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 のんきな河童に、私は苦笑しながら残りの水を冷蔵庫にしまった。河童はしばらく飛び出た自分の腹を叩いたり撫でたりしていたが、やがて飽きたのだろう、ものめずらしげに部屋の中を見回し、歩き出そうとした。ふと私は気がついた。


「待て待て、土足だろう」

 遊びと勘違いしたのか、わちゃわちゃと逃げようとする河童の首根っこを捕まえて濡らしたティッシュで足を拭くと、かすかに灰色に変わった。河童の足はひょろっと細いが、足首から先は大きく、ちょうど小さな団扇のような形をしていた。


 しばらく見ていると、河童は落ち着きを取り戻したように見えた。


「どうした?かくれんぼか?」

 カーテンの陰に隠れた河童を追って私は手を伸ばした。

 カーテンをつかんで開くと河童は大きな目をより一層見開き、「きゅー」と長く鳴く。困った顔でカーテンをつかんだ。どうやら隠れたいらしい。


 なにか変だ、と思いながら私は強くカーテンを引いた。河童の全身が現われる。河童はカーテンから手を離して「きゅ」と鳴き、膨らんだ自分の腹を哀しげに見下ろした。その仕草の意味するところに気がつき、私は慌てて立ち上がり、河童の両脇の下に手を入れてそのまま抱き上げた。


「待て、こんなところでするなよ」

 一瞬悩み、風呂場に連れて行った。

「おい、遊んでいるんじゃないんだ」

 足にまとわりついて遊ぼうとする河童を捕まえ、背中側に回って両足ではさんで押さえ込むようにした。

「ほら、でないのか?部屋でされるのは困るんだ」

 河童は丸い目でじっと私を見上げた。不思議そうに首を傾げる。皿の水がたぷんと波打った。


 私は足で河童を挟んだまましゃがみこんだ。そうすると河童と私の背丈はほとんど一緒になった。腕を河童が動かないように胴体にまわし、もう片方の手で膨らんだ腹を軽く押した。腹はやはりざらざらしていた。


 なぜかフグの腹を思い出した。海釣りにいくと小さなハコフグが釣れることがある。子どもの頃はよく、空気を目一杯取り込んでぱんぱんにふくらんだフグを蹴り飛ばして遊んだものだ。「きゅる」と河童が小さな声で鳴いた。しゃーっという聞きなれた音がした。

 河童の腹に蓄積された余分な水分が、足元に小さく水たまりを作った。体勢から、自分の着ているものも汚れる覚悟はしていたのだが、河童の排泄物はきれいにまっすぐ下に放出されたようだった。


 私が河童を解放すると、河童はすぐにこっちを向いた。同じ高さに目線があることが嬉しいのか、ぺたぺたと私の頬や手をさわってくる。膨らんでいた腹はもとの大きさに戻っていた。


「汚れるからそっちに行ってろ」

 私は河童を持ち上げ、風呂の外に出した。河童の排泄物をシャワーで流して戻ると、河童は出すものを出して気持ちが高揚したのか、再び部屋の中を走り回っていた。


 走るのはあまり得意ではないようで、あちこちにぶつかったりテーブルにぶつかったりしていたが、河童は走るのを止めない。身軽なせいかほとんど足音はしなかったし、あまりにも嬉しそうだったので、私はあえて止めずに河童を観察していた。小便が出たくらいでそこまで喜べるなんてお手軽だ。

 そう呟いた途端、座布団が大きく滑り、片足を乗せていた河童が大きくバランスを崩した。


「危なっ……」

 もちろん手が出る距離ではなかった。河童は私が見ている前で、テレビ台に突っ込むように後ろ向きに倒れた。途中でかこんっと小気味のよい音がし、河童が視界から消えた。私は慌ててテーブルを回った。


「おい、大丈夫か」

 河童はなにが起こったのかわからないというような表情で仰向けになり目を見開いていたが、私が声をかけると、応えるように「きゅ」と鳴いた。私が脇に跪くと、河童は視線だけを動かして私を見た。


「驚かせるなよ」

 河童はまた「きゅ」と鳴いたが、突然、涙を溢れさせた。まさか河童が泣くものだとは思わなかった私が驚いて身を引くと、河童は「きゅ、きゅる、きゅいる」となにかを訴えるように断続的に鳴きながら、私の方に弱々しく手を伸ばしてきた。

 私は仕方なく手を軽く握り、背に手を入れて河童の上体を起こしてやった。


「痛かったか?たんこぶでもできたか」

 私は河童の後頭部を覗き込み、指を滑らせた。柔らかいトサカがクッションの代わりをしたせいか、特に目立った外傷はない。倒れる瞬間に聞こえた軽い音はいったいなんだったのだろうと思い、ひとつの可能性を思い出して私は河童の皿を見た。


