13.死姦
見つかった鍵が本当に相沢の個部屋のものであるかどうかを確かめに出向いた俺を、居間で待機していた十四個の瞳が迎え入れた。
「しっかり確かめてきましたよ。この鍵は正真正銘、紛れもなく相沢くんの部屋の鍵でした。なにしろ、二階のガフの扉と、七号室の扉の両方の施錠がきちんとできましたからねえ」そういって、俺はマスターキーと書かれた偽札を留めたリングに人差し指を突っ込んで、くるくると指先で七号室の鍵を回した。俺の言葉を聞いて、ほっと安堵する者、逆に未知なるマスターキーの行方ににわかに不安を抱く者、まったく現状が理解できずに無関心を装う者と、連中の反応は様々であった。
そのあとで、全員の総意により一ノ瀬氏がさっきまでマスターキーであると信じていた相沢の個部屋の鍵を、たった今この場で破棄することとした。この鍵が存在するだけで、事態がややこしくなってしまうことを単に恐れたからである。
全員が見ている前で、一ノ瀬氏が用意した金槌と金床を使って、俺はたった一つしかない七号室の鍵を、二度と使えない金属片となるまでに木っ端みじんに叩き潰した。
「おい、もしかして、相沢の部屋は今、鍵が掛かったままじゃないのか?」突然、川本が心配そうに声を掛けるから、
「ふっ、そんな初歩的な抜かりはしないさ。ちゃんと七号室の錠は解除しておいたよ」と、俺は軽くいなしてやった。
食堂を出て広間へ向かおうとした俺を、うしろから呼び止める者がいた。振り返ると、デブの川本がゼイゼイと息を切らしながら追いかけてくる。
「おい、堂林――、話がある。ちょっと顔を貸してくれ」
「悪いな、男の誘いには乗らないことにしているんだ」俺はさらりとかわす。
「恰好付けるな。戯言でいっているんじゃない」と、川本が急に語気を強めた。こいつにこんな一面もあったのか……。
「要件は?」
「ここではまずい。どこかひと気のない場所……。そうだ、屋上がいい」川本が天井に人差し指を向けた。
「断る。今は他人と二人切りになるのはごめんだ」
「ふん、俺が仮に人狼だとして、お前を殺そうと策を企てたとして、こんなやり方でお前を屋上へ誘うと思うか。ダサいにも限度ってものがあるぜ。
不意打ちをくらわす方がよっぽどチャンスがでかいし、屋上でお前を殺したところで、アリバイが作れるわけでもなし。メリットなんかなんにもありゃしない」
「ふふふっ、まあいいさ。だが、もしもお前が妙な動きをわずかでもしてみろ。俺は即座にお前を殺すからな」
顔を真っ赤にしながら説得を試みる川本がちょっとだけ哀れになって、思わず俺は妥協案を提供してしまった。
「よし、交渉成立だ。じゃあ、ついてこい」川本は急ににこやかになってエレベーターへ向かって歩き出した。
屋上には俺たちのほかに誰もいなかった。立ち聞きをしようにも、ネズミが隠れる物陰すら見つからないしまつで、おまけに階段もないから、とにかくエレベーターの出入り口さえ見張っていれば、他人から盗み聞きをされる危惧は、ここでは皆無だと思われる。
「はっきりいおう。お前と同盟を結びたい。もちろん、俺は人狼ではないし、お前が人狼でないことも信じている。いや、確信をしている」と、川本が切り出した。
「興味深い提案だが、なぜ俺が人狼でないと断言できる?」まずは様子見のジャブだ。さあ、川本はどう応じるか。
「インテリぶったお前が、被害者に精液をぶっかけるわけがないからさ。
それに、あれだけ大量にぶっかけちまえば、たとえここがなんの設備もない孤立屋敷であるにしても、なんらかの想定外の手段で精液を出した人物が特定されてしまう危険はあるし、お前が、わざわざこれ見よがしに精液をぶっかけたがる動機もまるで見当が付かんからな」
「俺だって、高木嬢から性行為を誘われていたのかもしれないぜ」
「だとしても、お前は精液をぶっかけてから、相手を殺すなんて低俗な行動は取らんだろう」
「なるほどな。じゃあ、お前は信じられるのか? お前が人狼ではないと俺が確信できる何か決定的な証拠を、たった今ここで提供してくれるのかい?」
「人狼は藤ヶ谷に決まりさ。あんな大量の精液を排出できるやつなんて、ほかにはいねえよ」
「ふっ、お前だってまだ十分に若い。一週間くらい貯め込めばあのくらい簡単に出せるんじゃないか?」
「ところがなあ、無理なんだよ。俺にはな……」
