5
いつもより早く仕事を終わらせ、私は家路を急いでいた。
家に残してきた河童のことが気がかりだった。
地下鉄の駅を出、地下街を抜けた先に私がいつも利用する地上への出口がある。
いつもは素通りする子供服の店の前を通りかかり、ふとなにか気にかかるものが視界に入ったような気がして足を止めた。夏の売れ残りなのだろう、カラフルな子供用の浴衣が十枚ほどハンガーにかけられ、売り場から少しはみ出した場所で投げ売りされていた。河童に着せたらどうだろう。
私は近寄り、手は出さずに赤や黄色や紺色が混じったそれらを観察した。浴衣にはそれぞれ、スイカ、花火、朝顔、人気キャラクターなどがプリントされている。そのなかで一際目を引いたのは、河童柄の浴衣だった。白地に、デフォルメされた緑の河童が一面にプリントされている。
座っているもの、立っているもの、スイカを食べているもの、踊っているもの、プリントの河童はどれも愛らしく微笑ましかった。確かに鈴子が言うとおり、西瓜を食べている河童は可愛かった。下がった値札には何度も値段が訂正されたあとがある。あまり人気がなかったのだろうか。
私はそれに手を伸ばしかけ、思い直した。河童に河童柄ではあまりに河童河童しすぎている。代わりにひまわりが全面に咲いている浴衣を買った。七百二十円だった。
河童は私の姿を見るなり駆け寄ってきた。「きゅい」となにかを訴えているがやはり河童語は分からない。
「安心しろ。きゅうりは買ってきたぞ」
適当にそう答えると、かっぱは私が下げていたレジ袋のなかを覗き込もうとした。朝、机の上に出していったきゅうりはなく、ペットボトルの水は五センチほど減っていた。
河童はいったんは大人しく浴衣を着たが、化繊の感触はあまり好きではなかったらしい。私がトイレに入っている間に脱いでいた。河童に浴衣をどこにやったのかと聞いたがあっさり無視された。河童という生き物は、都合が悪くなると言葉が分からない振りをするようだ。
部屋の中を一通り探したが見当たらず、念のため脱衣所を覗くと、浴衣は洗濯機の縁にかかっていた。私はそれをみて思わず笑った。
「河童、おまえ、肛門が三つあるって本当か?」
夕飯を用意しながら、朝、鈴子に聞いた河童に関する豆知識を思い出していた。
唐突な私の問いかけに対し、河童はきょとんとした顔で私を見た。私が手をのばしても、河童は逃げなかった。膝をつかむと、湿った感触がてのひらに伝わってきた。どこか蛙に似ている。
河童は特に抵抗はせず足を開いた。人形に似たつるんとした股間の真ん中に、穴がひとつだけあった。排泄器官だろうか。それ以外に穴や突起らしきものはない。肛門が三つどころか、見た目では男なのか女なのかすらわからない。わかったのは外見だけでは河童の性別はわからない、ということと、河童の肛門もやはりひとつらしいということだけだった。
もしかしたらこれから成長していくのにつれて肛門が増えたり、生殖器官が現われたりするのかも知れない。
「変な生き物だな」
私が呟くと、それまでおとなしくしていた河童は急にばたばたと足を動かした。驚いて手を離すと、河童は大きな目で私を睨み、嘴を突き出して「きゅるきゅいら!きゅ」と鳴いた。相変わらず河童語は意味がわからなかったが、自分は不機嫌だと訴えていることはわかったので、私は軽く肩を竦めて謝った。
河童は身を翻して私の手の届かないところまで行き、こっちを振り返ると、早口で「きゅらいるら。きゅきゅらきゅらるきゅらいら!」と鳴いた。怒っているようだ。
「どうしたんだ。怒るなよ。変だって言ったから怒ってるのか」
私が味噌つききゅうりスティックを作っても、河童は傍に寄ってこなかった。
「ほら」
河童に向かって差し出したが、河童は私を無視してぬいぐるみと遊び始めた。私は苦笑し、仕方なくきゅうりを自分で食べた。味噌の味ときゅうりの青さがよく合っていておいしい。
河童が来て一週間がたった。
河童というものがこんなに感情豊かなものであるとは思ってもみなかった。日々、泣いたり笑ったり怒ったりと忙しそうだ。言葉は通じていないはずだが、通じているのではないかと錯覚するほど勘がいい。
