28.時空
相変わらずあんたは間違った固定観念に振り回され続けているんだよ、と如月恭助があざ笑う。いったい何がどう間違えているというのだ。
「じゃあ、久保川の殺害事件の真相から、説明していこうかな。この事件を解明するためには、八号室の扉とガフの扉で二重に閉ざされた強固な密室の謎を解き明かさなければならない。しかし同時に、現場には奇妙な光景がいくつか見られた。壁時計が止まっていたことと、ドレッサーの椅子が大きく引き出されていたことだ。そして、これらが語る真実とは――、さあ、なんでも屋、あんたにその答えが分かるかい?」
「さっぱりだ。とっとと説明をしろ」俺はあっさりと兜を脱いだ。いくら考えても、答えはまるっきり見つからない。
「パピルスNo.5によれば、久保川恒実の身長は160に満たない――」
みずからの身長もおそらく160に満たない恭助が、威勢良く切り出した。「そして、壁の高い場所に掛けられた針の止まった時計と、壁のそばまで引き出されたドレッサーの椅子。とくれば、その状況を合理的に説明するのは、しごく単純じゃないのかな」
「そうか。久保川は止まった時計を手に取るために、踏み台としてドレッサーの椅子を用意したんだ」
「そう考えるのが自然だよね。おそらく時計は電池切れかなんかで止まってしまったのだろう。それに気が付いた久保川は、電池を交換するために時計を壁からはずそうとした。ところが手が届かないから、そばにある適当な踏み台を探したところ、ドレッサーの椅子が見つかったということだ」
「でも、どうして久保川は裸だったんだろう」
「ちょうどシャワーを浴び終えて、バスルームから出てきたところで、止まった時計に気付いたんだろうね」
「なるほど。そして、そこを部屋に隠れ潜んでいた人狼に襲われた、ということか」
「うーん、そうだとすると、そのあとで人狼は難攻不落の完璧なる二重の密室をすり抜けて、部屋から逃亡していることになるじゃない」
「そうだ。だから、その密室の謎を解き明かさなければならないんだ」
俺が真剣にうったえるのを聞いて、恭助はせせら笑った。
「だからさあ、分かんないかなあ。物事はもっと単純に考えればいいんだよ」
「単純に?」
「そう。そもそもそこは密室だったのか?」
「そこは鍵を掛けられて閉ざされた部屋だった――すなわち密室だ。それ以外のなにものでもない」
「まあそうか。いい方がまずかったな。じゃあ、その密室から人狼は外部へ脱出していたのだろうか」
「ばかげたことを。あの現場には久保川の遺体以外、誰もいなかったじゃないか。それはもう確認済みだ」
「そうだね。じゃあ、そもそも人狼は、いや、犯人は、その現場にいたのか」
「現場にいなければ、久保川を殴打することはできない。しかるに、その場にいたに決まっている。
はっ……、まさか」
「そうだよ。ようやく気付いてくれたみたいだね」
恭助が満足そうににんまりと笑った。
「久保川の死因は突然死――。殺害されたのではなかったんだよ!」
「久保川は、ガフの扉と八号室の扉の双方に鍵を掛け、外部からの侵入者を遮断した状態で、自室でくつろいでいた。風呂上がりで裸に腰タオル姿のまま、ふと壁を見上げると、時計が止まっているではないか。電池を交換するためには、時計を壁から外す必要がある。でも、久保川の背丈では時計に手が届かない。そこで、室内を見まわしてみると、踏み台となるべきドレッサーの椅子があったので、壁の近くまで移動させた。そして、椅子によじ登って壁時計をはずそうとした瞬間だった。久保川は椅子から転落してしまい、はずみで後頭部を床にぶつけた。かくして、久保川は閉ざされた部屋の中で、ひとり切りで、勝手に死んでしまったのさ」
「しかし、よくも都合よく死んじまったものだな。それに、お前、どうしてそれが分かった」
「ヒントは常にパピルスにありさ。パピルスのNo.2。そこに記された久保川恒実の既往症――、それは、『Angina Pectoris』。
おーい、リーサちゃん。教えてくれないかな。Angina Pectorisって、どういう意味なの」
そばに控えしリーサが、うれしそうに応じる。
「はーい、リーサお答えします。恭助さんって本当になんにも知らないんですねえ。Angina Pectorisは、医学用語で『狭心症』を意味します。動脈硬化などが原因で引き起こされる、心臓の冠動脈の異常による胸部圧迫感などの諸症状の総称です。なお、狭心症がひどくて心筋が壊死してしまった場合には、『心筋梗塞』といいますよ」