「なぜだ?」
「俺なんか速攻で容疑者から除外されるべきだよ。そもそも高木がやらせてくれるわけないじゃないか。デブで薄汚い俺なんかとさ」
「そうは限らないぜ。いや、むしろその逆さ。高木を殺してしまってから、お前はあろうことか死体へ姦淫行為に及んだんだよ。
さあ、どう反論するね?」
「ふん、死姦嗜好か。はっきりいっておこう。俺は必死に抵抗する華奢な女を乱暴することに関してはすこぶる興味があるが、死んで無抵抗になった女を犯したいなんて趣味はさらさらないんだよ」
「悪いが、それじゃあ説明にはなっていない」
「いいかげんにしろ。俺はなあ、高木のようなチビデブはタイプじゃねえ。俺の好みは西野だ。スリムで知的な美少女、西野摩耶なんだよ!」
「ははっ、西野が知的だって?」
「ああ、俺はデブちんだからよく分かるけど、あのスリムだけど決してガリガリではない均整が取れたプロポーションを維持するのは、そんなに簡単なことじゃないんだ。頭がよくなきゃできないことさ。食事のカロリー制限の知識も必要だし、それを貫く強い意思も必要だ。さらには適度な運動もしなければならんし、それに、精神的に安定度が高くなければ、ちょっと油断すると、皮膚なんかすぐに荒れたり、たるんだりしちまうもんなんだよ。
それにさ、あいつの言動やしぐさって、随所に知的センスが満ちあふれていると思わないか? まあ分野は文系だけどな。ああ、西野が持つたぐいまれなる文系遺伝子に、俺の秀逸な理系遺伝子を注入すれば、さぞかし完璧なる天才児が生まれることになるのだけどな」
「なるほどね。ようやく本音を吐いたな。気に入ったぜ。じゃあ、お前を信頼してやろうか」
「回りくどい野郎だな。でも、これで同盟は成立ってことでいいな」
川本は安堵して、ヒューっと短く口笛を鳴らした。
「待てよ。同盟には条件がある」
「なんだ?」
「パピルスの公開が条件だ。お前が所持する『No.2』の未公開パピルスを、今ここで見せてもらおう」
俺がしたのは、まさしく正当な要求である。さあ、川本はどう応じるのか?
「やれやれ、またその話か。ないものはないんだよ。お前が信じるかどうかは別としてな。高椿子爵は、うっかり俺の部屋にパピルスを置くのを忘れちまったんっじゃねえのかな?」川本はいったんすっとぼけてから、さらに自己の主張に話を戻した。「とにかく、藤ヶ谷さえ処刑しちまえば、この忌まわしい人狼ゲームは終了だ。だが、処刑をするには、ほかのやつらから了解を得なければならない。しかも、どいつもこいつも人殺しにはなりたくないなんてきれいごとを並べた好き勝手な主張を繰り返すだろうから、こいつがやっかいだ」
「とはいえ、今宵、藤ヶ谷を処刑するためには、何かもっと決定的な証拠が見つからなければ厳しいぞ。正直なところ、このままでは無理だろうな」
「処刑は殺人ではなくて正当防衛なのさ。人狼を処刑しなければ、今夜、別の新たなる犠牲者が生まれてしまうんだ」川本がはっきりと断言した。
「だが、その割には、お前、よく落ち着いていられるな。お前がその栄えある次の犠牲者に選ばれるかもしれないんだぞ」
せっかくの俺の忠告に対して、川本がせせら笑った。
「俺は殺されやしないさ」
さすがに、これにはちょっと驚いた。
「根拠は?」
「はっ、今まで殺されたやつらを思い出してみろ。相沢に高木。若くてきれいなやつらばっかりじゃねえか。このゲームの人狼の嗜好はなあ、美男と美女――、すなわち美の追求なんだ。きゃつは美のために殺しをひたすら続けているんだよ」
「美?」
「そう、美だ」川本が大きくうなずいた。「なぜ犠牲者は、そろいもそろって、なまめかしい裸姿で殺されなければならなかったんだ。お前、説明できるか?」
「そいつは、そうだなあ……。たまたまだろう」
「いや、きっと何か意味があるはずだ。だから、俺は絶対に殺されやしない。俺は美しい存在ではないからな。次に殺されるのは、間違いなく、丸山か西野のどっちかだ。賭けてもいいぜ」
「なるほど、多少の説得力がありそうな意見だな。しかし、人狼は本当に藤ヶ谷で決まりだろうか。ほかの可能性はないのか?」
「あの精液はまぎれもなく本物だ。白い糊などのまやかしものじゃなかった。つまり、女には射出できない有機物ということになる。ここまではいいよな?
