ、もしかしたらまだ上の階があるのかしらね」
「それはないわ。昨日あたし、この階を調べてみたけど、上へ行けそうな階段なんて、どこにもなかったわ」と、丸山が断言した。
「まだ、分からないぞ。隠し扉とかがあるのかもしれないからな」と、岡林が子供のように目を輝かせた。
結局、二階の個部屋で使用者がはっきりと判明したのは次のとおりである。
『No.1』 鍵が掛かっていた。
『No.2』 川本誠二の部屋。
『No.3』 岡林吾郎の部屋。
『No.4』 丸山文佳の部屋。
『No.5』 高木莉絵の部屋。
『No.6』 藤ヶ谷隼の部屋。
相沢翔と久保川恒実の部屋は、最後までどこにあるのか分からなかったが、『No.6』の部屋から奥の廊下が、鍵が掛けられた扉によって阻まれているのが気になる。間取りを考えれば、あと二つの部屋があってもよさそうであるのだが……。