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 私はしばらく無視していた。

 ドアを開けなければそのうちあきらめてよそへ行くだろう。無理やりドアをこじ開けるような力はなさそうだから。


 ドアの向こう側で河童がごそごそと動く気配がしていたが、やがてあきらめたのか動きを止めた。

 ことん、とドアになにかぶつかる音がした。

 河童はしばらくきゅいきゅいと鳴いていたが、最後に長く風のような音を出したかと思うと、それきり声が聞こえなくなった。



 私がドアを開けようと思ったのは、河童が私の部屋のドアにもたれて死んだのではないかという恐怖からだった。

 死んだ河童を隣人が発見したら、死体はなんらかのかたちで私と関係があるものだと思うだろう。実際にはなんの関係もなくても、噂は人から人へと伝わっていく。私にはそれが耐え難い苦痛だった。私は静かに生きたいのだ。自分のいないところで自分についてあれこれ言われるのは我慢ならなかった。もし死んでいたらどこかへ捨ててこなければならない。


 そっとドアを開けると、待ち構えていたかのように河童が部屋に入ってきた。


 騙された。

 一瞬そう思ったが、やはり死にかけなのか、河童はふらふらと足取りがおぼつかない様子だった。

 頭の皿には一滴も水が入っていなかった。皿、皿と言っているが、骨のように白く固い皿状のものと言ったほうが正しいかもしれない。

 実際に皿が乗っているなら、河童が動くたびに皿は落ちて割れるだろう。

 変形し、露出した頭蓋骨が皿のようになっているのだろうか。


 そんなことをぼんやりと考えていると、やはりここまでの移動は最後の力を振り絞ったものだったと見え、河童は部屋を入ってすぐ目の前にある冷蔵庫に寄りかかったと思うと、突然ぱたりと横倒しになった。


 私は迷ったが、立ち上がりコップに水道水を一杯汲んだ。

 私が近寄ると河童は薄く目を開けた。浅く呼吸をしている。

 まだ死んではいないようだ。


 さわるのは嫌だったが、このままコップを傾けたらこぼれた水が床に溢れてしまう。肩の下に手を入れ、ゆっくり河童を起こした。河童は想像以上に軽く、紙をさわっているかのようにかさかさしていた。


 河童は不思議そうに瞬きをして、私の持っているコップを目で追った。構わず頭上でゆっくりコップを傾ける。水が皿にふれた、と思った途端、河童が「びょるいるいらい!らいらい!」と、悲鳴のような高いかすれた音を発した。


 私は驚いて手を止め、皿を見た。皿のなかの水が沸騰するように泡だったかと思うと、水が四方八方にはじけとんだ。河童のすぐ傍にいた私にも水はかかったが、水はほとんど霧状になっていため、濡れるというよりも湿ると表現した方が的確な程度の被害だった。


「いらないのか」

 私はコップを床に置いた。

「悪かった」

 河童は震えていた。小さな肩が揺れている。嘴がぶつかりあって、音をたてていた。

 私は河童を元のとおりそっと横にし、立ち上がった。河童はさっきよりも冷たくなっていた。コップのなかの水を流しに捨て、もとに戻した。


 どうやらやはりあとは死を待つだけのようだ。もしここで死んだらどうしたらいいのだろう。河童の死体は土に埋めていいものなのだろうか。とはいってもこのあたりに死体を埋められそうな適当な場所はない。鞄に入れて山奥に運び、そこで埋めようか。


 私はそう考えながら、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。なぜかとても喉が渇いていた。コップを取るために流しへ向かおうとすると、なにかが足に引っかかった。見ると河童の小さな手が私の靴下にまとわりついていた。


