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食器を片付けて戻ると、河童はテレビの上にある熊のぬいぐるみを見あげていた。
私の妹が大学受験のため上京し、この部屋に泊まった際、置いていったものだ。理由はあまりにも殺風景すぎるかららしい。私は特にぬいぐるみにも熊にも思い入れはなかったが、捨てるのも忍びなく、そのままテレビの上に放置してあったものだった。
「ちょっと待て、埃だらけだから」
私は先回りしてそれを取った。熊のふくふくとした手を持ち、ベランダへ向かった。河童があとから付いてくる。ベランダに出るためサンダルを履くと、河童はそこで立ち止まり、首を傾げてこちらを見た。私が熊の埃を払いはじめると、河童はまるで自分が叩かれているかのように痛そうに顔をしかめた。
埃を払い終えた熊を手渡すと、河童は両手で受け取り、なぜか匂いを嗅いだ。
遊びはじめた河童を見て、私はパソコンを開いてテーブルの上に乗せた。やりかけの仕事を片付け今日中にメールで送信しておかないと、明日の会議と土日を挟んだ月曜日では水曜日までに返事がもらえるかどうか微妙だ。
ぬいぐるみと遊んでいた河童が、私が仕事を始めたことに気がつくと、テーブルを回り込んで近くに来ようとした。
「だめだ、邪魔するなよ。そっちでおとなしく遊んでいろ。あとで風呂に入れてやるから」
河童が風呂に入るものなのかどうかは知らないが、もともとは水辺の生き物なのだから風呂に入れたとしても驚くことはないだろう。
河童はしばらくその場に突っ立ってじっとこっちを見ていた。私が気にせず作業に戻ると、またおとなしく遊び出したが、やはり気になるのか近づいてきた。私が無視すると、河童は机の下にもぐり、私の足と机の間から顔を覗かせた。いったいなにがしたいのだろう。
河童はぬいぐるみを抱いたまま、机の下からつるっと抜け出し、パソコンと私の間に座った。パソコンの画面を見てじっとしている。膝の上の河童は頼りないほど軽くやわらかく、皮膚はひんやりしていた。
画面を見るのに邪魔だったが、私は仕事を進めることにした。好奇心旺盛な河童だがさすがにパソコンにはさわりたくない様子だし、見ているだけなら作業の邪魔にはならないだろう。河童は私の手元と画面とを交互に見ていたが、やがて小さく「きゅわ」と鳴いた。
作業を終え、リターンキーを押してメールが送信できたことを確認してから、いつもネット銀行で買っているくじを今日も一口だけ買った。金の無駄だと分かっているのだが、こんなささやかな楽しみでもなければサラリーマンなどやっていられない。パソコンをスリープ状態にして閉じた。いつもならしばらくはニュースや巡回サイトを見て回るのだが、今日は風呂が先だ。
膝の上の河童を脇に下ろして立ち上がると、居眠りをしていた河童は不思議そうに私を見上げた。
「一緒に来い。ぬいぐるみはそこに置いておけよ」
河童はぬいぐるみを抱いたままあとに付いてこようとしたが、言葉を理解したのかそれとも私の仕草でわかったのか、そっとぬいぐるみを足元に置き、軽く頭を撫でてから小走りで私の後ろに付いてきた。
脱いだ服を洗濯機に放りこんでいくと、河童は不思議そうに私の手の動きを追った。風呂のドアを開けて振り返ると、河童は洗濯機のふちに手をかけ、中を見ようとしてもがいていた。
「なにやってるんだ。こっちおいで」
私が呼ぶと、河童は素直に洗濯機から手を離してこっちに寄って来た。
「おまえはなにも脱がなくていいから楽だな。洗濯もしなくていいし」
風呂の蓋の上に河童を腰掛けさせ、私は手早く全身を洗った。泡に興味を示すのではないかと思い、河童の様子を窺うと、河童はおとなしく座ってシャワーヘッドを目で追っていた。
もしかしたら水道水を嫌がるかもしれないと思い、試しに手のそばにシャワーヘッドを持っていくと、河童はてのひらを上に向けて差し出してきた。手にぬるま湯をかけても河童は嫌がらなかった。肩からシャワーを浴びせると手を叩いて喜ぶ。ボディソープは使ってもいいものかわからなかったので、全身を洗い流すだけに留めた。
皿に水が入らないように、顔と後頭部は濡れたタオルで拭いた。河童はうっとりしたように目を閉じていた。
