15.悪夢
藤ヶ谷の目は血走っていた。どうやら正気でなさそうだ。
私は冷静に四方へ目を配った。一階へ戻る通路は、藤ヶ谷自身がふさいでいる。体当たりをかましたところで無意味であろう。なにより力で勝てる相手ではないのだから。それならば、ここから思いっきり大声を発したとして、果たして、館にいる誰かの耳まで届くだろうか。私は来る途中にあった赤レンガの石段を思い出した。防音効果がそれなりにありそうな構造のように思われる。このアイディアも残念ながら成功率は低そうだ。
私にはもう一つの選択肢があった。左手背後の扉から霊安室へ逃げ込む作戦である。だが、これには一つ問題があった。霊安室自体が完璧なる袋小路なのだ。そっちへ逃げたところで、みんながいるところへ逃げられるというわけではない。いや、むしろ事態はもっと悪くなってしまうのだ。でも私の記憶では、霊安室はたしか中から鍵が掛けられたはずである。首尾よく逃げ込んで、藤ヶ谷が来る前に鍵を掛けてしまえば、この害虫を完全に駆除できる。ただそれを選んだ場合には、万に一つも失敗は許されない。
さあ、どうする。ここで大声をあげるか、霊安室へ逃げ込むか。
藤ヶ谷がにじり寄ってきた。もう私との距離が五メートルくらいになった。悩んでいる猶予はなさそうだ。
私はうしろを振り向いて、扉に手を掛けた。ここが開かなければ、そもそもが一巻の終わりなのだが、幸運なことに扉はすんなりと開いた。そのまま霊安室を目指して私は廊下をひた走った。さあ、次なる関門は霊安室の扉だ。もしここに鍵が掛かっていようものなら万事休すであるが、私には鍵が掛かっていないという絶対的な確信があった。霊安室の扉に鍵が掛かっているとすれば、可能性は二つ。マスターキーの保持者が、なんらかの理由でここまでやってきて、霊安室に鍵を掛けてから、なぜか引き返してしまった場合。もう一つは、この時間帯に霊安室に誰かが潜んでいて、中から鍵を掛けている場合だが、いずれもありそうには思えない。
ノブに手を差し伸べ、祈るように回した。予想通り、鍵は掛かっていなかった。私は霊安室へ入って、すかさず扉を閉めた。追いかけてくる藤ヶ谷の足音がするけれど、鍵さえおろしてしまえばこっちの勝ちだ。やった、助かった……。
しかし、ここで想定外の誤算が生じた。扉を締め切った途端、霊安室の中が暗闇に閉ざされたのだ。あわてた私は、ノブの近くにあるはずの楕円形のつまみを、手探りで探した。あった、ここだ……。つまみに指先が掛かり、回そうとしたその瞬間――。ものすごい力で扉が押し開けられて、反動で私の身体は後方へ吹っ飛ばされてしまった。床にひざまずいたまま顔をあげると、戸口には巨大ゴリラを思わせるシルエットがたたずんでいた。
「やれやれ、飛んで火にいる夏の虫ってやつだな」
そういって、黒い影は後ろ手で扉を閉めた。再び、室内が真っ暗になった。
「おどろいたぜ。まさか、自ら霊安室へ飛び込むなんてな。もっとおしとやかな嬢ちゃんだとばかり思っていたけど、なかなかやるじゃねえか。見直したぜ」
藤ヶ谷の声が途絶えると、カチャリと小さな音がした。扉の鍵が掛けられた音だった。私を絶望のどん底へ突き落す音――。このまま私はこの野獣の思うがままにされてしまうのか……。
突然、照明がパッとともされた。壁に設置された電灯スイッチに藤ヶ谷の指が乗っかっていた。
「これでここは俺とお前の二人だけのエデンの園となったわけだ」
私はまだ希望を捨てていなかった。霊安室はそれなりの広さがある。たとえ、入り口を封鎖されても、部屋の中で逃げまわれるかもしれない。いや、おそらく無理であろう。こっちは走りにくいロングスカート。向こうは身軽なトレーニングスタイルの短パン。それだけでも圧倒的に不利だ。それに、ここは殺風景な部屋だから、鬼ごっこをするにも障害物がない。棺桶の向こう側へ逃げたところで、藤ヶ谷はなんなく飛び越えてくるだろう。ならば、電気椅子部屋へ逃げ込めば……。いや、それも駄目だ。あそこにはそもそも鍵が設置されていない。
ついに壁を背にするところまで追い詰められた。
「さあ、そろそろ観念しろ。お前の貞操は俺のものだ!」
藤ヶ谷はニヤリと笑うと、いきなりその場でTシャツを脱ぎ始めた。鍛え抜かれた上半身がむき出しになった。
「どうだい、この肉体美……。俺は知っているぜ。お前のような華奢な女は、鍛え上げられた男にハグされるのをひそかにあこがれているんだってな。さあ、俺の胸へ飛び込んで来い」
なにを勝手なことを……、と思っていたら、突如ある作戦がひらめいた。私は気を落ち着かせると、甘え声を取り繕って藤ヶ谷に話しかけた。
「お願いがあります。どうせなら、下も脱いでください」
