12.狂気
扉に耳を近づけて外の気配をうかがったが、なにも聞こえないので、半分だけ扉を開けて顔をそっと突き出してみた。でも、廊下に人影はなく、そこは死のような深い静寂に包まれていた。
誰にも見られぬように警戒をしながら、階段まで歩みを進める。ここまではすべてが順調だ。しかし、階段を下りた途端、大広間の大時計の鐘が突然鳴り響くものだから、思わずビクッと跳びはねた。私は神経質だから、こういった仕打ちが大の苦手である。でも、たしかに今、大時計がちょうど十二回の鐘の音を打ったのは分かった。こういう時、私はいつも無意識に数を数えてしまうのだ。
あやしげな地下洞窟を思わせる長い廊下が眼前に展開している。曲がり角まで突き進んで左へ折れると、そこには、食堂へ通ずる二つの扉が左手に、右手にはエレベーターの出入り口が、そして中央には、かの忌まわしきガフの扉がいかつい姿でたたずんでいる。
私はガフの扉へ近づいて、そっとノブに手を掛けてみたが、扉はうんともすんとも動かない。やはり、鍵は掛かっていた。
もしかしたら、食堂から向こうに行けるかもしれないと思い、食堂の入り口の扉を押してみた。鍵は掛かっていなかったが、扉を閉めてしまうと、中は真っ暗になった。正直、私は暗闇が苦手なのだ。かといって電灯をつけるわけにもいかず、手探りで少しずつ歩みを進める。ようやく厨房へ接続する扉の前までやってきたが、もしもここが開いてくれなければ、ここまでの努力が水の泡となる。そっとノブを回したが、残念ながら扉は動かなかった。結局、ガフの扉の突破はできず、その向こうに隠蔽されていると思われるマスターキーを手に入れる目的も果たせなかった。
失敗を悔やむ間もなく、私は次なる方針を練り直さねばならなかった。それは、今晩の身の安全の確保である。マスターキーのありかがはっきりしない今、個人部屋に鍵を掛けて閉じこもったところで身の安全は保障されない。マスターキーで部屋がこじ開けられてしまえば、いつ襲撃されたって仕方がないのだから。
それならば、今晩はいったいどこで過ごそうか。私はなにげなく玄関ホールへと向かった。ホールには廊下と同様に電灯がともされていた。ここなら、万が一襲われても、外へ逃げることができる。ただ、その先が問題だ。私は女である。まともに男と駆けっこをしたところで、所詮勝ち目はない。なにより、ここはとても寒い。無理もないけど、今は真冬の真っただ中。建物の奥であれば暖房が効いているからまだしも、この玄関ホールとなると話は全く別であった。暖房の効果なんてほとんど感じられない。私は寒がりだから、ここで一夜を過ごすのは、正直なところかなりきつい。あっ、そうだ――。安全に鍵が掛けられて、しかも暖房が効いている楽園が、この屋敷にはしっかりあるではないか……。
私は、大広間の前の廊下を通過して、さらに奥へ突き進んだ。あった、ここだ。そっと扉に手をかけると、扉はスムーズに開いた。そう、ここは共用トイレである。ここなら鍵は掛かるし、なにより錠が原始的だから、マスターキーでこじ開けられてしまう心配がない。完璧たる要塞だ。二つあるから女性用のトイレを選んで、私は中から鍵を掛けた。これで安心だ。暗いのは怖いけど、電灯をともすのはやめておこう。誰かが察知して、扉を破壊して引きずり出されてしまえば、元も子もない。でも、よかった。思ったほどここは不潔な空間ではなかった。嫌なにおいが漂っていても多少は我慢しようと覚悟はしたけど、なんてことはなかった、温かくて心地よい空間だ。私は便座へ腰を下ろして、後ろ髪を束ねてゴムで留めると、そのまま前かがみになって、静かに目を閉じた。
それにしても不気味なまでに静まり返った漆黒の夜である。私の直感では、今夜間違いなく、なにか事件が起こる気がする……。