私は相変わらず河童の言うことは「おなかすいた」と「遊んで欲しい」と「もう眠い」くらいしか分からなかったが、河童は私の言うことをよく理解していた。食事は一日二回。きゅうりのほかに茄子や人参も食べたが、やはりきゅうりが一番好きなようだ。西瓜も食べた。嘴を上手に使って食べている河童を見るとやはり和んだ。西瓜の皮はやはり河童でも食べない、ということがわかった。
いったいこの河童はどこから来たのだろう。
なぜビルの谷間で死にかけていたのだろう。
なぜ、私のところへ来たのだろう。
そして、いつまでここにいるつもりなのだろう。
わからないことばかりだったが、河童と暮らすのは楽しかった。昼間ずっと部屋の中で留守番をさせておくことだけが気がかりだった。河童だってたまには川で泳ぎたいだろう。
テレビでたまたま渓流釣りの様子が流れたとき、河童はテレビに齧りつかんばかりの勢いでそれを見ていた。池や湖の映像にも敏感に反応した。どこか人目につかない川がないだろうかと考え、私は河童を故郷の川へ連れて行くことにした。
夜、民家のない上流の方へ向かえばなんとかなるだろう。移動のためにレンタカーを借りた。さすがに河童を電車に乗せるわけにはいかない。小さいとは言っても三歳児ほどの大きさがあるし、スーツケースに隠したとしても、河童が鞄のなかで大人しくしているとは考えられなかった。
河童は夜の川を悠々と泳いでいる。
時折頭の皿が月の光を反射してきらめく。泳ぎながら、ひゅーっと風の音に似た歓声を上げた。もしかしたら、これまでに聞いた風の音も近くの川に住んでいた河童の声だったのかもしれない。
河童はいつのまにか水際にたたずむ私の足元までやってきて、顔だけを水中から出し、無邪気な黒曜石の目でじっと私を見た。ゆっくり肩を動かす。手を出そうとしている。そのまま暗い水のなかに引きずり込まれるのかと思ったが、そうではなかった。
河童の手には銀色の魚が握られていた。鮎のようだ。ぴちぴちと跳ね、白い腹を見せている。河童は私に向かって魚を差し出した。どうしたものかと思いながらそれを見ていると、河童は少し困った顔をした。魚を私の後ろの草むらに向かって放り、また水音も立てずに水中にもぐっていった。
私はしばらく水面に視線を走らせていたが、河童は現れなかった。風が吹き過ぎ、草がざわめく。さっき河童が投げた魚が苦しがって跳ねる音がした。頭上に、満月まではまだ間がありそうな月が浮かんでいる。
どこかでぴしゃん、と水の音がした。慌てて視線を戻したが、やはり河童はいなかった。河童が水面に出てくるのを待ちながら、ふいに、これが別れなのではないだろうかと思った。河童は川に住むものだ。いったいそれをいつ得たのかもわからない知識が脳裏をよぎった。
意外に、河童は私の故郷の川を気に入ったのかもしれない。定住するつもりだろうか。そうなれば私はお役御免だ。
望んで河童を飼い始めたわけではないが、実際に河童と別れることになると思うと少し淋しかった。河童と離れるのは淋しい、などという感情があったことに驚く。来たときはあれほど疎ましいと思っていたのに。つらつらと考えていると、また魚が跳ねる音がした。
「河童」
小さな声で呼びながら、ふと、河童というのは固有名詞だな、と考えていた。私が人間、と呼びかけられるようなものだ。
河童は姿を見せない。動けなくなる前に離れよう、と、踵を返した途端、足首になにか冷たいものが絡まった。ぎょっとして視線を落とすと、絡まっていたものは河童の指だった。小さな手に張っている水かきを見た瞬間、私は自分でも驚くほどほっとした。河童は今度こそ水のなかに引き込もうとしたのかもしれない。それでも私の心を満たしたのは恐怖ではなく安堵だった。
河童はひどく急いだ様子で両手を岸につき、つるんと滑るように水から上がった。頭の皿の水が、完全に透き通っていた。
空中でくるっと器用に川側に向きを変え、河岸に腰掛けると、そのまま足を抜く。水面上に姿を現した両足の間に、さっきの魚よりも二回りほど大きな魚が挟まっていた。河童はそっと魚を手にとったあと、ふるっと小さく頭を振った。と、身体全体が上から細かく振動し、霧のように水分が飛んだ。河童は立ち上がり、私を見上げた。得意げに私に向かって魚を差し出す。
「河童」
私はゆっくり河童の前に跪いた。
河童が驚いたようにうしろに一歩下がる。
「そろそろ帰るか?」
河童はしっかりと首を縦に振った。