14.失踪
午後になってから、いつものように食堂へこもって本を読んでいたのだが、一ノ瀬氏がちっとも顔を出さないから、少し不安になってきた頃、すっと扉が開いたので、喜んで顔をあげてみたら、それは一ノ瀬氏ではなく堂林凛三郎であった。彼は私がいるのに気付くと、いつものようにそ知らぬ素振りに表情を切り変えて、横目を払いつつも、こそこそと私の行動を観察し始める。別に彼から行動パターンを読まれようが読まれまいが、私の知ったことではないのだが、そうではなくて、私の隙をうかがっているというのなら、話は別である。まあ、堂林の性格からいって、白昼のさなか、いつ人がやってくるかも分からぬ食堂にて、女性に襲い掛かろうなんて、とうていありそうもないのだが、用心するに越したことはない。だから、私の方からあえて立ち去ってあげることにした。鎖がはずれた犬に向かって手を差し伸べるような愚行を、わざわざ選択する必然性はないからだ。私がいなくなって、食堂に居残る理由がなくなったからなのか、なんらかの用事を済ませたからなのかは、よく分からないが、堂林がそのあとすぐに食堂から出てきたので、そう来るならばと、私はもう一度食堂へ戻ってやった。もちろん、それを見た堂林が、再度入ってこようものならば、また出ていく覚悟であったが、結局、彼はあきらめてどこかへ行ってしまったようだ。私はほっと胸をなでおろして、再び文庫本を開いた。なんだかんだで、ここは一番安全なのだ。いざとなったら一ノ瀬氏が駆けつけてくれるはずだし。
そうはいうものの、かれこれ二時間ほど彼はここへ顔を見せてはいない。こんなことは初めてだ。何か非常事態が起こっているのだろうか。一ノ瀬氏がいないとなると、ここも絶対的な避難所というわけではなくなってしまう。かといって、居間に行くのは、断固拒否だ。あそこはいろんな人間が出入りするから、いちいち誰が来たかを確認するのも面倒だし、なにかしら神経をすり減らす羽目になるからだ。無論、私の個室に逃げ込むなんて論外。あんな屋敷の端っこに位置する袋小路では、いざという時に逃げ場が全くなくなってしまう。とにもかくにも、マスターキーが行方不明なのは、実に厄介な事実なのである。
仕方がないので、私はもう一つの避難所である一階の共用女子トイレへ行くことにした。正直なところ、そこへは避難したくない。いや、決して居心地が悪いというわけではない。むしろ、狭くてとても素敵な場所といえよう。でも、そこに私が隠れたがっていることを他人に知られたくないというのが理由だ。私がみんなと一緒にいたくないということは、すでにバレているだろうけど、あからさまにみんなから逃げ隠れしていることまで悟られてしまうと、今度はそこに付け込まれる危険性も出てくる。かといって、この状況下では、晩餐までの一時しのぎも仕方あるまい。ひとまずトイレへ隠れることにしよう。
トイレの中へ入って鍵を掛けてしまうと、外の扉に使用中の赤い表示が出てしまうのは知っている。当然、通りかかった人間が、いつまでも赤表示になっているトイレを変だと感じれば、強引に扉をこじ開けようとするかもしれない。かといって、鍵を掛けないわけにもいかない。万が一、強引に扉がこじ開けられそうになったら、その時は大声をあげて叫んでやる。私だってその気になれば、居間に届く声を張りあげるくらいできるんだから……。
トイレの扉に鍵を掛けて、便座に座ると、ほっと落ち着いた心地になった。四方を閉ざされた空間ってなんて素敵なんだろう。他人からじろじろ見られていることを気にする必要がなくて、しかも、襲われる心配もない。そう、私は根っからの閉所好きなのだ。
それにしても、高木莉絵はかわいそうな死に方だった。
