10.小憩
午後になると、なぜかのどが渇いてきた。とはいえ、居間の極上コーヒーは、ここへ来てさすがに飲み飽きている。温かいミルクなんかどうだろう。そうだ、ココアがいい。そう思い付いたら急に欲しくなってきたわたしは、一ノ瀬氏を探して、はるばる食堂までやってきた。
食堂へ入ってみたが、一ノ瀬夫妻の姿は見当たらなかった。誰もいないと思われた食堂であるが、よく見ると、隅の肘掛け椅子に西野がひょっこり座っていて、すやすやと居眠りをしていた。
この子、昨日までは自室に閉じこもっていたくせに、今度は打って変わって、大胆にも大部屋の中を一人きりで居眠りか。百八十度方向展開を繰り返す彼女の行動パターンは、いまさらながら理解不能だ。決して衣服が乱れているわけではないのだが、それにしても若い娘がああまで無防備な艶姿をこれ見よがしにさらけ出している。もしわたしが男だったら、いますぐここで彼女を抑え込んで、強引に唇を奪ってやったところだ。
ちょっとおどかしてやろうかと、音をたてないように近づいたのだが、そのわずかな気配を感じ取ったのか、西野の二重のまぶたがパッと開いた。
「あっ、すみません。つい、うとうとしていました」西野はわたしの顔を見て、悪びれずに弁解をした。
「どうでもいいけど、こんなところに一人っきりで寝入っちゃってさ。せいぜい男どもには気を付けなさいよ。そうでなくても、あんた、相当可愛いんだから」とっさにわたしは助言をしてやった。
「はい、だからわたしここにいるんです」と、西野が意外な答えを返した。
「えっ、ここじゃあ誰だって自由にあなたに近づくことができるじゃない。自室に閉じこもって鍵を掛けておくほうが、ずっと安全なのよ」
「いいえ、違います。自室の方がずっと危険なんです。
昨日の情報で、このお屋敷にはマスターキーが存在することが分かりました。となると、個室は最も危険な場所に早変わりするんです。鍵を閉めて立てこもっても、マスターキーで強引に鍵をこじ開けられてしまえば、逆に逃げ場がなくなりますからね。力の弱い、女のわたしたちにとって、むしろ食堂のほうがずっと安全なんです。ここで誰かがいたずらをしようとしても、声さえあげることができれば、一ノ瀬さんがすぐに飛んできてくれますからね」
なるほど。この子はかなり合理的な子だ。そして頭がいい。たしかに、各部屋には鍵が掛かるようにはなっているけど、考えてみれば、その鍵は実質的には無用の長物なのだ。
「高木さんはピアニストなんですって?」西野が下から顔をのぞき込んできた。まん丸く見開いた瞳が無邪気な子供みたいで、なんとも可愛らしい。
「りえ、でいいわよ」わたしは名前で呼ぶように示唆した。
「分かりました。そうさせてもらいます。りえさん、よろしければ一曲ご披露願えませんか」
「また弾くの?」とっさに、わたしは返してしまった。
「えっ、わたしまだ聴いたことありませんけど」と、西野はキョトンとしていた。そうか、この子はあの時はまだいなかったんだ。
「じゃあ」と一言告げて、わたしは食堂のピアノに着いた。居間のグランドピアノに対して、こちらはアップライトピアノであるが、演奏会なわけでもなし、まあ問題はなかった。
まずは『子犬のワルツ』、続いて『ノクターン第2番変ホ長調』、いずれもショパンの定番曲である。弾き終わってから西野の顔を見ると、小さな口をポカンと開けたまま、放心状態だった。そのうしろから拍手が聞こえてきたので、西野もはっと我に返って、夢中になって手を打ち続けた。気が付かぬ間に、わたしたちのうしろには一ノ瀬夫妻がやって来ていた。
「いやあ、素晴らしい。実に心がいやされます」一ノ瀬氏が賛辞の言葉を述べた。
「本当に、高木さまは天賦の才能をお持ちでございますわ」と、普段はほとんどしゃべらない一ノ瀬夫人も、興奮を隠そうとしなかった。
「じゃあ、もう一曲行きますね」気を良くしたわたしは、もう一曲弾くことにした。今度は、シューベルトの『魔王』だ。
少々調子に乗り過ぎたかもしれない。たいした準備もせずに超難曲を弾いたので、ミスタッチを三回もしてしまったが、いずれも素人には気付かれない程度のものだった。思った通り、三人の聴衆はわたしの演奏に完全に酔いしれていた。
「感動です。感動のし過ぎで、おしっこ漏らしそうです」西野はいつになくハイテンションだった。こんな一面もあったのか……。
「だったら、早くトイレにいってきなさいよ」と、わたしは気を使って答えた。
「すみません。物のたとえでつい発した言葉です。別に、トイレに行きたいわけではありません。にしても、りえさん、すご過ぎです」
