3.食堂
食堂は居間と同じ階にあると、相沢がいった。居間を出て、まず左へ進むと、さっきおりてきた階段があるのだが、そこをさらに左へ折れてまっすぐ進めば、やがて玄関ホールへ出る。玄関があるということは、つまり、ここが一階であることを意味する。そこを過ぎれば、ふたたび廊下は突き当りとなって、先ほどと同じく、こちらの角にも上へのぼる階段があった。さらに左へ曲がると、向かって左側に扉が二つ並んでいるのが見える。どうやらここが食堂の入り口らしい。
中へ入ると、白いテーブルクロスがかかった大きなテーブルが三つ、くっつけて並べてあって、それぞれのテーブルには椅子が四つずつ、合計十二個の座席が用意されていた。そして、そのうちの七つの席に、食前酒の入ったグラスと、はしとスプーンが並べて置いてあった。居間にいた六人は、無意識にテーブルの両サイドへ別れて、端から順番に詰めて着席をしていった。
晩餐の料理はフレンチだ。長身の執事が、前菜の皿を全員の前に並べ終えると、説明をはじめた。「ゆでた菜の花と白身魚のムニエルでございます」
「まあ、おいしい。一ノ瀬さん、これはなんのお魚なの?」
丸山からの質問に、「鰆でございます。冬の季節の鰆は、脂がのってより甘みが増しますし、アミノ酸の量もたいへん豊富な栄養価の高いお魚でございます」と、執事が答えた。
「菜の花もゆで方が絶妙ですな。青菜の新鮮な香りがしっかりと残っていますよ」と、デブの川本も料理を素直にほめたたえた。
次に出てきたのはスープだ。「オニオンのポタージュを冷やしたものです。外はお寒い季節ですが、幸いにも館の中は暖炉がたかれて十分に温かくなっておりますので、本日のスープは意表をつかせて冷製とさせていただきました。どうぞお召し上がりください」
今度は、一ノ瀬氏の説明が終わるか終わらないかのうちに、全員がスプーンをいっせいに手に取り、スープをすすっていた。
「わー、冷たいスープのほうが、玉ねぎの香ばしさがよく分かるわね」と、高木が甘え声を震わせる。彼女がスープを飲みにかがみ込むたびに、ドレスの胸元からはみ出た白い谷間が動くのが、ここからでもはっきり確認できた。
「なにか入っているみたい。なんなの?」丸山が急に手を動かすのを止めた。細身で長身の彼女がする食事姿も、テーブルに着いた男たちからの羨望のまなざしを集めていた。
「細くスライスしたエリンギでございます。ちょっとしたアクセントを添えようと思ったのですが、お口に合いませんでしたか」
心配そうな顔で、白髪執事が聞き返すが、「いえ、とってもいい感じよ」と、あっさりした感想が返ってきた。
「なんだろう。牛乳でもないし、不思議な味だな。とにかく、今までに食べたことがないスープですね」と、大学院生と称する相沢がポロリと口走る。
「これは、これは……。お気に召しませんでしたか……」
またもや、一ノ瀬氏の顔が引きつる。この様子では、どこまでいっても執事の気苦労は絶えそうもない。
「いや、その。おいしいことはおいしいんですけど、あまりに味が衝撃的で……」
「ココナッツミルクだよ。食べたことないのか?」と、小馬鹿にしたような川本誠二の声が、横から飛んできたが、正直、俺も同じことをいってやりたいという欲望をどうにか抑えていたところであった。どうやら、この相沢翔という青年は、セレブやブルジョアという言葉からほど遠い人生を、これまでに歩んできたのであろう。
いよいよメインディッシュであるが、それを前に、グラスにあらたに赤ワインが注がれた。
「モンテス・アルファの2013年、ヴィンテージものでございます。チリ産の赤ワインでして、使用されているぶどうはカベルネ・ソーヴィニヨン。タンニンが強くて、複雑な風味をかもし出しつつ、同時に繊細な優美さも併せ持つ、魚料理にも肉料理にもよく合う高級ワインでございます」
なるほど……。一口含めば、樽の中で熟成されたかすかなるかび臭さをアクセントにしたぶどう特有の強い芳香が、鼻孔をくすぐった。少なくとも庶民が日ごろ愛飲するワインとは、全く別次元の代物である。
メインディッシュは、魚料理にキャビアが添えられたオマールエビのポワレ、そして肉料理はトリュフ風味の牛ほほ肉赤ワイン煮であった。いずれも美味しすぎて声も出せないほどの絶品料理だ。