高木莉絵――。最初私は彼女がいじわるな女の子だと思い込んでいたが、全然そんなことはなかった。私のことをいつも気遣ってくれたし、親切にもしてくれた。ピアノの腕前は、専門家なのだから当然かもしれないけど、なんというか、絶品であった。聴いていて気持ちがいやされたし、とにかく、感性に訴えてくるような見事な演奏だった。彼女の口ぶりでは、体形が太っていることを気にやんでいたみたいだけど、私からいわせれば、全然そんなことはなく、むしろうらやましいくらいに女性らしい、バランスの取れた身体であった。
この人狼館に一堂に会した面識の一切ない十人の人物たち。どの面子も一癖も二癖もある連中ばかりである。私は一人一人の顔を順繰りに思い浮かべていった。
丸山文佳――。優しいお姉さん。非の打ちどころのない正義感の持ち主で、面倒見のいい女性。とても頼もしい存在だ。私だって女性の中では背が高い方であるが、彼女にはとうてい及ばない。スリムで美人だし、腹筋なんかも鍛えていそうだ。婦警さんだといっていたから、堂林や川本なんかと素手で喧嘩をしても、もしかしたら勝ってしまうのかもしれない。彼女は私と同盟を結ぼうと申し出た。確かに事態が、人狼が絶対的に男性であることを示唆している以上、この申し出は当然といえよう。さあ、この申し出は今後の展開をどう変えていくのであろうか。
川本誠二――。自称数学者といっているが、実際のところ何者なのかは全く不明。正直なところ、数学にたけているとか頭がいいとかいった印象は、あまり受けない。要所要所で勝手な推理を展開するけど、その結論はいつも誰だって思い付きそうな凡庸なものばかり。もしかしたら、わざとそういっているのだろうか。だとしたら、とんでもない食わせ物だ……。いつも汗臭いからあまり近づきたくもないし、話し合いをするたびに私に浴びせかける性的な恥辱は、もはや忍耐の限界を超えている。
堂林凛三郎――。とにかく口達者で、実態を伴わない適当男。自称、私立探偵。でも、エルキュール・ポワロのような安楽椅子探偵のイメージとは程遠く、むしろ、浮気調査所員といった地味でまめな仕事が得意そうなタイプだ。自分が助かりたいためとはいえ、彼が唱えた私を貶める論法は聞くにたえないひどい代物で、こじつけもはなはだしいものであった。外目は紳士的にふるまいながら、私のこととなると常に色目線で観察してくるのも、正直、寒気がする。
藤ヶ谷隼――。根っこは間違いなく乱暴な野蛮人。超危険。私に目線を向けた時は確実に胸鎖乳突筋がピクピクと小刻みに動き出す。近寄ったら何をされるか分からない。顔を見るのも嫌。同じ部屋の空気を吸っていると思うだけで、萎えてしまう。
一ノ瀬祐之――。人のいい優しいおじさん。私のことを性的な目線で見ない唯一の男性である。安心して話ができる。普段は立場がら遠慮をしているが、語り出すとこだわりのある深い話となって、とても楽しい。礼儀作法、言葉遣い、気配りのよさ、すべてにおいて申し分ない執事さんである。
一ノ瀬歩美子――。性格は正直なところ謎。あまりしゃべらないけど、教養が高いという印象は受けない。きわめて庶民チックで平凡なご婦人である。でも、いい人そう。一ノ瀬氏との夫婦仲はむつまじい感じを受ける。なにをおいても、この人の料理の腕前はとにかく絶品である。
久保川恒実――。とある田舎町の開業医ということだ。遺体の死亡推定に関する彼のコメントからは、それなりの医学知識を心得た人物であり、医者であることは信じてもよさそうに思われる。でも、それを除けば単なる助平じじい以外の何者でもない。まだ会ってから一日ちょっとしか経っていないのに、すでに二回も、すれ違いざまに私はお尻を撫でられている。全く油断も隙もあったものじゃない。胸は触られたくないから、彼の近くには絶対に寄らないようにしよう。
どうやら少しうとうとしていたみたいだ。時間もだいぶ経っているかもしれない。私はトイレをそっと抜け出ると、食堂へ足を向けた。中へ入ると、堂林と一ノ瀬氏が向かい合って何やら話をしていたが、一ノ瀬氏の方は顔が真っ青だった。