「つまり、久保川はもともと狭心症の持病を持っていた。それが突発的に発生して、心筋梗塞でポックリ死んでしまったというわけだ。風呂上りの急激な運動が祟ったのかもしれないね」
「後頭部打撲による出血は、はずみで後頭部を床にぶつけたためにたまたま生じた、ということか」
「そういうこと。これが二重の密室の謎を説明するもっとも簡素な解答であり、唯一の答えなのさ」
「久保川事件の謎はそれでいいとして、まだ藤ヶ谷の密室殺人の謎も残っている。
藤ヶ谷も久保川と同様、霊安室に鍵を掛けたあと、服を脱いで裸になり、みずからをなんらかの手段を用いて電気椅子にしばり付け、なんらかのトリックを用いて電気椅子室の外にあるスイッチを押して、誰の手も借りずにポックリ死んでしまった、とでもいうのか」
「あはは。だとしたら面白いよね」
「健康体の藤ヶ谷が自殺や心筋梗塞で勝手に死んだのではないことは明らかだ。現実に、やつは電気椅子のスイッチを押されて殺されている。だから、人狼はスイッチを押した後で霊安室から脱出していることになる。だが、その扉を開け閉めできる鍵はマスターキーだけ。おまけに、そのマスターキーは、久保川の部屋の中に閉じ込められていたのだから、使用することすらできなかったはずだ。
さあ、どうだ。今度こそ完璧な密室だぞ」
この発言で俺は恭助を理詰めで追い込めたつもりでいたのだが、相変わらず恭助は飄々としていた。
「じゃあ、その答えも教えてあげよう。藤ヶ谷を殺したのはもちろん人狼さ。人狼は藤ヶ谷をスタンガンで眠らせて、電気椅子にしばり付けた。人狼はみずから電気椅子のスイッチを押して藤ヶ谷を殺害してから、そのまま霊安室をあとにした」
「ならば、藤ヶ谷を殺害した人狼は、そのあとどんなトリックを使って霊安室の扉に鍵を掛けることができたんだ」
「トリックも何も……、人狼はそのまま堂々と扉から外へ出て、マスターキーを使って鍵を掛けただけなんだよ」
「そいつはおかしい。だって、マスターキーは最終的に久保川の部屋の中になければならない。霊安室をマスターキーで施錠したのなら、そのマスターキーを久保川が死んで横たわっている二重の密室の中へ送り込まなければならない。マスターキーが発見されたのは、久保川の部屋の机の引き出しの中なんだぞ」
「つまり、再び二重の密室を突破しなければならなくなる……」
「そういうことだ。久保川の密室と藤ヶ谷の密室は、どちらか一方は実現可能でも、両方を同時に実現することが不可能なんだ。まさに堂々巡りってやつだ」
「そうか、まさに堂々巡りなんだね」
恭助が涼しい顔で笑った。こいつ、ここへ来て自己の論理の矛盾に気付いて、開き直ったのか?
「でも、その堂々巡りも一気に解消さ。いいかい、久保川はみずからの部屋に鍵を掛けて、そのあと鍵を机の引き出しにしまい、それから持病の発作で死んでしまった。これで、久保川の部屋の密室の謎は解決だ。
それから藤ヶ谷の殺害。人狼は藤ヶ谷を殺した後、マスターキーを用いて、霊安室に鍵を掛けて外へ脱出した。これで、藤ヶ谷の密室の謎も解決。
あとは、マスターキーがどのルートで久保川の部屋の机の引き出しの中におさまったのかを説明すれば、すべてのつじつまが合うよね」
「それはその通りだが、どうやって説明をする? マスターキーの行方を」
「ふふふっ、そこでかの人狼閣下が用いた必殺トリックこそが、四次元時空の移動なのさ」
「冗談もいい加減にしろ。ここは三次元の世界だ。人狼が神でなくて生身の人間であるのなら、人間ができる能力の範囲内で事件の謎は解き明かされねばならん」
「そうさ。だから、人狼は藤ヶ谷を殺して、霊安室をマスターキーで施錠してから、時間移動装置を使って時間をさかのぼり、久保川が心筋梗塞の発作を起こす前の時刻の八号室へと移動をした。そして、引き出しの中へマスターキーをしまい込んでから、久保川は勝手にポックリ死で大往生を遂げてしまった」
「あのなあ、時間をさかのぼる能力なんて人間は持っていやしない。それに、久保川の部屋の引き出しにマスターキーをしまい込んだ人狼は、そのあと二重の密室からどうやって外へ出たんだよ」
「その通り。だけど、人狼が二重の密室から外へ出なくても済む合理的な説明が、たったひとつだけあるよね」
そういって、如月恭助は口元にいつもの不敵な笑みを浮かべる。