そして、高木は死姦されたんじゃない。いいか、今から、それを証明してやる」
川本の表情はなんらかの自信に満ちあふれていた。「高木の顔面から胸元には大量の精液がぶっかけられていた。なおかつ、高木の膣内にも精液が注入されていた。こいつはお前が直に調べた事実だ。間違いねえよな」
「ああ、間違いない」
「では、どのような経緯で高木はそのような状態となったのか?
一つ目の可能性。昨晩、高木は男とセックスをしていた。男が我慢できずに、高木の中で精液を少しだけ漏らした。それに気付いた高木が激怒したので、男は慌てて男根を高木からひっこ抜いて、彼女の顔面に向けて、残った全部をぶっかけたんだ」
「極めてありそうな話だな」
「そして、その直後に、男は高木を殴り殺した。
では二番目の可能性。高木は男とセックスしていた。男が高木の顔面へ射精をした。しかし、男の欲望はそれだけでは収まらず、再び高木と肉体を交わって、膣内に二回目の射精を行った。そして、直後に高木を殺した」
「ふむ、どちらもあり得るな」
「三つ目の可能性。男は高木をまず殴り殺した。そして、死んだ遺体に対して性行為を行い、精液を膣内と顔面に射精してから、意気揚々と部屋から立ち去った」
「いずれもあり得る話だ」
「ところが、最後の三つ目の可能性だけはあり得ないのさ。いいか。高木の顔面から胸元へかかった精液を見ただろう。お前、何か気付かなかったか?」
「いいや……」
「やれやれ、探偵業なんかとっととやめちまった方がいいぜ。いいか、あの精液はぶっかけられてから、そのあとで、重力の方向へ流れ出していたんだよ!
はじめは顔面だけにかけられたが、そのあとで下へ流れ落ちて、最後はあの魅惑的な胸の谷間でせき止められていた。これが西野や丸山だったら、胸では止まらずに臍までこぼれていただろうけどな。はははっ。
とどのつまり、高木は精液を顔面にぶっかけられたあとで、身を起こしたんだよ。その時に、顔面にかけられた精液の一部が、胸の谷間まで流れ落ちたんだ」
「なるほど。だとすれば、死姦の可能性が完全否定されちまう……」
「そういうことだ。そして、同時に俺の潔白も証明されたことになる。高木が俺にセックスの許可を出すことはないからな」
「しかし、死姦である事実を隠そうと、犯人が姦淫行為のあとで、わざと遺体を起こした可能性は考えられないか?」
「そこまで細かな配慮ができる犯人だったら、逆に脱帽するぜ。だがな、お前、いい女とセックスできるなら、場所はどこでやる?」
「それは、無論ベッドの上だ」
「そうだろう。そして、今回の現場には立派なベッドがあった。当然、二人のみだらな行為はベッドの上で行われた、と考えるのが自然だ。しかし、遺体があったのはどこだった? ベッドとシャワールームをつなぐ途中の床の上だ。これを説明するには、セックスが終わったあとでも高木がまだ生きていて、身体に付着した汗や精液を洗うために彼女はベッドから起き上がった。しかし、その途中で犯人から襲われて、殺されてしまったから、顔面に放出された精液が、重力に従って胸元まで流れ落ちていたんだ。これでぴったりとすべての説明が付く!」
そう告げ終えると、川本は得意げに鼻をフンと鳴らした。
このあと、今夜の会議の議論の進め方を確認しておいてから、俺たちは別れた。川本と同盟を結ぶこと自体は、別段悪い話ではない。もっとも、やつが人狼であったら、逆に極めて危険な立場に俺がおとしめられていることになるのだが、俺の直感で、川本は人狼ではないという妙な確信があった。やつはさっき必死になって死姦が行われなかったことを論理的に証明しようと試みたが、もとより俺自身、死姦なんて非現実的な行為がなされたなんて、露ほども考えてはいなかった。川本をちょっぴりからかいながら、ついでにやっこさんの本性をもう少し暴き出してみようとしたまでであった。
さて、今日は久々の晴天だ。この機会にちょっとだけ館の外の様子を探索してみようか。
玄関から外へ出たところで、太陽の方角を確認して、この玄関がほぼ真南を向いている事実を、俺はなんなく発見した。こういう時に太陽は便利な存在だ。そして、まずは壁伝いに館の西側へ回り、ベランダまでやってきた。地面の上に整然とタイルが敷き詰められているが、昨日までの嵐で、落ち葉や枯れ枝が散乱し、現在は収拾がつかない状態となっていた。まあ、こんな状況下だから、誰もベランダの掃除をする余裕などありはしまい。ベランダのさらに先に目を移したが、うっそうと生い茂った深い森に囲まれていて、それ以外に視界に入ってくるものはなかった。この奥底が計り知れない森の中へ、方位磁石も持たずに足を踏み入れるのは、やってできなくはないかもしれないが、それなりの勇気と覚悟が必要となる。もっとも、俺はアリアドネの糸が用意されていないミノタウロスの迷宮を彷徨うような無謀な行為は、問答無用でごめん蒙る。