「どうした?」

 河童は手を伸ばし、私の持っているペットボトルをしきりに目で追っていた。

「これは水。さっき嫌がっただろう」

 私が呟くと、驚いたことに、河童は私の言葉を理解したかのように首を横に振った。また手を伸ばしてくる。なんなのだろう。やはり水が欲しいのだろうか。

「水か?」

 さっきの首振りはやはり偶然だったらしく、河童は私の言葉には反応しなかった。ペットボトルを片付けようとすると、河童は手を空中にさ迷わせ、「きゅるる」とひどく哀しげな声を上げた。

「また痛い目に遭っても知らないからな」

 私はコップに残った水道水を流し、ボトルから少しだけ水を注いだ。河童は期待に満ちた目で私のすることを見ていた。水の入ったコップを手に振り返ると、力を振り絞るようにして起き上がろうとした。


 驚いて眺めていると、河童は中途半端に身体を持ち上げ、しばらくふるふると震えていたが、やがて力尽きたのか、ぱったりと音を立てて倒れた。哀しそうにコップの中の水を見上げている。


 私は河童の脇に手を入れて河童を抱き起こし、そのまま少し押して移動させ、壁に着いたところでそこに寄りかからせた。

 コップをおそるおそる傾ける。水が皿に流れ込む。予期していた悲鳴は上がらなかったが、不思議なことが起きた。確かに入ったはずの水が一瞬でなくなった。コップと皿を交互に見た。なんの仕掛けもありません、というマジシャンの決まり文句が思い浮かんだ。私はもう一度、コップを傾けた。やはり水は一瞬で消え去る。


「なんだこれ」

 いつの間にか上がった河童の手が、手首にからみついた。コップを持っているほうの手だ。四本の細い指の間に薄い膜状の水かきが見えた。少し冷たく、弱弱しい。

 河童は「きゅるる」とまた鳴いた。甘えるような、催促するような音だった。

「わかった、やるから」

 私は河童の手を払い、残った水を全部皿に注いだ。水は皿の底に一瞬たまったように見えたが、またすっとどこかへ消えてなくなった。河童は空っぽになったコップを見、私の目を見た。私はペットボトルを取り、一瞬迷った後、ゆっくり皿に水を注いだ。水は次々と吸い込まれて消えた。まるで植物の水やりのようだった。乾いた土にしみこむ水。


 ペットボトル一本を空けても、皿はからっぽのままだった。河童は自分の皿に手をやり、乾いていることに落胆したのか肩を落とした。こころなしかさっきより動きにキレがあるように見える。動作を見て私は気がついた。


「水道水が嫌だったのか。贅沢ものだな」

 私がそう言うと、河童は一瞬私を見たあと、申し訳なさそうにうつむいて「きゃるいらいる」と鳴いた。言い訳をしているようだ。やはりこちらの言うことがわかっているのかも知れない。

「ちょっと待てよ。冷やしてないのがまだあるから」

 私が言い置いて立ち上がると、河童はおとなしく壁に寄りかかったまま私の動きを目で追った。私は食器カゴの隣に並べたペットボトルを一本取った。残りは2本だ。足りなかったら近くのコンビニへ買いに行こうか、と考えながら、河童を振り返ると河童は顔を輝かせて足をぱたぱたと動かした。


 蓋を開けながら戻り、ひたすら水を追いかける河童の前で、いったんコップに水を注いだ。匂いを嗅ぐ。ミネラルウォーターではあるが、さっきのものとは銘柄が違うから受け付けないかもしれない。コップを覗き込む私に向かって河童が小さな声で「きゅる」と言った。


 私はそっと皿にコップの水を注いだ。さっきと同じように水は吸い込まれた。銘柄までは問わないらしい。また水を注ぐ。消える。そしてまた水を注ぐ。消える。コップの水を全部皿に開けても皿は乾いたままだ。


 私は少し離れ、河童を観察した。さっきよりも皮膚がぴっちりしてきたように感じられた。嘴の横にあった深い割れ目が、今は皺と呼べる程度にまで回復している。皿から直接水を取り込み全身に巡らせる。便利なのか不便なのかわからない。