「物のたとえね。でもさあ、まやちゃん。お顔に似合わず、下品なこともちゃんといえるのね」わたしとしてはほめたつもりだったが、西野の顔は徐々に桜色に変化していった。本当に、この子ったら、いちいち可愛らしい……。
「下ネタは親しい人との間で交わすだけで、男の人の前では絶対にいいません」と、西野が下を向いて言いわけをした。
「あら。でも、ここには一ノ瀬さんがいらっしゃるけど……」
「あっ、そうですね。すみません。どうしよう……」
まさに自爆状態とはこのことだ。
「いえいえ、お若いお嬢さまがたからしてみれば、わたくしなどは男の端くれにも入れてもらえませんよ」と、一ノ瀬氏がうまく機転をきかせた。
「高木さま。おかげで至福のお時間が過ごせました。ありがとうございます。
それでは、わたくしどもは夕食の準備に戻ります。お二方は引き続き、ご歓談をお楽しみくださいませ」
そう告げると、一ノ瀬夫妻は食堂をあとにした。
そのあとも、わたしは西野と取り留めのない乙女話で花を咲かせた。
「納豆があれば、わたしは黙ります」どうやら、西野の好物は納豆であるらしい。わたしはどっちかというと苦手である。
「納豆ってにおいが臭いから抵抗あるわ。それにべたべたするから食器を洗うのも面倒くさいじゃない」
「そうですか。でも納豆の粘り成分は水溶性ですから、水にしばらく漬けておけばお皿は簡単に洗えますよ。絶対におすすめです」
「たしかに、納豆は高タンパク低カロリーだから、健康には良さそうだけど、お醤油をかけないと食べられないでしょう。塩分接種過多も心配なのよね」
「そうですね。でも、わたしはマヨネーズ派ですけどね」
「マヨネーズ?」
「はい。納豆にはマヨネーズをかけて、砂糖を一つまみ加えます。それだけでOKです。あと、刻みネギなんかがあると最高です。
マヨネーズはお醤油よりも塩分が控えられるし、納豆の臭みを抑えて味をまろやかにしますよ」
「なるほど。今度試してみよっかな……」ちょっとだけ美味しそうに思えてきた。
「ぜひ、お試しください。あっ、でも、わたしの部屋に行けば、すぐにお出しできますよ。マヨ納豆――」
「えっ、どうして?」
「だって、わたしの部屋の冷蔵庫の中は納豆だらけですから。それに、マヨネーズとお砂糖もしっかり添えてありました。この館の主が配慮してくれたのでしょうね」
西野はニコニコしながら語っていたが、その瞬間、わたしは背筋が凍る不気味さを覚えた。いったい、この館の主は、どこまでわたしたちのことを調べ尽くしているのであろうか。
一ノ瀬氏が運んできた熱いココアを飲んでみて、ああ、冬はやっぱり甘い飲み物が最高だ、とあらためて確信した。西野はというと、ミルクティーを頼んだみたいで、背筋をピンと伸ばしながら、品よく嗜んでいた。こういう姿を見ていると、彼女はどこかの令嬢なのかなと思ってしまう。
「まやちゃん。あなたって、もしかしたらお金持ちのお嬢さまかしら?」わたしはふと口にしてみた。
「いえ、とんでもない。むしろその逆です。小さいころからずっと母と二人で暮らしてきました。父親の記憶はなにもありません。その母も、ついこの前、脳梗塞で亡くしてしまい、わたしには身内がいなくなりました。つまり、わたしは世の中から消えたところで誰にも影響を与えない人間なんですよ」と、西野が答えた。
「そうなの。でも、たしか学生さんって聞いたけど、生活費とか大変じゃない?」
「たまたまあるお金持ちの方から奨学金をいただくことができて、それでどうにか生活をつないできました」
足長おじさんってやつか……。
「じゃあ、運がよかったわね。条件がいい奨学金って、なかなか受けられないものよ」
「そうですよね。わたしの場合は、面接で一発OKでした。でも。変ですよね。その時の志願者はわたし一人だけでしたから」
「いいじゃない。それこそラッキーってやつよ」そうは答えたものの、志願者が一人だけの面接試験なんてあり得るだろうか。聞いている限りでは、かなり美味しい奨学金のようだけど。
「ところでさあ。まさか、まやちゃん。このままずっと、食堂に居続ける気なの?」冗談のつもりで、わたしは訊ねてみた。
「ええ。その予定ですけど」と、意外な返事が返ってきた。
「寝る時はどうするのよ」わたしは心配になってきた。
「秘密です。いずれにせよ、自室に戻るつもりはありません」
「えっ? じゃあ、シャワーはどこで浴びるの」
「浴びません。シャワーなんか一週間くらい浴びなくても、人間は死にませんから」と、西野は平然といってのけた。
「やれやれ、そいつはお年頃のむすめさんがいう言葉じゃないわね。