「それは……、人狼が久保川医師だった――、という説明だ!」
私はカップの底に残った最後のミルクティーを一気に飲みほした。
「その通りですよ。私は確かに嘘を吐きました。私が丸山の部屋を訪れたのは、おそらく二時過ぎ、遅くても三時でした。丸山から受けた恥辱を隠したい一心から放った、とっさの嘘でした」
私は観念して、あらいざらい白状した。
「時刻は正確に思い出せないのかい」
「さあ。しばらく気を失っていたから、よく覚えていません」
「おーい、マスター。おかわり注文だ。俺はカルピスの冷たいの。それから、こちらのお嬢さんは……?」
「ちょっと待ってください。私はもう……」
「いいよ、いいよ。今日は俺のおごり。強引に誘ったのはこっちだからね。
マスター、こちらのお嬢さんには、そうだなあ、極上のホットココアを頼むよ」
ココアか。やっぱりこの子は反コーヒー党なんだ。私とおんなじだ……。
「じゃあ、あんたが藤ヶ谷から襲われた時刻はいつだい。少なくとも二時よりはずっと前だよね」
「九時過ぎです、前の日の。私はマスターキーがワインセラーに隠してあるのではないかと思って、地下室へ一人で忍び込みました。一ノ瀬氏は毎日九時過ぎになるとリネン室へ行くのですが、ときどき一階のガフの扉の鍵を閉め忘れてしまうのです。その日もそうでした。すべてがうまくいったと思いましたわ。でも、気が付いたら背後に藤ヶ谷が立っていたのです。私は霊安室へ逃げ込みましたが、扉を強引にこじ開けられてしまいました。そのあとは、語るも汚らわしいむごい仕打ちを受けましたわ」
虫除けくんは、私の強姦の話を聞いて、ちょっとくらいしり込みするかと思いきや、淡々と顔色も変えずに尋問を続けた。
「その時、霊安室に誰かほかにいなかったかな」
「さあ? 私は辱めに耐え切れずに気を失ってしまいましたから、そのあとで何が起こったのかは知りません」
「あんたが気を失ったのが霊安室で、気が付いたのもそこだったの」
「いいえ」
「違う場所だったんだね」
「ええ、再び気が付いたのは、ワインセラーの中でした」
「そうか。やっぱりそうだったんだ。
あんたは霊安室で気を失って、気が付くとワインセラーにいた。つまり、あんたは気絶している間に場所を移動させられていた。そして、あんたをワインセラーまで運んだ人物こそが、藤ヶ谷を殺害した人物、すなわち、人狼ってことになる」
「必然的にそうなりますね」
「さらに、のちになってからだけど、あんたは人狼が誰なのかが分かってしまった」
「さあ、どうしてそう思うのですか」
「なんでも屋のメモに書かれたわずかな記載さ。危うく見落とすところだったよ。
あんたは、久保川の遺体が発見された時に、お隣りの七号室へ忍び込んで、そこでなにかを見つけてこっそり懐へしまい込んだのを、なんでも屋に見られているよね」
「へえ、そうなんですか」
「あんたが隠したものを、なんでも屋はたしか白い布のようなものだと記していたけど、それはおそらく下着かなんかだろう。あんたが着用していたね」
そう。私が相沢の部屋で見つけたもの。それは、藤ヶ谷から襲われたあとで紛失したブラジャーであった。私が付けていたブラジャーがなぜ相沢の部屋に? 相沢がこっそり持ち去ったのか。いや、それはあり得ない。私が失くしたのは昨日で、その時には相沢はすでに死んでいた。では、どうして相沢の部屋に私のブラジャーがあったのか。そうか、相沢の部屋に自由に行き来できる人物が、ここへ隠したからだ。さらに、その人物は、昨晩、気を失っている私を霊安室からワインセラーへ運んだ人物でもある。そして、それは、久保川医師以外には考えられない。
虫除けくんのよどみない推理は続いた。
「霊安室からあんたを運び出した人物は、性的好奇心からあんたの付けていた下着を持ち去った。おそらくはパンツかブラジャーあたりだと思うけどね。
それにしても、あんたの語学力はたいしたものだよ。パピルスNo.2に書かれた英語の『狭心症』の意味を理解していたのだからね。あんたは密室で死んでいた久保川の死因が突発的な心臓病であることも悟っていた。
そして、藤ヶ谷が霊安室で遺体となって発見された瞬間、あんたにはすべての真相が見えてしまった。藤ヶ谷を殺して、あんたをワインセラーへ運び、あんたの下着を手土産に持ち去り、自分の目が届く相沢の部屋へこっそり隠した人狼の正体が、久保川恒実であることを――」