「どうかしましたか?」私が声を掛けると、
「おお、西野さま。実は、家内が昼過ぎから姿が見えなくなってしまって、晩餐の準備が滞っているのでございます」と、一ノ瀬氏は答えた。
「まあ、大変……」
「とにかくみんなをここへ呼ぼう。手伝ってくれ」そういって、堂林は私に詳細を説明することもなく、そそくさと食堂から駆け出して行った。相変わらずのあわてんぼうさんである。私は一ノ瀬氏にそっと目を向けた。堂林に指示を受けたけど、正直なところ一人だけでここを出たくはなかった。
「西野さま、では、ご一緒いたしましょう」
そういってくれたので、だいぶん気が楽になった。
階段を上っているときに、堂林が川本、丸山と久保川を引き連れて戻ってきたから、私たちはそのまま居間へ移動した。
居間には六人の男女が集まった。中央のソファーに私と丸山が向かい合って座り、それを確認した久保川が、私たちの間に位置する長椅子にニヤニヤと嬉しそうな顔で腰掛けた。まさに、彼にとっての特等席ということだ。とっさに、私は久保川から少しでも距離を置こうと、ソファーにのっけた腰の位置を右の方へめいっぱいずらした。川本が大きな身体を震わせ、ゼイゼイと息を切らせながら、ピアノのそばにあった安楽椅子を運んできて、私の斜め後ろを陣取って、どっかと腰を下ろした。その瞬間、床が振動したかのように思われた。と、考えているうちに、汗臭い例のにおいが立ち込めてくる。ああ、気持ち悪い……。堂林は大時計の前で、川本とは反対側の、ちょうど私たちを飛車と角のごとく挟み込むような位置を陣取って、壁にもたれかかるように片足に体重を掛けながら立っていた。一ノ瀬氏は、中央の扉の近くで、両の手を前で組みながら、恭しい仕草で、静かに佇んでいた。
さっそく、川本が話題を切り出した。
「みんな、一ノ瀬夫人が昼間から行方が分からなくなっているそうなんだ。誰か心当たりはないかな?」
「一ノ瀬さん……、ご婦人はいつからいなくなってしまわれたのですか?」川本の言葉は無視するかのように、丸山が一ノ瀬氏の方へ顔を向けた。
「はい、昼食の片付けのあたりまでは一緒におりましたが、そのあとで姿が見えなくなってしまいました」
すると、堂林がしたり顔で付け足した。
「昼食を終えて一休みしてから、俺は屋敷の外へ散歩に出かけたんだ。ちょうどその時に一ノ瀬夫人を偶然見かけたよ。向こうは俺に気付かなかったようだがな」
そこに会した一同の驚愕の視線が、一斉に私立探偵へ向けて集中砲火を浴びせた。
「どこで?」
「屋敷の東側に裏口があるだろう。そこを出てから少し進むとちょっとした広場があってな、そこに焼却炉があるんだ。そうですよね、一ノ瀬さん? そして、夫人は広場を通り過ぎて、さらに森の奥へ行ったみたいだったよ」
「時刻は?」
「さあな、二時くらいだったかな。そうだ。西野さん、俺が食堂へ入っていった時、たしか、あなたはそこにいらっしゃいましたよね。その時の時刻は正確に覚えていますか?」突然、堂林が振ってきたから、私は反射的に肩をすくめた。お分かりだろうか。この質問にはちょっとした罠が仕掛けられている。それに答えることで、私が堂林を意図的に避けて外へ出たという事実を自動的に告白することになってしまうのだ。答えたくはないけれど、夫人の生死が掛かっているというのならば、ここは仕方がない。
「ええと、たしか三時前でした。間違いありません」私はきっぱりと断言した。
「ほう、そうでしたか……。だったら、夫人を見たのは二時を少し回ったくらいだったのでしょうねえ。夫人とすれ違ってから、わたしは外を少なくとも三十分は散歩していましたからねえ」と、堂林はさりげなく返したが、腹の中ではしめしめと思っていたに違いない。こいつが慢心している時は、話し言葉の語尾が『ね』ではなく、『ねえ』となるから、すぐに分かってしまう。