どのくらいの時間が経っていたのだろう。まどろみかけていたのに、突然目が覚めた。足音だ! 誰かが前の廊下を歩いている……。身体が一気にこわばった。そういえば、ここのトイレの扉は、中から鍵を掛けると、外には使用中を意味する赤色が表示されてしまう。しまった……。それを外にいる人物に気付かれれば、私がここに隠れていることがバレてしまう。かといって、今さら錠を解くわけにもいくまい。音がする恐れがあるし、青になった表示を見て、外の人物が逆にトイレへ入ろうとするかもしれない。ともかく、ここはおとなしくじっとしているしかない。でも、外の人物が強引に扉をこじ開けようとすれば、もはや私に逃げ場は残されていない。
息詰まるような切羽詰まった時間が刻々と過ぎていく。どうやら、外の人物は前の廊下を通り過ぎただけのようだ。でもその先はリネン室しかないけど、そこが目的地なのだろうか。それに、リネン室には鍵が掛けられるはずだけど、鍵は掛かっていなかったのだろうか。でも結局のところ、私が潜んでいたトイレの扉に何者かが手をふれることは、最後までなかった。
気が付くと、とっくに夜は明けていた。私は、廊下に誰もいないことを確認して、そっとトイレから抜け出した。少し気になって、リネン室の扉も押してみたが、鍵はしっかり掛かっていた。さあ、いよいよ分からなくなった。昨晩、この廊下をうろついた謎の人物は、いったいここで何をしていたのだろうか。
ともかく、食堂へ行ってみよう。でも、あたかも自室からやって来たかの如くふるまう必要がある。そう思った私は、胸を張って食堂の中へ入っていった。その時、テーブルにはすでに数名が着席をしていた。
「やあ、これで西野さんもお見えになりましたね。そうなると、あと来ていないのはピアノお嬢さんくらいですか」と、自称私立探偵の男が、私に一瞥をくれてから切り出した。なにかと私に声を掛けたくて仕方がないといったありさまであった。でも、その直後に久保川医師がのこのこと食堂へ入ってきたから、それを見た堂林はばつが悪そうな顔をした。どうやら、印象の薄い久保川の存在は、彼のカウントからは外されていたみたいだ。
「コホン。これで、あとは高木さんだけが、まだ見えていませんね」照れ隠しの咳払いを入れると、堂林は先ほどと同じ内容を繰り返した。「おい、川本。これから一緒に彼女の部屋へ行くぞ」
「なんで俺が? お前が一人で行けばいいじゃんか」と、川本は口を尖らせた。
「なにも事件が起こっていなければ俺一人でいい。だが、事件が起こっていないという確信が、果たしてお前にあるのか?」
「分かったよ。だが、ちょっと待て。俺は今、プリンを食べている最中なんだから」
高木の様子を見に行った堂林と川本が、二人そろってやつれ顔をしながら戻ってきた。
「みんな、高木莉絵が殺された。全員すぐに来てほしい」と、まず川本が切り出した。
「ただ、あまり見ていて気持ちのいい殺され方じゃない。神経が細いやつはちょっと用心してくれよ」と、堂林がなにやらあやしげな言葉を付け足した。
一ノ瀬夫妻も含めた全員が、高木莉絵の五号室まで急ぎ足で駆けつけた。
「部屋の鍵は、さっき俺たちが来た時にはすでに掛かっていなかったんだ」と、川本が真っ先に言いわけをした。
私は丸山のうしろについて高木の部屋に入ったが、そこで目の当たりにしたのは、あまりに常軌を逸した、面妖かつ猟奇的な、おぞましき光景であった。
「なんじゃ、なにがあったんじゃ? おわっ――」あとから入ってきた久保川が絶叫をあげたけど、丸山、藤ヶ谷は、あまりに陰惨なる現場に、口を閉ざしたままだった。
高木莉絵が遺体となって、床に転がっていた。仰向けの大の字になったまま、一糸まとわぬ妖艶なる姿でだ。頭部からは激しく鮮血が飛び散り、絨毯が真っ赤に染まっていた。そして、それとは対照的に、ドロッと白濁した粘液が、彼女の口元から胸元へかけて、ねっとりとこびり付いていた。ここまでも臭ってきそうな、おびただしい量の不浄な粘液が……。
「死因は鈍器のようなもので殴られたことによる頭部の損傷ですね」
