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「河童なんて想像上の生き物だろう」

 私がそう言うと、ビルの谷間で拾った河童はきょとんとした顔で自分を指差し、そして首を少し傾げた。

「おまえは存在しちゃいけない存在なんだよ」

 河童は濡れたタオルのようにへなへなと力なく横になり、手で膝を抱き、しくしくと泣き始めた。声までは出していないが、大粒の涙を次々に溢れされる河童を見て、私の良心が少し痛む。

「泣くなよ、面倒くさいな」

 私は髪をかきあげ、ベッドに腰掛けた。床に横たわった河童が恨めしげに私を見上げ、ゆっくりと背を向けた。震える河童の緑の背中は甲羅で覆い隠されている。完全に横になっているのに、頭のてっぺんに乗っている皿から水がこぼれる様子はない。動くたびに水面はゆらゆらと揺れる。重力を完全に無視しているあの水はいったいなんなのだろう。なめらかな皮膚の表面が少し濡れたように光っている。




 河童との出会いは唐突だった。


 私はいつも通り定時を少しだけ過ぎて仕事を終え、家路を急いでいた。


 一日の労働で疲れ切った身体は一刻も早い休息を求めていたが、そのまま家に帰っても、常備しているからし漬けくらいしか食べるものがない。近所の弁当屋でおかずだけ買おうと考え、私は安田第一ビルと能勢合同ビルの合間に足を向けた。弁当屋への近道だ。

 不夜城とは言うが、脇道の暗がりは鳥目の私にはつらいものがある。しかし道が見えないほどではない。


 半ば辺りまできて、私はふと足を止めた。最初、犬かなにかが寝ているのだと思った。人間の年の頃でいえば三歳児程度の大きさだった。岩のように丸い黒い影だ。起きるなよ、と思いながら私は近づき、近づいていくごとに混乱した。甲羅だ。


 ビルの谷間で亀が寝ている。


 物好きな金持ちの家から家出でもしたのか。めでたいのかめでたくないのかよくわからない話だ。さすがにその物体がそこにいる意味が分からず、私は足を止めた。様子を窺う。


 確かに甲羅があるのだが、ぽこんと丸く出ている頭が普通の亀では考えられないほど大きい。そしてその反対側に出ているひょろっと長い物、それは足のように見える。亀にはあんなに長い足が存在しただろうか。


 私は好奇心旺盛なほうではない。テレビもあまり見ないし、雑誌も読まない。世の中で起こっていることについてあまり興味がない。しかしなぜか気持ち悪い生き物のことは少し好きだった。見ると気味が悪いと思うし同時に気分も悪くなるのだが、世の中にこんな奇怪な生き物が実際生きていると思うと興味深く、目を離せなくなる。


 そのときも、奇怪な亀に近寄ったのは怖いもの見たさだった。近くで見ても、やはりそれは足のように見えた。その生き物まで2メートルというところまで近寄って全身を眺める。


 私はそれを知っていた。

 河童だ。


 自分でも何を言っているのだろうとおかしいが、それは確かに河童だった。

 その証拠に頭に皿があるし全身緑色をしているし亀の甲羅も背負っている。


 河童が公道で行き倒れている。


 河童の皿は炎天下に放置した車のボンネットのように乾ききっていた。


 緑の肌はかさかさでところどころひび割れ、今よりも確実に一回りは小さかった。私は腐った緑のぼろきれのような河童を見下ろしながら、目の前にいるこれが行き倒れの河童であろうが新種の生物であろうが宇宙人であろうが確実に死は近い、このまま放っておくのがベストだと思った。


 もし私が生物学者や新種ハンターであったなら格好の捕獲対象になるのであろうが、私はただのなんの変哲もないサラリーマンだ。

 こんな得体の知れないものを拾ったら、今のところ予定通りに進行している平穏な人生が計画もろともめちゃくちゃになる。どこにあるのかもわからない研究機関のために生きたまま捕獲してやる義務はない。朝になれば人通りも増えるだろう。

 通りがかった誰かが、河童の死体を見つけて警察に通報するなりなんなりすればいいのだ。


 私は見なかった振りをし、通り過ぎようとした。このままいけば河童をまたぐか飛び越すかしなければならない。


 河童は濁った黒い瞳で私を見た。今にも死にそうな様子の癖に、その目の奥には光があった。


 歩き始めると同時に、かすかに高い音がした。風の音や鳥の囀りと同様に、それは声というよりも音の連なりだったが、あえて日本語で表記するとすれば、「きゅい」という響きだっただろうか。


 驚いたことに、視界の隅で今にも死にそうだった河童がひょいと起き上がった。再び「きゅい」と鳴く。どうやら河童は私に向かって訴えているようだった。助けてくれ、と。冗談ではない。係わり合いになりたくない。私は足を早めた。


 河童はしばらく必死で付いてきていたようだが、やはり弱っていたらしく弁当屋に辿り着く頃には姿が見えなくなっていた。

 

 若いアルバイトの学生にからあげを注文し、待ちながら何度か入り口を振り返ったが、やはり河童はいなかった。多分あれは最後の力を振り絞ったものだったのだろう。


 安心しきっていた私は、学生時代から住んでいるアパートの階段にちょこんと座っている河童を見た瞬間、思わず回れ右をして実家に帰りそうになった。なぜここにいるのだ。


 河童は私の姿に気がついた瞬間、嬉しそうにまた「きゅ」と鳴いた。鳴かれても困る。しかしいつまでもそこに立っているわけにはいかない。


 私は思い切って河童を無視してその脇を通り過ぎた。警戒していたが、河童は私の足を掴んだりはしなかった。階段の一番上で振り返ると、河童はこっちに向かって階段を上がりかけていた。


「ついてくるな」

 私がそう言うと、河童はなにかを感じ取ったのか片足を上げた姿勢のまま固まった。


 私は早足で部屋に戻り、素早く鍵とチェーンをかけた。しばらくすると、ドアの外からまた、風に紛れるほど小さな河童の声がした。私がなにをしたというのだろう。なぜあれは私についてくるのだろうか。


死にかけの河童なんて私の人生には不要だ。


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