 河童は今度は両手を伸ばし、水をせがんだ。


「わかった、まとわりつくな。水がこぼれる」

 腕にさわる河童のてのひらは少し湿っていた。


 水を注ぐうち、突然、皿に水が溜まり出した。慌てて手を止めると、確かに底のほうに水がある。河童は皿に手をやりうれしそうに声を上げ、急に直立したかと思うと、頭を振りながら踊りだした。

 踊るといってもサンバやルンバと言った形式があるわけではない、ただ頭の上に両手をあげ、くるくると振るようにまわしながら、がに股でつま先立ち、崩れたスキップを思わせるリズムで軽快に動いているだけだ。


「おい、水がこぼれる」

 私は声をかけたが、河童は踊るのを止めなかった。

 回復力に舌を巻きながら、私は踊る河童を観察した。


 見ればみるほど立派な河童だった。水が満ちている頭の皿を取り囲むように鶏冠のようなものがひらひらとついている。水分をたっぷり蓄えた緑の肌は皺が完全に消え、どこもかしこもつるんとしていた。黒い丸い瞳、高さはほとんどなくふたつの穴が開いているだけの鼻、そして黄色い幅広の嘴。顔や腕や足は緑だが、腹だけは白い。


 緑の部分がつるんとしているのに比べ、腹の部分は心なしかざらざらしているようだ。河童の年齢など知る由もないが、多分まだ若いだろう。頭がやけに大きく手足はひょろりと細いところに鑑みると、まだ子どもの河童かも知れない。


 もしこれで実は五百年生きているとか、そんな話になったなら、多分世界中の化粧品会社が河童を捕獲するため次々と刺客を送り込んでくるだろう。一人では逃げられない河童は私を頼るかもしれない。しかしどこへ逃げるというのだ。最終的には捕まって生きたまま切り刻まれる運命だ。

 もちろん、河童の年齢など確認しようがないのでそんな物騒な話にはならない。


「喋れなくて良かったな」

 河童は唐突に踊るのを止め、傍に寄ってきて皿を突き出し、上目遣いでおそるおそる私を見、小さく鳴いた。もっと水を注ぎ足せと言うことらしい。私は苦笑し、ペットボトルを取った。水を注いでいくと、そのうち皿は水で満たされた。


 揺れる水を見るうちにふと、私はひとつの考えに取り付かれた。充分に水が満たされている皿。ここにもっと水を注ぎ足したらいったいどうなるのだろう。私は純粋な好奇心にかられてペットボトルを引き寄せた。


「もっと水を入れたらどうなるんだ?」

 河童は不思議そうにペットボトルを見、少しだけ嘴を突き出して「きゅるいらい」と鳴いた。それが入れていいという意味なのか、入れてはいけないという意味なのかはわからなかったが、河童に逃げる様子はなかった。私が再び皿を覗き込むと、河童は私の方に頭を傾けて見えやすいようにした。


 ほんの少しだけ注ぐ。表面が盛り上がり、そのまま溢れるかと思ったが、やがて水面は静かになり元通りになった。私は手を止め、少し離れて河童を観察した。なにも変わった様子はない。じっと見ている私の前でなぜか河童は嬉しそうに両手をばたばたさせた。


 私はもう一度、今度は少しだけ多めに皿に水を注いだ。さっきと同じように表面が盛り上がり、平らになった。いくらでも注げるのかもしれないと考えながらペットボトルの中の残りの水を見た瞬間、ぽこんと軽い音がした。

 驚いて見ると河童の腹がぽっこりと出ていた。注いだ分の水の質量を無視した飛び出し方だ。


 河童も驚いたのか、目を丸くしている。


「……ごめんな」

 私が謝ると、河童は大きく首を横に振った。やはり言葉が分かるのだろうか。

 河童は妊婦のようにでかくなった自分の腹を見下ろし、目を細めて「けけっ」と鳴いた。手のなかのペットボトルを見、また皿をこっちに差し出してきた。


「もうだめだよ。腹が破裂したらどうする」


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