そういって、堂林は、おもむろに高木の股間に右手を伸ばすと、あやしげな動きで中をまさぐり始めた。我慢できなくなって、私は堂林へ詰め寄ると、張り手を一発かましてやった。叩かれた堂林は、一瞬呆然としていたが、すぐにそ知らぬ顔へ戻って受け答えた。
「これはうっかり、お嬢さんには刺激が強いことをしてしまいましたね。いや、仏さんのはしたない箇所を調べさせてもらったのには当然理由があるのですよ。でも、これではっきりとしました。高木嬢は陰部を汚されています」
「陰部を汚されているから、なんだというんだ。単なる下心から思わず手が出ちまったんじゃねえのかよ」川本が非難したが、それに対しても、堂林は平然といい返した。
「陰部を汚されている。すなわち、昨晩高木嬢はとある男性と性行為に及んだということです!」
「それは、犯人とセックスをしたということか。同意の上での?」川本がさっと身をのり出した。
「さあ、それは分かりません。同意の上のセックスなのか、それとも、単に乱暴をされただけなのか……」
「同意の上であるはずがないじゃない。きっと殺されたあとで、犯人からいたずらされたのよ。なんてかわいそうに」と叫んで、丸山は両手で顔を覆った。
「あるいは、セックスをやり終えたあとで、犯人から頭部を割られてしまったかですね。
アブを取るのか、ハチを取るのか――。人狼の嗜好は、生きた身体でしょうか、はたまた、死んでしまった身体なのでしょうか?」
堂林が続けた。「さらに、こいつは憶測に過ぎませんが、使用された凶器は相沢くんの時と同じ鈍器であると思われます」
「でもこれではっきりしましたね。人狼は男性なんです。だから、わたしは人狼ではありません」私は小声でボソッとうったえてみた。
すると、横から藤ヶ谷が挑発してきた。「そうだな。あんたが本当に女であることが証明出来るのならな」
「何を馬鹿なことを……」冷静さをかろうじて保ちつつ、私はどうにかいい返した。
「だったら、今すぐ、ここでそのなまめかしい黒ドレスを脱いでみたらどうだ。俺はかつて、美人とベッドに入ったら、そいつの股間にあれが付いていたことがあったからなあ。それからは直接確認するまでは信用しないことにしてるんだよ」と、自慢げに発言した藤ヶ谷に、私は腸が煮えくり返るような屈辱を感じて、なにもしゃべれなくなった。
「そんなことしなくても、その汚らしい粘液を調べあげれば、どこの誰が出したものなのか、すぐに分かるんじゃないの」と、丸山が逆に藤ヶ谷へ攻撃を仕掛けた。
「残念ながら、この孤立屋敷の中では、誰の精液なのかを調べあげる客観的な手段はありませんね」と、堂林があっさり否定した。
「それとも、ここにいる男一人一人から精液を搾り取って、それをあんたが直接嘗めてみたらどうだい。味の違いで誰が出したものか分かるかもしれないぜ」と、川本が茶化した。
こういった無意味なやり取りが、私は大嫌いだ。でも、極限状況に追い込まれれば、所詮、人間の思考など原始的なもの、すなわち、食欲と性欲に退化してしまうということだ。ここにいる男は全員しかりである。
「それにしても、ようけ出しとるのう。こりゃあ、間違いなく精力旺盛な若いもんじゃて。わしらじゃ、こんなには出せんからのう」久保川が、一ノ瀬氏にも目を配りつつ、自己弁明をした。
「ふん。そいつだって、証明できるものならやってみろよ。依然としてあんたはまだ容疑者に違いはないのさ」と、川本がそっけなく反論した。
「みなさん、机の引き出しの中にありましたよ。こいつこそが、高木嬢が断固として公開を拒否し続けた、五番目のパピルスです」堂林が得意げに羊皮紙をかかげた。
「なるほど。これなら見せたくなかったのも理解できるな」と、川本がつぶやいた。
「ところで、みなさんの昨晩の行動を確認したいのですが」あらためて、堂林が聴衆を見まわした。