そうだ。いい事思い付いちゃった。あんたがシャワーに入っている間、わたしが部屋にいって、見張っていてあげる。お互いにそれをしあえばいいじゃない?」
「だめですね。あなたが信頼できるという保証がありません……」
西野がバサッと切り捨てた。名案を提供したつもりだったが、彼女の用心深さは半端なかった。
「そうよね。でも、誰かとチームを組むことも、生き残るためには必要よ。それに、万が一、わたしとあなたのどちらかが人狼だったとしても、一対一なら力勝負も互角じゃないのかしら」
「つまり、どちらかがシャワーを浴びている時に、外にいた人物がシャワー室へ襲ってきたとしても、女の子同士だから、まだどうにかなる可能性が残されている、ということですね。ふふっ、面白い考えですね」こわばっていた西野の表情が、ふっと緩んだ。
「どう、協力する?」
「ええ。正直なところ、一週間お風呂に入らないと決めた時には、わたし、それなりに凹みましたから」といって、西野はくすくす笑った。
わたしが先にシャワーを浴びることになった。個室のユニットバスの中は狭いから、そこでの着替えは極力したくない。シャワーを浴び終えたわたしは、身体を拭いたバスタオルでそのまま軽く身体を覆い隠すと、ユニットバスから外へ出た。
ドレッサーの椅子に品よく腰かけた西野が、興味深そうにわたしの裸をじっと見ていた。
「なにか?」
「いえ、りえさんのおっぱいがあまりに立派なんで、つい見とれてしまいました」
「そうなの? まやちゃんのおっぱいはどうなのかしら」
「ぺったんこです。お粗末すぎて、とても見せられる代物ではありません」
「そうかしら。わたし的には、とっても興味があるけどなあ。まやちゃんの裸って」
服を着てから、わたしたちは移動して、今度は西野の部屋へやってきた。わたしを中へ招き入れて、西野は扉の鍵をカチャリと掛けた。
西野はベッドの横へ行き、わたしの視線から外れるようにして、ワンピースドレスを脱ぎ始め、やがて、ブラジャーとパンツだけの下着姿となった。はっと思い付いたように身体をピクリと震わすと、わたしの目の前を急ぎ足で通り過ぎていき、クローゼットの引き出しから着替え用の下着を取り出した。ひとつ一つの動作を恥ずかしがる初心な姿が、何気に可愛らしい。
西野の身体の特徴は、手足がスラッとしていて、思ったよりも長いことだ。普段は長袖にロングスカートで手足をすっぽり隠していたから分からなかったが、小股が切れ上がったという表現は実にうまくいったもので、彼女の場合は、身長の割に脚が異常に長いのである。小学生を思わせるほどに小さいお尻が、高い位置からさらに攻撃的に突き出しているから、本人の意に反して、かなりのエロさをばらまいている。ヒップアップ効果をガードルに全面的に依存しているわたしにとって、うらやましい限りの芸術的な小尻だ。
胸は、たしかに本人の申告通り、絶対的な大きさは貧弱だ。でもこの子の場合、アンダーバストもそれなりに小さいから、上乳にもきちんとかすかな谷間が浮き出ていた。パッと見、ブラはBカップといったところか。
西野は下着姿のままでユニットバスへ入っていった。シャワーを浴びる音がしばらく続いた後で、下着を着た状態でユニットバスから出てきた。最後まで彼女は、わたしの前で素っ裸にならなかった。彼女の乳首の形状とか、陰毛の生え具合とかに興味があったわたしには、ちょっと残念な結末だった。
「このドレッサーの鏡、この角度で固定されていて、ちっとも動かないんです。変でしょう?」長い髪をドライヤーで乾かしながら、西野がさりげなくいった。
そういえばその通りだ。わたしの部屋もそうかもしれない。それに、ベッド横の壁にも大鏡が設置されているから、考えてみれば、そこらじゅうが鏡だらけの部屋になっている。
ドレッサーの椅子に腰かけている西野のうしろにこっそりまわって、鏡に映し出された彼女の姿を改めて観察してみる。ムダ毛が全く生えていないすべすべの白い肌。細い肩と、その合間にくっきりと浮かびあがる、妙にそそる鎖骨。この子は、美人であることに間違いないのだが、目鼻などの個々のパーツは、必ずしも特筆すべき特徴があるわけでもなく、可もなく不可もなしといった印象なのだ。いったいどうして、こうまで美人と感じてしまうのだろう。
あえてあげれば、鼻下から口びるまでの幅が若干狭めで、美人の必要条件を満たしているのと、あごのラインが幼児を思わせる滑らかな曲線を描いているのが、彼女の特徴かもしれない。顔は子供なのに、身体が大人。どうやら、彼女が発するなまめかしい美貌の秘密は、この矛盾に隠されているみたいだ。
気が付けば時刻はもう七時になっていた。楽しい晩餐がまたはじまろうとしている。