最後に冷たいフランボワーズムースの上にサクランボゼリーがのったデザートが出された。
「以上で本日のお皿は全部でございます。どうぞみなさま、心置きなくおくつろぎくださいませ」
執事が丁重に一礼をして、食堂から出て行ったが、七番目の座席には最後まで人が座ることはなく、テーブルの上には空の皿とワイングラスがさびしく残されたままとなっていた。
「おどろいた。これって、銀座で食べたフルコースと遜色ないくらいに美味しいわよ」と、高木莉絵がまっさきに感嘆の声を上げた。
「そうですね。僕なんかこれまでの人生で一番うまい夕食でしたよ」と、相沢も相当に興奮している。
「まあ、銀座のレストランと比べちゃかわいそうだけど、たった二人の料理人で、六人分のフレンチフルコースを作り上げた腕前は、間違いなく本物ですな」もぐもぐとせわしく口を動かす川本誠二が、胸元に引っ掛けたナプキンで、べとべとに汚れた口元をぬぐった。
「二人の料理人?」俺が訊ねると、
「ああ。一ノ瀬夫妻ですね」と横から相沢が代弁した。
「さきほどの執事には奥さんがいるのか?」
「その通りです。この屋敷の使用人はたったの二人しかいません。執事の一ノ瀬祐之氏と、その妻で家政婦の歩美子さんです」
「これから毎日こんな料理を出されたんじゃ、すぐぶくぶくに太っちゃうわね」と、ほんのりと顔を赤らめた丸山が上機嫌で笑っていたが、それを耳にした高木の顔は瞬時に蒼ざめた。
食事を終えて、六人は再び居間へ集まった。一ノ瀬氏がテーブルの上にシャンパン瓶と人数分のグラスを置いていった。瓶のラベルにはボランジェと書かれてあった。俺と川本がまっさきに飛びついて、そのあとで相沢がグラスにシャンパンを注いだ。女性二人と筋肉男は、コーヒーメーカーで湧かした熱々のコーヒーをたしなんでいた。
一人ひとりに確認してまわったところ、ここにいる全員がこの屋敷へ運び込まれたときに所持品をすべて押収されたみたいで、金銭はおろか、スマホなどの外部への連絡手段も現時点ではいっさい阻止されている異常な状況が判明した。
「まさに着ていた服だけよね。取られなかったものっていえば……」主婦の丸山がボソッと愚痴る。
「どうせならいっそのこと、衣類も全部はぎ取ってもらえば、今頃はご婦人たちの美しいお身体も拝めて、さぞかし眼の保養となっていたことでしょうな」と、くちびるの合間から一筋のよだれをたらした赤ら顔の川本が、くだらない冗談をはさんだ。
「そいつはともかく、ここには娯楽がないよな」
小刻みにダンベルを動かしながら、藤ヶ谷がぼやいた。
「そういうあんたは、そのおもちゃ、いったいどこで手に入れたんだい?」ダンベルを見つめながら、不思議そうに川本が訊ねた。
「これか……? こいつは俺の部屋においてあったんだ。お前たちの部屋には置いてなかったのか」と、目を丸くした藤ヶ谷が、逆に問い返した。
「はははっ、そういうことか。どうやらここの主人は、なかなか細かいところにまで気がまわる人物のようだな」と、川本が突然笑い出す。「マッチョの兄ちゃんの部屋にはダンベルを置いておき、この俺の部屋には数独の問題集を置いておく。もっとも、こんなちゃちなパズルじゃ、俺にとって娯楽の端くれにもならねえんだけどな」
「それぞれの人物の趣味を調べたうえで、各部屋に娯楽の品物が置かれていると……?」俺が首をかしげると、
「そうか。だから僕の部屋にはトランプが置いてあったんだね。今、ここに持っていますよ」と、相沢がポケットからトランプカードを取り出した。撒き餌にたかる錦鯉のごとく、川本、藤ヶ谷、丸山が相沢のまわりへより集まってきて、四人でトランプゲームがはじまった。
「誰もお金を持っていないんですよねえ。つまらないなあ。どうです、負けた人から服を一枚ずつ脱いでいくって趣向は?」川本は、丸山の身体のシルエットに、物欲しそうな目をくれた。
「いやよ。誰かのちっちゃいの見せてもらったって、こっちはなんの得にもならないんだから」と、丸山は全く相手にしなかった。
「丸山と川本の二人はさっきからいがみ合っているけど、なにかあったのか?」
俺は、横にいた高木莉絵に小声で訊いてみた。
