17.伝説
対話型人工知能プログラムと自称するアオイが発する透き通る声が、『人狼伝説』とやらについて語り始めた。
「――時は十八世紀前半、名門ハプスブルク家が統治するオーストリア大公国のシュタイエルスカ地方、現在だと東欧のスロベニア共和国がある地区に該当しますが、これはそこで実際に起こった物語でございます。
この辺りはアルプス山脈南端の麓に位置するとても険しい山岳地帯でして、カルスト地形の荒涼とした風景がどこまでも広がる、とてものどかな土地でありました。そして、この忌まわしき事件が勃発したべレニエ村も、そんな中のごくありふれた普段は平穏な集落の一つでございました。
領主のヨハン・ブラコチェビッチは、裕福な家庭に生まれました。幼い頃から甘やかされて育てられたためか、勝手気ままで、たいそう残忍な性格でございまして、同時に嫉妬深くて、無信心な人物でもありました。ある日、ヨハンは散歩の途中でふと見かけた、粉ひきミルコの一人娘であるエレナに恋をしてしまいます。エレナは、まだ幼くて、薄雪草を思わせるような、それはそれはとても可憐な少女でございました。ヨハンは権力をちらつかせながらも強引にエレナに迫ります。ですが、エレナはかたくなにヨハンを拒み続けました。ついに頭にきたヨハンは、ある日エレナを無理やりに誘拐をして、あろうことか、ブラコチェビッチ邸でもっとも高い塔のてっぺんにある閉ざされたさびしい小部屋へ、彼女を閉じ込めてしまうのでした。
それからというもの、ヨハンの毎晩にわたるおぞましき暴力がふるまわれるのでございました。午後の九時になると決まって、ヨハンは一人だけで塔へ上っていきます。エレナのお洋服を脱がせて、恥ずかしい裸のお姿にすると、欲望のおもむくままに、男女のいかがわしいやり取りを、いつまでもしつこく繰り返すのです。可哀そうなエレナがいくら泣きながら拒んでも、ヨハンは決してやめようとはしませんでした。それでも、いつまでも心を開かないエレナをしつこく問い詰めたヨハンは、やがてエレナにはジェリコという許嫁がいることを知ってしまいます。そいつがいるかぎり、可憐なエレナの心は永遠に我がものとはならないことでございましょう。そう決め付けたヨハンは、ただちにジェリコを捕らえてしまいます。そして恐ろしいことに、エレナが見ている前で、とても残忍な行為におよぶのでした。
ヨハンは、狂暴な二匹の狼、スコルとハティを飼っていました。ヨハンは、丸三日間もこの二匹に餌を与えずに、おなかをペコペコにさせてから、裸にしたジェリコにスコルとハティをけしかけたのでございます。ああ、なんということでしょう。哀れなジェリコはあっという間に二匹の狼たちに見るも無残に食い漁られて、息絶えてしまうのでした。
このあまりにも酷い仕打ちによる悲しみのために、可哀そうなエレナは正気を失ってしまい、それのなれの果ての姿にすっかり幻滅をしたヨハンは、今度は自らが犯したおぞましき事件の発覚を恐れるあまりに、なんとエレナまでも、スコルとハティのいけにえにしてしまったのでございました。
その後、一年ほどの月日が経ちましたけど、ある日を境に、ブラコチェビッチ邸では奇怪な出来事が起こるようになります。たくさんいる使用人たちが、毎晩一人ずつ、次々と不可解な死を遂げていくのです。みなが喉笛を引きちぎられて、部屋の絨毯一面を真っ赤な血の海と化しながら死んでいるのが、翌朝になってから見つかるのでございました。やがて、使用人の中に人狼が紛れ込んでいるのではないかという、まことしやかな噂が流れ始めます。ヨハンは、人狼が誰なのかを突き止めようと様々な手を尽くしますが、一向に手がかりはつかめませんでした。そうこうするうちに、いつか自分が殺されてしまうのではないかと恐れたヨハンは、毎日陽が沈む頃になると、館の奥にある秘密のお部屋に鍵を掛けて、一人切りで閉じこもって、夜を明かすようになったのでございます。その秘密のお部屋は、いったん中から鍵を掛けてしまえば、蟻の一匹も入る隙間がないほどまでに、完璧に密閉された部屋でございまして、その部屋の唯一の出入り口となる扉が、ぶ厚いオーク材で作られておりましたのですが、どんなに力を込めて押してみようがびくとも動かない、とても頑丈な扉でございました。
その日は、大きなまあるいお月様がこうこうとお空を照らす雲一つない穏やかな夜でございました。使用人たちもすっかり寝静まってしまった真夜中に、ヨハンが閉じこもったお部屋から、それはそれは身の毛もよだつような気味の悪い悲鳴が聞こえてきたのでございます。慌てて集まった召使たちが、かわるがわるに声を掛け合いますが、部屋の中からは、格闘をして家具が転がるすさまじい物音と、激しい息づかいのヨハンの悲鳴だけしか聞こえません。
『助けてくれ、人狼だ――。
ああ、恐ろしい悪魔が、俺を殺そうとしているう!』
召使たちは扉をドンドンと叩いて、開けるようにうながしますが、扉には鍵が掛かっており、ガンとして動きません。
やがて、背筋が凍りつくような気味の悪い断末魔が聞こえたかと思うと、急に中からなにも音がしなくなってしまいました。
ようやく一人の召使が大きな斧を持ってきて、扉を壊しにかかりますが、それでも頑丈な扉はなかなか壊れませんでした。でもやっとのことで扉が壊されて、召使たちは武器を手にしながら、おそるおそる部屋の中へ乗り込みましたが、そこにはおびただしい血で真っ赤に染まった床の上に、仰向けになってかっと両目を見開いたままで息絶えているヨハンの無残な姿だけしかありませんでした。ところが、安易には信じられないことでございましたが、恐ろしき人狼のお姿は、部屋の中をいくら探しまわってもどこにも見つからなかったのでございます。
なんと摩訶不思議なことでございましょうか。さっきまでここにいて、当主ヨハンさまを襲った人狼は、かたい石壁で閉ざされた完璧なるこの密室から、まるで煙のごとく跡形もなく消え失せてしまったのでございます……」
アオイの話はここで途絶えた。誰もが蒼白な面持ちで言葉を失っていた。まあ作り話にしてはよくできた逸話ではあるな……。
「つまりまとめると、人狼は、必ず夜になってから行動を起こし、しかも、毎晩必ず誰かを一人ずつ犠牲者として選んでいく。そして最後には、追い詰められても煙のごとく壁をすり抜けて、その場から消え失せてしまう特殊能力を有している、というのだな」と、俺は人狼に関して自分なりに解釈した見解をアオイにぶつけてみた。
「ああら、さすがは探偵さま。お察しよろしいことで――。まさに、おっしゃる通りでございますわ」
小鳥がさえずるような東野葵子のかわいらしい声が、頭上の方からさんさんと降りそそいでいた。