「やっても無駄さ。どうせみんな自室にこもって、そちらにいらっしゃる美しいお嬢さまの裸体でも想像しながら自慰行為にふけていましたって答えるだけだろうからな」と、不謹慎な発言を述べて、川本があざけ笑った。
案の定、堂林が一人一人に昨晩の行動を訊ねたが、全員が部屋に鍵を掛けたまま一人で過ごしていたと返されるのみであった。もっとも、私の場合、その証言は嘘であることになるのだが、しかし、私以外にも虚偽の発言をしているものが、少なからずいるはずだ。
「それでは、昨晩、高木さんの部屋の前を通られた方はいらっしゃいませんか。その時、部屋の中から、なにか物音がしなかったか。
藤ヶ谷さん、あなたは高木さんの部屋のおとなりですが、昨晩、異様な物音を聞きませんでしたか」
「ぐっすり寝ていたから、全然気付かなかったなあ」と藤ヶ谷はあいまいな返答でぼかしたが、どことなく緊張している印象を私は受けた。
「そうですか。では、久保川先生。あなたの部屋はガフの扉の向こうですね。すなわち、あなたの部屋へ帰るには、必然的に高木嬢の部屋の前を通過することになりますが、なにか物音を聞いていませんか」今度は、堂林は久保川へ質問をした。
「ガフの扉って、なんじゃい?」
「ええと、それはそこにおられる西野嬢がつけてくれた名前で、一階と二階のそれぞれにある、エレベーター前で南北の廊下の合間を仕切っている扉のことです。何か名前を付けて呼んだ方が分かりやすいですからね」
「そうかい、わしゃガフの扉よりも、嬢ちゃんの扉の方が断然興味あるがのう」
「それはともかく、高木嬢の部屋に違和感はありませんでしたか」
「いんや。なんも。わしが部屋に戻る時にゃ、ピアノの嬢ちゃんはまだおらんかったと思うぞい」
「それは何時頃でしたか」
「ええと、十時ちょい過ぎじゃな。わしゃ電気椅子の実験の後、まっすぐに自室へ戻ったからのう」
「なるほど。じゃあ、今度は藤ヶ谷さん――。あなたが自室へ戻った時、高木嬢の部屋はどんな様子でしたか」
「どんな様子といわれてもなあ。別に、中をのぞいたわけでもねえからな」
「本人が部屋にいたかどうかです」
「分からねえけど、たぶんいたんじゃねえの。俺の方が遅かったはずだからな」
「たしかに昨晩は、あなたとわたし、それに川本氏の三人が、後片付けで最後まで霊安室に居残りましたからねえ」と、堂林はむなしそうに最後を締めくくった。
このあと、私は丸山と協力をして高木の遺体を霊安室まで運ぶことにした。でもそのまえに彼女の身体をきれいに洗ってあげなければと思い、私と丸山はシャワー室で高木の身体に付いた汚れを洗い流した。
「あやかさん。ちょっと」私は丸山に声をかけた。
「なに」
「これを見てください。りえさんの右手の指の爪先に血がこびりついています。間違いなく、誰かをひっかいた痕跡です」
「そうね。もしかしたら、りえちゃんは襲われる瞬間に、犯人の背中に爪を突き立てたのかもしれないわ」
「でも、先ほどのあなたの意見では、りえさんは殺されてから犯されたということではありませんでしたか」
「あれは……、生きているときに襲われたんじゃ、りえちゃんが浮かばれないと思ったからそういっただけで、実際は、乱暴をされてから殺されたのかもしれないわ」
そのあと、私たちは高木の遺体を霊安室まで運ぼうとしたが、これが思いのほか重くて、女二人で運ぶのは非常に困難であった。そばにいた男連中が手伝おうかと、にやにやしながら声を掛けてきたが、丸裸の高木を運ばせるのは亡くなった彼女に対しても忍びないので、私たちは最終的に一ノ瀬夫妻の手を借りて、彼女の遺体を霊安室の五番と番号が振られた棺の中へおさめた。
「あとはお任せください」との一ノ瀬氏の言葉を確認してから、私と丸山は霊安室をあとにした。戻る途中、丸山が私に声を掛けてきた。
「これであなたのことは信頼できるわ。女にあんな汚らわしいものが分泌できるはずないものね。さあ、あたしたちは同盟を結ぶべきよ。このくそゲーで生き残るためにね」