藤ヶ谷は驚いて目をぱちくりさせた。
「ほう。お前にその台詞がいえるとは思わなかったな。待っていろ、今見せてやる。ほら、どうだ……」
なんの恥じらいもなく藤ヶ谷はパンツを脱ぎ棄ててしまった。デリカシーのかけらもない、まさに野獣である。さあ、チャンスは一度切りだ――。
「すごい。こんなの見たことない……」
興味をそそられたように手を差し伸べると、藤ヶ谷は喜んで股間を突き出してきた。本当に馬鹿なやつ……。次の瞬間、私は身をひるがえして、野獣の股間を思いっきり蹴り上げてやった。
ぐちゅっとした気持ち悪い感触――。思わず吐き気を催したけど、手ごたえは十分だった。藤ヶ谷が前のめりにうずくまる。その傍をすり抜けて、私は一目散に扉を目指した。しかし、なんということだろう、もがき苦しんでやみくもに振りかぶった藤ヶ谷の手が、偶然にも私の足首をとらえたのだ。振り払おうとしたけど、やつの力は異常だった。足首を引っ張られて、私はあっけなく倒されてしまう。
「放せ、けだもの――」
必死に振りほどこうとしたけど、藤ヶ谷はうずくまったまま、頑として握った手を放そうとはしなかった。
「あー、痛え。まさか、こんなおてんばな一面があったとはな。すっかり油断しちまったぜ。でもよう、今度男の金的を蹴る時は、足じゃなくて膝で蹴るんだな。そうすれば無事に逃げられただろうに」
藤ヶ谷はよろよろと立ち上ると、私を身体ごと軽々と肩の上へ担ぎあげてしまった。そして、恥ずかしい格好のまま前方へ突き出している私の臀部を、卑猥な手つきでなで始めた。
「本当にいいケツをしてやがる。げへへ」
担がれた私は、藤ヶ谷の背中を叩いて必死に抵抗を試みたが、全く功を奏していなかった。視界には汗まみれの藤ヶ谷の背中だけしか映らなかった。でも次の瞬間、予期せぬものを見つけた私は、いい知れぬ恐怖のどん底へ蹴落とされてしまう。
日焼け装置で不自然に焼かれた藤ヶ谷隼の茶色い背中には、高木莉絵がひっかいたとおぼしき深い爪痕が、生々しく刻まれていたのであった……。
我に返ると、地面に降ろされていた。いや、正確にいうとそこは地面の上ではなかった。なにやら硬いものの上に座らされているみたいだった。逃げようとしたけど、藤ヶ谷から体重を押し付けられて、身動きが取れなかった。
急に右腕がグイっとつかまれて、なにかで縛られた。そして、左腕も……。しまった、今、私が腰かけているのは電気椅子だ。ここは電気椅子部屋の中なのだ。ようやく状況を理解した時にはすでに時遅しで、手首、首、腰、それに両足首が、皮ベルトでしっかりと電気椅子に固定されていた。
「あなたね、莉絵さんを殺したのは?」私は、せめてもの抵抗手段として、藤ヶ谷をきっとにらみつけた。
「ははっ。なにを根拠に?」
「しらばっくれても無駄よ。あなたの背中には、殺された莉絵さんが必死に抵抗して残したひっかき傷があるじゃない?」
「ああ、これか……。
いっとくが高木とは同意の上でのセックスだったんだ。あいつも意外と好き物でな。俺とのセックスによがって、やっている最中に爪を突き立てやがったんだよ」
「うそつき。そんな与太話、誰が信じるのよ」
「だったら、高木は俺が殺したことにしてもいいよ。だがそうなると、次に殺すのはお前ってことになるよな。ふへへっ。さあ、どうする。命乞いをするなら今の内だぜ」
私は聞こえないふりをした。
「ふん、ここに来てガン無視かよ。まあ、いいや。拘束されたご令嬢の極上のお身体、じっくりとおがませてもらうぜ」
藤ヶ谷は私の首筋に手を掛けると、ドレスのすき間から太い指をさし入れて、それが背中のひもにそっと触れたかと思うと、ブラジャーのホックはプツンとはずされてしまった。実に手慣れた手つきであった。
「きゃっ、なにを……」
それから藤ヶ谷は、椅子のうしろへ回り込んで、無防備な状態になった私の胸を、背後から伸ばした手のひらでぎゅうっと鷲づかみにした。
「いやです。やめてください……」
椅子に拘束されて身動きが取れない私は、不快感から逃れようと必死に身体をねじるけど、それに合わせて手のひらは向きを変えてきて、際限のない凌辱が続いた。耳元に生ぬるい空気と、ハアハアと変質者のような気味悪い息づかいが聞こえる。
「もう、いい加減にしてください!」
「まだドレスの布越しにおっぱいを揉んでいるだけじゃんか。本番はこれからだぜ。
でもよ、意外だったな。てっきりお前の胸はぺったんこで、クラゲパッドでごまかしているものと思っていたけど、手のひらサイズの、実にいい膨らみだ。こんなに身体は華奢なくせになあ。はあはあ、こいつはたまらねえや……」