それを聞いていた川本が、腕組みと貧乏ゆすりを同時にし始めた。
「すると、二時を少し過ぎた頃に、一ノ瀬夫人は裏口から森の中へ入っていって、そのあとになってから行方をくらました、ということになるな……。
ええと、ほかに誰か彼女を見かけた方はおりませんか?」
誰も答える者はいなかった。
「そうだ、一ノ瀬さん。アオイちゃんに訊ねてみたらどうでしょうか?」と、私はさりげなく提案した。
「アオイにだって? ははっ。前回の質問からはまだ二日しか経過していない。明日の夜にならなければ、アオイへの質問はできないよ」一ノ瀬氏ではなく、堂林が間髪を入れずに私の案を否定した。なにか私に対抗意識でもあるのだろうか……。
「じゃあ、それまではあたしたちでなんとか探すしかなさそうね」ここは丸山がうまく取り繕った。私がムスッとしたのを察したのであろう。
「夫人が人狼という可能性はないかのう?」私たちの細かな小競り合いには全く気付いていない久保川が、ボソッと口ずさむ。
「まさか。あり得ないわ。彼女が人狼だなんて……」久保川のささやかな提案は、丸山がばっさり否定した。
「いや、そう決め付けるのは良くない。誰が人狼であっても、おかしくないんだ」と、すかさず堂林が反発する。決して自己の意見を主張したいわけではなく、どちらかというと、俺を議論の中心にいさせてくれよ的な願望がこもった発言と取れた。
「しかし、家内は……」
一ノ瀬氏がなにかしゃべろうとしたのを久保川の声がさえぎった。
「それで、つまり、なんじゃい……。晩飯は、抜きっちゅうことかいな? もう七時まで三十分もないんじゃぞい。やれやれ、こいつはまいったのう……」
どうやら久保川にとって最も大事な案件は、夫人の安否ではなく、今晩の食事であるようだ。
「仕方がないでしょう? 夫人がいないのだから……」丸山がボソッとつぶやいた。
「それじゃあ、みんな聞いてくれ。今からここで重要な会議を開きたい!」突然、川本が椅子から立ち上がって両手を二回叩いた。
「なによ。いまさらここで会議ですって?」
「ああ、そうだ。幸いなことに、今ここに藤ヶ谷はいない……」川本が唐突に意味不明なことを口走る。そうか、今になって私はようやく気付いたけど、藤ヶ谷はここにはずっといなかったのだ。堂林はここへ人を呼び集める時に、わざと藤ヶ谷にだけ声を掛けなかったのかしら。
「それがどうしたのよ?」
「いいか、お前ら。今回の事件の人狼はいったい誰だと思う?」
「そんなの、分かるわけがないわ。たとえ、誰かを怪しいと思っても、ここであんたに告白する義務なんかないわよね」うんざりするように、丸山が突き放した。
「そう思うのが自然だが、実は人狼は誰なのか、今回ははっきりと確定しているんだ!」川本が語尾に力を込めて断言した。
「どういうこと?」
「それはなあ……。おい、西野。ちょっと待てよ」
扉を開けて外へ出て行こうとする私に気付いた川本が、慌てて私を呼び止める。でも、私はそれを無視して外へ出た。どんな議論かは知らないが、川本の聞くに堪えない勝手な提案など、今は耳に入れたくもなかった。
「わがままもいい加減にしてくれよ。いったいどういう教育を受けてきたんだ。あいつは?」
居間の中から川本のぼやき声が、廊下のここまで聞こえてきた。たぶん、わざと私に聞こえるように叫んだのであろう。悔しさで我を失いそうになるのを私はぐっとこらえた。聞いていたくなかったから逃げたんだし、私は絶対に悪くないもん、と頭の中で私は自慰の言葉を何度も何度も繰り返した。
廊下をぐるりと回りこんで、私は急ぎ足で一階のガフの扉の前へやってきた。ダメもとで扉に手を掛けると、なんと扉が動くではないか。やった、一ノ瀬氏が鍵を掛け忘れたんだ。こうして千載一隅の機会を得た私は、ガフの扉の向こう側への侵入を無事果たし、ほかの人が入ってこないよう内側からそっと鍵を掛けた。