私は河童を一晩泊めることにした。いったいどこから来たのか、どこへ向かおうとしていたのかは知らないが、テレビの真ん前に座って画面を不思議そうに見ている河童にはまったく出て行く気がなさそうだった。
私は河童に寝床を作ってやることにした。いくらなんでもフローリングの床に転がしておくわけにはいかないだろう。使い古しの座布団を二枚横に並べ、そのうえに古いバスタオルを敷いた。二枚のスポーツタオルで作った枕と、実家から送ってきた大判のバスタオルをたたんで足元に置く。
河童はいつのまにか脇で私のすることをしゃがんで見ていた。
深夜、ふと目が覚めた。枕元のデジタル時計は二時三十五分と表示している。河童はどうしただろう。私は起き上がった。無意識に河童の寝床に目をやる。河童はそこにはいなかった。
目をこらし、影を見つけようとしたが、やはり寝床にはいない。私は枕元の読書灯を点け、眼鏡をかけた。部屋をぐるりと見渡したが河童の姿はなかった。
どこへ行ったのだろう。もしかしたら風呂かと考えながら、ベッドから下りようとした瞬間、足の裏になにか冷たいものが当たり、同時に「らいらいら!」と悲鳴のような音がした。
慌てて足を引き、体勢を変えてそこを覗き込むと、河童が足からゆっくり現れるところだった。どうやら、ベッドの下から飛び出していた河童の足を踏んづけてしまったらしい。
「なんでそんなところにいるんだ。危ないだろう」
私が声をかけると、河童は手に持っていたバスタオルを抱くようにしながら起き上がった。眠いのか、目をしきりにこすっている。河童も寝るときは肌掛けを使うのか、いやそもそも河童というのは寝るものなのか。
「あっちで寝ろ」
そう言うと、河童はほてほてと力なく歩き、自分の寝床に横になった。やはりよくわからない生き物だ。
河童のことは気がかりだったが、今日も仕事へ行かなくてはならない。河童が腹をすかせたら食べられるようにきゅうりと水を置いてきたが、それで足りるのかどうかは自信がなかった。何種類か野菜を買っておいたほうがいいかもしれない。そう思いながらアパートの敷地を出ようとしたとき、ふと一階の電気メーターの脇に貼られたぼろぼろの紙が目に入った。
赤い字で犬や猫等のペットを飼わないで下さいとある。いつも目にしているはずだが、自分にはまったく縁がないと無視していたペット禁止の貼り紙だ。
犬や猫等、の等の字に河童は入るのだろうか。
河童はわんわんと鳴くこともないし、毛が散らかることもない。皿に水を入れすぎなければ排泄も必要ないらしい。多少青臭い匂いがするような気もするが、人間でももっと臭い奴はいるだろう。
通勤中、ずっと河童はペットなのかどうかということを考えていた。
上の空で会社に着き、自分の机に鞄を置こうとして、ふと緑色の物体が目に入った。
丸い緑の楕円。頭には皿。丸い目と嘴とが、絶妙な配置でデザインされている。河童だ。河童の顔のかたちの座布団だ。毎日、近くに座って一緒に仕事をしているのに、鈴子がこんな座布団を使っていることなど今の今まで気がつかなかった。
「伊藤さん、何見てるんですか?河童好きなんですか」
突然、背後から快活な声がした。振り向くと、コーヒーカップを手にした鈴子が笑顔をこちらに向けていた。
「え?いや、特には」
私は目を伏せ、彼女が席に戻る邪魔にならないように通路を開けたが、鈴子は笑ったまま動こうとはしなかった。
「そうですか?すごく熱心に見ていらっしゃったから、お好きなのかと」
私は返答に困った。別に私は河童好きではない。確かに今は家にいるが、それは好きだからではなくたんなる成り行きだ。
「……高岡さんはお好きなんですか、河童」
「ええ。かわいいですよね?お皿も、嘴も、甲羅も」
鈴子は目を細くする。
「そうですか」
こんな近くに河童マニアがいたとは。ちょうどいいと思い、私は河童がなにを食べるのか聞いた。鈴子は首を傾げ、やっぱりきゅうりを食べるんじゃないでしょうか、と言った。
「もしかしたらウリ科ならなんでも食べるんじゃないんでしょうか。河童が西瓜を食べていたら可愛いでしょ」
可愛いかどうかではなく、食べるのかどうかを聞きたかったのだが。
鈴子は私が河童好きだと勘違いしたらしく、その後始業時間まで河童に関するどうでもいい雑学を披露してくれた。