不快な仕打ちに意識が次第に遠のいていく。ふと気付くと、藤ヶ谷の巨大な茶色い身体が、私の顔の前を立ちふさいでいた。
「さあて、そろそろ観念をして、俺のいちもつを咥えろ。ほうら、お前に興奮してこんなに猛り立っているんだぞ」
不謹慎にも、私の顔面に向けて得意げに陰部をかざしているみたいで、私は目をつぶって必死の抵抗を試みた。すると藤ヶ谷は、不満げにちっと舌打ちをしてから、私の両肩に手を掛けて、ひざまずいた。
「あのなあ、正直いうとレイプは好みじゃないんだ。だからさあ、お前。俺のことを好きになればいいじゃんか。俺はお前のことをこんなに愛しているんだぜ。これまでの女はみんな、この完成された肉体美に魅了されて、ことごとくひれ伏してきたんだからな」
「ふっ、馬鹿じゃないの。そんなの絶対にあり得ないわ……」
私はきっぱりと啖呵を切ってやった。それを聞いた藤ヶ谷は、駄々をこねる子供みたいに、全身をぶるぶると震わせ始めた。自己陶酔愛の自尊心を全面否定されてしまい、動揺を隠しおおせないみたいだった。
「この女――。こんなにお前のことを思う俺さまの純朴な心をないがしろにしやがって。もう許せねえ。お仕置きをしてやる。でもな、ただのお仕置きじゃないぜ。この罪を償うには、並大抵のお仕置きじゃ足りねえんだからな」
なにをいい出すのか、三十を超えた大人のいうセリフとはとても思えない幼稚な発言である。それから藤ヶ谷はどこかへ消えてしまい、少し間をおいてから戻ってきた。
「いいか、こいつが最終警告だ。俺の女になって素直に抱かれるか、拒否し続けてお仕置きを受けるのか」
顔になにか布のようなものをかぶせられて、視界が急に閉ざされた。これは……、電極付きの顔面マスク? 冗談でしょ? こいつ、本気で私を電気椅子に掛ける気なの?
「畜生め。俺のことを愛してくれないのなら、黒焦げの消し炭にしてくれる! いっとくが、悪いのは全部お前なんだからな――」
両方の足首に、金属を当てられたような冷たい感触が……。藤ヶ谷は私の足にも電極を取り付けたのだ。なんて身勝手で子供じみた振る舞い。そして社会的道徳心の欠如。こいつは自分にブレーキが掛けられない弱い人間なんだ。そして、こんなならず者のために、私は殺されてしまうのだろうか。そんなの、絶対に……、嫌……。
限度を超えた恐怖にとらわれた私は、椅子に拘束されたまま絶叫を残して、意識を失った――。
気が付くと床の上で倒れていた。ここはどこかしら?
おどろいたことに、そこは電気椅子部屋ではなくて、ワインセラーであった。藤ヶ谷の姿はどこにもなかった。一瞬頭が混乱した私は、なにが起こったのかを冷静に思い出そうとつとめた。
はっ――、そうだ。私はおそるおそる下着の中へ指先を入れると、自分の女性器の形状を触って確認をしてみた。膣口が無理やりに押し広げられたような形跡はなかった。分泌物も私の匂いだけしかしないし、異物を挿入されたような変な痛みも感じなかった。もしかしたら、私の貞操はまだ守られているのかもしれない……。
ひとまずほっと胸をなでおろした私であったが、すぐに新たな事実が判明した。ドレスはきちんと着ていたけれど、ブラジャーが紛失していたのだ。どうやら藤ヶ谷は、ブラジャーだけを単独で持ち去ってしまったようである。
よろよろとした足取りで、私は館へ戻った。あたりはひっそりと静まり返っていて、生きとし生けるもの気配がまるで感じられなかった。一階のガフの扉の鍵は、相変わらず開いたままだった。神経は衰弱し切っていた。誰かの助けを求めて、私はあてどもなく廊下を彷徨った。
ふと見ると、目の前には『No.4』のプレートが掲げられた扉があった。丸山文佳の部屋である。
私はコツコツと扉を叩いた。三十回は叩いたかもしれない。ようやく、中から声がした。
「誰なの? こんな時刻にドアを開けるとでも思っているの。いいかげんにしてよ!」と、怒ったような丸山の声がした。
「わたしです。摩耶です――」そう告げて、私はもうろうとその場にひざまずいた。
扉がさっと開いた。
「まあ、摩耶ちゃん! さあ、中へお入りなさい」
丸山はかなり驚いた様子であったが、私を部屋の中へ招き入れると、急いで扉の鍵をおろした。
「いったいどうしたのよ? はっ、まさか……」
私の衣服の乱れに気付いたのだろうか。丸山が甲高い声を発した。
「まずは、シャワーを浴びなさい。あっ、それから、よかったら摩耶ちゃんのお部屋の鍵を貸してくれない。今から着替えを取ってきてあげましょう」
断りもなく押しかけているのに、丸山は優しかった。安心した私は、申し出に甘えて、シャワーを浴びることにした。今宵目の当たりにしたあの忌まわしき悪夢を、すっかり洗い流してしまうために……。