「あ」

 私が思わず声を上げると、河童はぎょっとしたように顔をひねって私を見、後頭部を確かめるようにわたわたと手を上げた。

「ちょっと、あっちを向け」

 私は半ば強引に河童を向こう向きにし、頭上の皿を見た。欠けている。背骨のちょうど真上から少し右よりの部分が、子どもの虫歯のように小さく丸く欠けていた。


 私は河童から手を離し、床に手を這わせてかけらを探した。もともと欠けていたのかもしれないが、さっきの音がしたときに欠けたと考えるほうが自然だ。

 テレビ台の付近を捜し、動かしてその下を探し、テーブルの下と念のため座布団の下も見た。河童はその間、後頭部を押さえて固まっていた。


 カーテンを上げた瞬間、そこからころころと釘頭を半分にした程度の大きさの白いなにかが出てきた。指先でつまみあげると固かった。掌に乗せ、河童を振り返る。当ててみるまでもなく、色や材質でそれが皿のかけらだと分かった。ああ、と思わず声が出た。かけらを見せると、河童は今度は無言でさっきよりも大粒の涙を溢れさせた。


「泣くなよ」

 河童は人間より水分含有量が多そうだから人間よりも簡単に涙が出るのかも知れない。


 私は手の中のかけらをみた。真っ先に浮かんだのはボンドでくっつけるという古典的な手だったが、私はすぐに首を振った。どこに折れた骨をボンドでつけるやつがいるというのだろう。もし仮にそれでくっついたとしても、河童が成長する段階で不具合がでてきそうだ。


「どうにかできたらどうにかするから」

 皿のかけらをテレビの横に置きながら首にかけたタオルを抜き、河童の頬の涙を拭うと、河童は少し落ち着きを取り戻した様子で頷いた。やはり言葉が通じているように感じる。小さな肩を軽く叩き、私は立ち上がった。腹が減っていた。そういえばまだ食事をしていない。


 私は湯を沸かし、買ってきたおかずと冷凍のご飯を同時に電子レンジに入れた。椀にインスタント味噌汁のもとを、そして湯飲みにティーバックを入れる。河童はいつの間にか空のペットボトルを両手で持ち、もの珍しげな表情で私のすることを見ていた。


「おまえもなにか食うか。河童ってなにを食うんだ」

 河童はペットボトルを持ったまま、とてとてと足元まで近寄ってきた。背伸びして私の手元を覗き込もうとしたが、見えるはずがない。しかし河童は懸命に伸びをし、最後は嘴まで突き出して台の上を見ようともがいた。


「ここにおまえの食べられそうなものはないよ。このなかに……まあこっちにもなにもないけど」

 言いながら、私は冷蔵庫を開けた。河童は近寄ってきて、おそるおそる冷蔵庫のなかを覗き込んだ。

 冷たい空気に驚いたのか、「きゃるい」と鳴いたが、危害はないとすぐにわかったのか興味深げに中を見た。冷蔵庫の中には実家から貰って来たバターとプチトマトときゅうり、近所のスーパーで日曜日に買ってきたたくわんとビールとちくわ一パックがあった。


「きゅうりは好きなんじゃないか?河童だろう」

 私はきゅうりを取り、河童に手渡し、冷蔵庫を閉めた。


 河童は両手できゅうりを縦に持ち、しげしげと眺めたあと匂いを嗅いだ。一瞬考え込むような顔を見せたが、腹がすいていたのかそれともたんにきゅうりが好物だったのか、河童は嘴を上手に使ってぽりぽりと音を立てながらきゅうりを食べ始めた。


「そっちで座って食え」

 私がテーブルを指差すと、河童は頷いて振り返り、歩いていって私がいつも使う座布団の上に正座した。そこは私の席だと言おうかと思ったが、さっきよりも真剣にきゅうりを食べている河童を見、そんなことを主張するのも大人げないかと考え口を噤んだ。


 私は盆にご飯茶碗と味噌汁の椀、鳥のから揚げとお茶、たくわんと洗ったプチトマトを乗せ、テーブルに運んだ。河童がちんまりと座ってきゅうりを食べている。きゅうりは半分ほど減っていた。私が反対側に座って盆を置くと、河童はきゅうりのかけらを飲み込みながら立ち、興味深そうに盆の上の夕飯を覗き込んできた。


「座って食え」

 そう私が言うと河童は一端は座ったが、食事を始めると、膝を立ててまた盆を覗き込んできた。私がご飯茶碗に手を伸ばすとご飯茶碗を、味噌汁椀に手を伸ばすと味噌汁椀をと言った具合に、私の手と口と食器の間を忙しそうに目で追いかけまわす。合間に「きゅ!」と合いの手のような茶々のようなものを入れる。


「食いたいのか。食えるのか?」

 箸で挟んでいたから揚げを少しだけ残してかじり、咀嚼しながら、残ったかけらをてのひらの上に乗せた。目の前に差し出すと、河童はきゅうりを左手に持ち、から揚げを右指先でつまんだ。


 河童の手は紅葉ほどに小さい。河童はから揚げをほとんどない鼻に近づけて匂いを嗅ぎ、首を傾げた。


 指の間のから揚げと私の口とを交互に見たかと思うと、目を閉じて大きく口を開け、喉の奥にそれを放り込んだ。河童はなぜか酸っぱいものを食べたときのように、くしゃくしゃになるほど顔をしかめた。私は慌てて制止しようとしたが、河童はんっと勢いをつけてかけらを飲み込んでしまった。


「大丈夫か」

 河童はきゅうりで口直しをしている。しばらく眺めていたが、特に変化は見られなかったので、私は食事を再開した。河童は私のほうをちらちらと窺ってはいたが、欲しがることはなかった。よほど肉が口に合わなかったのだろう。

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