「そうですね。よろしくお願いします」私は即答した。でも、本音をいえば、私は誰も信じない。信じられるのは自分自身だけだ。
「ところでまやちゃん。あなたは誰が人狼だと思うのかしら?」
「一番怪しいのは、あの私立探偵です。でも、最近になって、なんとなくですけど、久保川医師が怪しく思えてきました」私は答えた。
「そうね。あたしも久保川はいけ好かないわ。でも、りえちゃんの犠牲によって、間違いなく、人狼は川本、堂林、藤ヶ谷の三人に絞られたような気がするの」丸山は続けた。「久保川や一ノ瀬さんにあんな大量の精液を出すのは無理だわ。彼らは嫌疑から除外してもいいと思う。
中でもとりわけ怪しいのは、藤ヶ谷ね」
「どうしてですか?」
「だって、あいつは気持ち悪いくらいに精力がみなぎっているじゃない。あたしには性欲の権化としか思えないわ」と、丸山はあっさりいい切った。
元より、私はカルメンになるのはまっぴらごめんだ。自室へ戻った私は、鍵を解除すると扉を半分くらい開けた。それは私がかろうじて通れるくらいの狭さである。私はわずかなそのすき間をすり抜けて室内へ入った。実は昨晩、私は自室を出る時に、扉に細工を仕掛けておいた。私がかろうじて通過できたこの幅よりももう少し扉を開けてしまうと、扉が通過する場所に立てておいた折り曲げた紙片が倒れるように細工しておいたのだ。ここにいる人間で私よりもスリムな人はいないから、もし、この部屋をマスターキーでこじ開けるような人物がいれば、その人物が室内に入れば、途端に扉が紙片を押し倒してしまう仕組みである。でも、今私が確認した限りでは、紙片は立ったままであった。つまり、昨晩に関していえば、私の部屋に忍び込んだ人物はいなかったということになる。
昼食時にみなが食堂へ集うと、おもむろに堂林が椅子から立ち上がって、いきなり一ノ瀬氏へ詰め寄った。
「一ノ瀬さん、現況は非常事態です。マスターキーの在り処を確認しておかなければなりません。そして、我々はあなたがマスターキーを保管されているものだと確信しております。今すぐに調べてみてください。あなたが現在保管されている場所に、本当にマスターキーはあるのですか?」
一ノ瀬氏はしばしの間考え込んでいたが、やがて意を決めたのか、「分かりました、確かめてまいります」といって、厨房へ通ずる扉から外へ出て行った。時間として五分とかからなかっただろう。一ノ瀬氏は間もなく戻ってきた。
「ほら、この通り、マスターキーは確かにございます」と、一ノ瀬氏は札が装着された一つの鍵を提示した。
「ちょっと拝借」そういって、堂林は一ノ瀬氏から鍵を受け取ると、それを手に、厨房への扉に近づいた。「一ノ瀬さん、残念ながら、これはマスターキーではありませんね」
「ええ? そんなはずは……」
「たしかに、札にはマスターキーと書かれています。でも、ほら、ごらんなさい。この扉を施錠することができません」
「じゃあ、偽物ということか?」川本の顔がさっと蒼ざめた。
「なんでまた、わざわざ偽物を用意したのかしら」丸山が首を傾げた。
「わざわざ偽物を用意したのではなくて、この鍵はマスターキーではない別のちゃんとした鍵なのです」と、堂林が説明した。
「なんなの、それは?」
「今、行方不明になっている鍵といえば、なにかしら思い当たりませんかねえ。ほら、相沢くんの個部屋の鍵ですよ」堂林が得意げに宣言した。私たちの間に一気に戦慄が走った。
「犯人……、いや人狼は、相沢くんの鍵とマスターキーの両方を手に入れてから、二つの鍵の札を取り換えた。そして、マスターキーとそっくりな相沢くんの鍵を、一ノ瀬氏がマスターキーの紛失に気付かぬように、一ノ瀬氏が管理していたマスターキーの隠し場所へこっそり置いておいたのです。
そして、みずからの手元には、相沢くんの部屋番号七番の札を装着した本物のマスターキーを所持している、というわけですよ!」