気を取り直して、ベランダから壁伝いに、さらに館の北側へ回り込もうとしたが、立ちはだかる低木針葉樹の枝にさえぎられて、そこを通り抜けることすらできなかった。やむを得ず、俺は来た道を戻り、玄関口を通過して、館の東側を今度は目指した。ここでも、針葉樹のとがった枝が行く手を邪魔するのだが、強引に身体を割り込ませて、どうにか館の東壁面へ出ることができた。こちら側は歩行も困難な、手入れがなされていない荒れ地である。エレベーターがある場所でちょうど建物が出っ張っていて、そこも苦労の末にすり抜けたのだが、ジャンパーの肩口が小枝に引っかかり、わずかに破いてしまったみたいだ。
行く手の壁面にこぢんまりした扉が見えた。この屋敷の裏口である。そういえば、ガフの扉を通過して地下室へ降りる途中に、たしかに外へ出られそうな扉があった。その出口がここなのだろう。
やはりこの近辺も四方を深い森で囲まれているが、裏口を出たところは、よく見なければ見落としてしまいそうな人が踏み固めた小道ができていた。俺はその小道に興味を持ち、目を凝らし、姿勢を低くしながら道をたどっていった。ちょっと進むと小さな畑とビニールハウスが見えた。畑にはネギやニラなどが植えられており、ハウスの中は、プランターが並んで、ハーブやホウレン草などが栽培されていた。おそらくここでの料理にも添えられていたのであろう。
その先にも小道が続いている。しばらく進むと、突然、ちょっとした空き地が姿を現わし、そこには巨大な焼却炉が置いてあった。ほかにも生ごみ用の大きなダストボックスや、空き瓶をいれた籠など、どうやらここはごみの集積地として利用されているようだ。
はっ、誰かがやってくる――。
とっさに俺は焼却炉の陰へ隠れた。そっと覗いてみると、やってきたのは一ノ瀬夫人であった。上機嫌で鼻歌を歌っている。彼女は俺が隠れていることにみじんも気付く様子はなく、てくてくと空き地を通過して、さらに森の奥へ延びる小道の続きを進んでいった。いったい、この先に何があるというのだろう?
しかし、俺はいったん引き返すことにした。この先で一ノ瀬夫人とばったり顔を合わせるのも、なんとなく好ましからざるように感じたからだ。
館の裏口まで引き返して、あらためて荘厳なる人狼館の雄姿を少し距離をおいて眺めてみると、うっそうと生い茂る木々のすき間の向こうに、かすかに電気の引き込み線が見えた。どうやら、電気や水道、下水処理などのライフラインは、人狼館ではきちんと賄われているらしい。だけど、そういうことなら、ここは離れ小島ではなく、もしかすると森の向こうに、立派な町や民家が存在するのかもしれない。
もう一度玄関の前までやってきた俺には、もう一つ気になることがあった。それは、久保川が一夜を明かしたという例の東屋である。なければならないはずのものが、まだ見つかっていないのだ。俺の捜査意欲を掻き立てるのも致し方がないことだった。
玄関の正面に立つと、正面にはっきりと判別できる道が伸びていた。ただし、道といってもそれは舗装道路などではなく、かろうじて砂利が敷き詰められた小道に過ぎない。車が通れるわけでもなく、あくまでも歩行用の道なのだが、ちょっと先へ進めば、たちまちその砂利も消えてなくなり、落ち葉がむやみやたらと吹き溜まり、次第にどこが道なのかはっきりしなくなってくる。そんな中、目の前に丸太を組み合わせて作った小屋が、ふいっと現れた。
これが例の東屋か……。
東屋というからふきっさらしのボロ小屋だと勝手に想像していたが、こいつはそこそこ頑丈な丸太小屋である。入り口はかろうじて取り付いているだけのベニヤ板を貼り固めた質素な扉で、窓は扉の反対側にあるにはあるのだが、ガラスがはめ込まれているわけでもなく、四角く穴がポッカリ開いた状態であった。これであの嵐の中となると、風や雨が吹き込み放題というわけで、久保川医師の悪夢の一夜の苦労が、今さらながらしのばれた。
東屋をあとにして、道をたどりながらさらに森の奥へ、俺は進んでいった。うっかり道を見失ってしまうと、本当に館へ戻れなくなってしまうかもしれない。かつて相棒のリーサから方向音痴で名を馳せたと揶揄された俺としては、余計に気を引き締める必要がありそうだ。木々のすき間から小春日和の雲一つない青空が見える。十分ほど歩いただろうか。道が緩やかに下り始めたのを、俺ははっきりと身体に感じた。もしかしたらと思い、足を速めると、やはりそうであった。しばらく進むと、目の前にずっと立ち塞がってきた落ち葉の積もった地面の山が、ふっと低くなって、木々のすき間の向こうから青い海がぽっかりと顔を出した。こうして俺はようやく確信を得ることができた。ここは絶海の孤島なのだ!