「あんたが来る前にね、川本が居間で電子タバコを吸っていたのよ。それを見て、あやちゃんが激怒したの。信じられないってね。川本も川本で、電子タバコの煙は水蒸気だから人体に害はない。居間で吸ってなにが悪い、と反発したから、途端に大げんかになっちゃって。結局、川本が負けてね、それからは玄関の外まで出ていって、こそこそと電子タバコを吸っているというわけよ」
「じゃあ、川本は電子タバコを持っていたというのか?」
「さあ……?」
俺は思考回路を急回転させた。もしかすると、この屋敷の主人が愛煙家の川本に気を利かせて彼の部屋に電子タバコを置いたのかもしれない。だとすると、俺の部屋にも探せば電子タバコが出てくる可能性がある。とにかく、このままへんぴな館に閉じ込められ続ければ、気が狂っちまうのも時間の問題だ。
「おい、メルヘン姉ちゃんよ。あんた、ピアニストなんだろ。景気づけになんか弾いてみろよ」と、藤ヶ谷がリクエストをした。果たしてこいつに音楽が理解できるのか大いに疑問であったが、高木はそんなことを憶する様子を微塵も見せずに、じゃあ、と一言告げて、グランドピアノの前へ移動して静かに腰を下ろした。
高木莉絵が弾くピアノはとても情熱的だった。いきなり弾き始めたのが、ショパンの『革命』だ。波がのたうつように連続的に細かい音が流れていく、左手の高度な動きが要求される曲で、嵐のような激しい調べにあっという間に俺たちは引き込まれてしまった。
続けてショパンの『幻想即興曲』が奏でられる。軽快さでは他に比類すべきものがないほどまでに完璧な旋律であるにもかかわらず、ショパンはこの曲が気に入らなかったようで、自分の死後に楽譜を燃やすよう友人に依頼したことはあまりに有名な話だ。しかし、それがショパンの作曲した中でもっとも有名な曲となってしまったのだから、実に皮肉なものである。
高木の演奏が終わると、全員から惜しみない拍手が沸き起こった。
「すごいじゃない。さすがは天才ピアニストだわ」丸山が真っ先に賛辞の言葉を投げかける。
「いいえ、わたしなんかまだまだよ。ただ弾いているだけだし」と、高木が謙遜した。
「お次はリストの『ラ・カンパネラ』はどうですか?」シャンパンをぐいっと飲み干して、川本がリクエストすると、
「ああ、あれはずっと難しい曲だから、もっと練習してからね」と、高木は軽くはぐらした。
テーブルを囲んでいる四人は七並べに興じていた。七並べは、ババ抜きと並んで初心者でも楽しめるもっともポピュラーなカードゲームの一つだが、後ろから見ているだけで、実はプレーヤーの個性や性格が浮かび上がってくるという、案外恐ろしいゲームでもある。
ルールは単純。ジョーカー一枚を含めた五十三枚のカードを参加プレーヤーに配る。各プレーヤーは配られた手札を見て、もし手札の中に数字の七のカードがあればそれを場に出す。場に出された四枚の七のカードは縦一列に並べられ、ダイヤの七を出したプレーヤーから始めて、着席順の反時計回りにゲームは進行していく。順番が来たプレーヤーは、場に出されているカードとマークが同じで数字が一つずれたカードを手にしていれば、それを場に出すことができる。出されたカードはマークをそろえてすでに場に並んでいるカードの横に、数字順になるようにドミノのごとく規則的に並べられていき、最終的には四×十三の長方形絵図が完成するというわけである。もっとも、肝心のゲームはその絵図が完成する前に終了してしまうのであるが。
ゲームの目的は、誰よりも早く自分の手持ち札を全部場に出し切ってしまうことである。よく考えれば自明なことであるが、数字の六とか八のカードは、順番が来ればすぐに出せるカードであるのだが、AとかKのカードは、端っこに位置するため、その列の最後にならなければ出すことができない、もっともたちの悪いカードということになる。
つまり配られた手札には、価値の高い札と低い札が共存するわけだ。勝利のためには価値の低い札をどうさばくか、ということに尽きる。