さあ、一ノ瀬氏が戻ってこないうちに、さっさと仕事を終えてしまおう。
厨房の奥にある部屋は、どうやら一ノ瀬夫妻の控え部屋のようだ。手早く机の引き出しを開けてみると、いきなり十番と番号が書かれた札付きの鍵が出てきた。間違いない。これは一ノ瀬夫人の鍵だ。
期待した通り、その鍵でガフの扉の鍵の開け閉めができた。それを確認すると、私はひとまず玄関ホールへ引き返した。手際よく短時間で済んだから、ほかの連中はまだ居間で会しているようであった。
目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。実に大きな前進だ。これでいつでも自由にガフの扉を開けられる特殊能力を私は得たのである。ひとまずここで身を潜めて時間稼ぎをし、辺りが静まった頃合いを見計らって、待ちに待った地下室の探索を始めるのだ。地下室にマスターキーが隠されている可能性は十分にあり得る。そして、マスターキーさえ手に入れてしまえば、今度こそ私の個室で貝のごとく徹底して引きこもってやる。こんな馬鹿馬鹿しいゲームでおめおめと襲われてたまるもんか。争いごとなんて、私がいないところで勝手に繰り広げていればいいんだ。
廊下には誰もおらず、ひんやりした空気が漂っていた。いよいよ、かねてからの計画を決行だ。
私はガフの扉に近寄り、十番札の鍵を取り出して扉の鍵を解除しようとした。ところが、意外にも扉に鍵は掛かっていなかった。またもや一ノ瀬氏は、ガフの扉に鍵を掛け忘れたようである。でも、こうなると、この扉に鍵を掛けてしまえば、かえって一ノ瀬氏に怪しまれてしまわないだろうか。私は少考ののち、扉を擦り抜けて、後ろ手でそっと扉を閉めた。鍵はあえて掛けないことにした。
厨房と夫妻の控室前を通過して、赤レンガで覆われた地下室へ向かう石段を降りる。それにしても薄気味悪い通路だ。まるで吸血鬼城の中にいるみたい。マスターキーを探索する目的がなければ、こんなさびしいところになんか絶対に来やしないのに。
地下室の入り口に立つと、そこはワインセラーとなっていた。壁に掛かった大きな温度計と湿度計。発酵した葡萄の芳香に入り混じって、ちょっぴりカビ臭さがただよう。でも、決して嫌なにおいではなく、むしろほっとする。オレンジ色の小さな電球がポツンと灯された、薄暗くて密閉された小部屋である。
まずは戸棚の引き出しを開けてみた。何冊も興味深い帳簿が見つかったが、鍵らしきものは出てこなかった。帳簿を開いてみると、保管されているワインの銘柄、メーカー名、生産地、製造年月日などが事細かく記載されていた。
もちろん、はなからマスターキーがこんな分かりやすいところに隠されているなんて思ってやしない。次にわたしが目を向けたのは、ワイン棚である。こここそ本命だ。あまたあるワイン瓶を一本一本引き抜いていって、その奥のすき間にマスターキーが隠されていないかどうかを調べるのだ。膨大な量のワイン瓶を一つ一つ調べるのは手間がかかるが、それもやむを得まい。
低い棚のワイン瓶を調べるために、私は跪いて作業に取り掛かった。しかし次の瞬間、私は人生最悪の危機を迎えてしまうことになる。それは、ちょうど十本目のワイン瓶を調べ終えた時であった。不意に後ろから声がしたので、私はビクッと肩を震わせた。
「やれやれ、可愛いお尻をフリフリさせて、なんかお探し中かな。泥棒雀ちゃんよ――」
振り返ると、戸口に最悪のやつが立っていた。私は慌てて立ち上がり、壁に背中を当てて低く身構えた。
「怖がることはねえよ。気持ちが良くなる大人の遊びってえのを、ちょいと教えてやるぜ。純粋培養で育ったなんにも知らねえ無垢なお嬢ちゃんにな……」
シャツに覆われた藤ヶ谷隼の大胸筋が、まるで風船のように大きく膨れ上がった。