断崖に阻まれて海岸までは降りることができなかったのは残念だった。浜辺に立って海岸線を眺めれば、この島の大きさの規模が推定できたかもしれなかったからだ。仕方がないので、やって来た道を、脇道がないか気を配りながら、俺は引き返した。脇道なのかそうでないのか、あいまいな箇所はいくらかあったが、いずれもその奥へ踏み込もうという気は起こさせないものであった。しかし、逆にこの森の中に姿をくらまそうと思えば、簡単にできそうな気もした。ただ、食料確保に関しては、今の季節では絶望的だし、寒さや雨風をしのぐのも容易ではない。そういえば、ここには鳥はたくさんいるけれど、猿や狸、鹿などの動物は未だ見ていない。それも、ここが本土の海岸近くの森ではなく、絶海の孤島であることを示唆しているような気がする。
屋敷へ戻って、のどが渇いたから食堂をのぞいてみると、西野摩耶が一人で、テーブルに腰かけて、熱心な様子で本を読んでいた。西野は俺が入ってきたのに気付くと、一瞬清楚な顔をこちらへ向けたが、無言ですくっと立ち上がると、プイっと背を向けて、もう一つ向こうの扉から、そそくさと外へ出てしまった。相変わらずのツンデレお嬢さんである。
テーブルの上には水差しに入った冷たいほうじ茶と、洗浄済みのグラスがナプキンの上にうつぶせに置いてあった。さっそくお茶をごちそうになると、ほっと一息ついて、そのまま入ってきた扉から俺は食堂をあとにした。
廊下に出た途端に、エレベーター前の通路にいた西野が、俺が食堂を出たのを確認してから、向こうの扉を開けて、再度食堂の中へ入っていった。なんだか、野良猫を見ているような光景であった。彼女の行動パターンは、ちくいち独創的で、かつ、不可思議である。
気を取り直して居間へ行ってみたけど、そこには誰もいなかった。ソファーを独り占めして横になると、突然、大時計が振動し始めて、鐘を三回打ち鳴らした。三時か……。散歩の疲れがあったのか、俺はぐっすりと寝入ってしまった。
はっと目が覚めた。いけない、いけない。こんな緊迫状態なのに、無防備にもうたたねをするなんて。大時計を見ると、六時半をまわっている。夕食にはまだ早いが、俺は食堂へ行ってみた。西野の姿はそこになかった。テーブルの上を見まわすと、さっき俺が使ったグラスは片付けられているが、そのほか、なにもテーブルの上にのってはいない。もうすぐ晩餐の時刻なのに、一向に準備がなされている様子がなかった。すると、厨房をつなぐ扉がガタンと開いて、蒼ざめた顔をした一ノ瀬氏がふらふらと入ってきた。
「ああ、堂林さまでございましたか」と、一ノ瀬氏の口調は上の空だった。
「間もなく七時ですけど、これで食事の準備が間に合いますかね」ちょっと心配になって、俺は訊ねてみた。
「まことに申し訳ございません。お食事の準備をしなければなりませんが……」
「どうかしましたか?」
一ノ瀬氏はポケットからハンカチを取り出して、顔の汗をぬぐった。
「実は――、午後になりまして、家内が姿を消してしまいまして。もう、わたくし、どうしたらよいものか、困惑しておるしだいでございます」