プレーヤーのもう一つの選択肢として、パスがある。手持ち札にすぐに出せるカードがなければパスをするしかなく、あるいは、出せるカードがあっても意図的にパスをして、次のプレーヤーに手を渡すこともできる。しかし、一人のプレーヤーがゲームの最中にできるパスの回数は三回までとされている。もし、三回パスをしたあとに回ってきた順番で、手札を出すことができなければ、その時点で敗者となってゲームから離脱する。いわゆるドボンである。ゲームを離脱したプレーヤーの持ち札は、とりあえずカードが置かれるべき場の位置にいったんは置かれる。そして、中央の七のカードからその途中の間の数字のカードがすべて埋め尽くされたとき、その先にカードを並べることができるようになる。こうして、手札をすべて出し切って勝ち抜けするか、パスを使い切って離脱して負け抜けするかで、全員の決着がつくまでゲームは進行する。必然的にこのゲームでは、毎回プレーヤー全員に勝ち負けの順位がつけられることになる。
俺は、後ろにまわって四人のプレーを冷静に観察していた。見たところ、もっとも下手くそなプレーヤーは、藤ヶ谷だった。順番が来るといつも数分考え込んで、結局、中央に近い手札から順に出すだけ。いったい、それでなにを考えているのか。まさか、出せるカードがすぐに分からなくて困っているという、この上ない低レベルな思考が脳みその中で展開されているのかって思うと、ぞっとする。まさに、筋肉馬鹿としかいいようがない。
次にへたくそは、相沢だ。若者だからもう少し勝負にこだわるのかと思ったら大間違いで、正直、何も勝負ごとにこだわっておらず、その瞬間に思いついた出せる札から順に出している。これでは、あとの二人に勝てるはずがない。
それに対して、丸山はまだ勝負に対するこだわりを見せていた。四種類のマークの両端の八か所について、手札の中でもっとも価値の低いカード(鍵札)を、手札が配られた時点で常に確認をしていた。考えてみれば、この確認作業は七並べにおける勝利のための必要最低条件であるのだが、それができているのは四人の中で丸山と川本だけであった。
しかし、川本と丸山の決定的な違いは、パスの使い方である。丸山は出せるカードが手持ち札にある時は、反射的にすぐ出してしまう。この行為は、一見すると、早く手札を減らすことで表面的には勝利に近づいているようにも思えるが、実は、七並べの必勝法はカードを出し切ることではなく、相手を四回目のパスに追い込んで離脱させることにある。つまり、出せるカードが仮にあっても、パスが残っていれば、パスをして鍵札を止めておくほうが得策なのだ。いいかえれば、強者同士の対戦においてはパスの三回という数字はまったく意味をなさない。使用できるパスの回数が仮にゼロであっても、勝敗にはまったく影響しないのである。なぜなら、真の強者四人が集まった場合には、最初の三回は全員がパスを執行するからである。突き詰めればこのパスというルール、弱者を選別するために導入された、いかにも馬鹿にしたルールなのであるが、たいていの庶民はそのからくりに気付かず、出せるカードを手札の中に見つけると、喜んで出してしまうのが現実だ。
それに対して、数学者と称するだけあって、川本の戦略は巧みであった。丸山と自分の技術差がパスの使い方であることを見出すと、今度はその差を丸山に悟られないように、勝敗を左右しない場面では、あえてパスを取らずに次善手でつなぎながらしのぎ、勝負どころでは丸山を追い込む効果的なパスを連発した。こうまでされてしまえば、丸山は、どこで川本に勝てなくなっているのか最後まで分からずに、ただ混乱するのみであった。もちろんゲームの結果は、川本、丸山、相沢、藤ヶ谷の順でいつも勝者が確定していった。
「あら、あやちゃん、また負けちゃったね。川本さんは強いなあ」と、真横で観戦していた高木が感心していた。どうやら、この女もゲームに関して低俗集団に属する一員のようだ。結局のところ、俺に対抗できる知力を有するのは、この中では川本くらいしかいないことになる……。
「岡林さん。どうです。さっきから見てばっかりで、だんだんやりたくなってきたでしょう」
川本が挑発してきたが、
「ああ、三十六計逃げるにしかず――。今夜のところは遠慮させていただきますよ。まだ、疲労が残っているのでね」と、俺はさりげなくかわした。己の才能をひけらかすには、まだ時期尚早なのだ。