後編
第三章
少し、思い出話をしようと思う。
理由なんてないけれど、何となく、感傷的になることが誰にでもあるんじゃないかな。
例えば自分のまわりの環境が変わって、昔のことが恋しくなったりとかね。過ぎたことにしがみついているみたいでかっこ悪いけど。でもそれ自体は、決して悪いことではないのだと思う。
誰だって、これまでの上にこれからがあるんだもん。たまには振り返ってみてもいいじゃない。
私は小学校四年生の時、転入した学校のクラスメートという形で春風夢理に出会った。
実は、不思議だけれど私にはこの時期より前の記憶がほとんどない。親に聞いても、「いい子だったわよ」とかそんな曖昧な話しか聞けなくて、だから私の『これまで』にはぽっかり穴が空いていたりする。不便なことはないけどね。たまにわけもなく不安になるくらい。
そして、確かな記憶をたどるとそこには必ず夢理がいたりするのだ。それがどういう意味なのかなんて考えたこともなかったけれど、もしかしたら雪ちゃんが言うように、私は随分と前から、夢理のことが気になっていたのかもしれない。なんだか悔しいよね。
『お前、なんでここにいるんだ?』
これが、夢理とあって最初にかけられた言葉だったように思う。赤いワンピースを着て頭を二つに括ったあの頃の素直な私は、歓迎されてないのかと思って泣きそうになっていた。でも、夢理の中ではそういうことではなかったらしくて、慌てて私を笑わせようといろんな話をしてくれたのをよく覚えている。
興味のある話でもないのに、よく覚えているのはやっぱり嬉しかったってことなのかな。
『お前、お守りって持ってるか?』
『オマエじゃないよ。ひよりだよ……』
『じゃあ、ひより。お守りってこんなやつ』
『ううん、持ってない。その小さい袋に何か入ってるの? 見せて見せて』
『ダメ、これは開けちゃいけないんだぞ。開けると逃げちゃうからな』
『逃げちゃうの? 何が?』
『わかんない。本当はわかるはずだったんだけどな。ばあちゃんが言ってたんだ。「この中には不思議な力の源になるものが入っていてお前を守ってくれる。でも開けると効果がなくなってしまうから絶対に開けちゃダメだ」ってさ。きっとちっこい妖精か何かが入ってるんだと思うんだ。トンボみたいな羽のキラキラしたやつ。だから今日暗くなったら誰もいないところで中を見てやろうと思ってた。こういうのってわくわくするだろ?』
『うん。でも、開けたら守ってもらえないよ』
『守られなくてもよかったんだよ。俺は強いからな。でもやめた。これには泣き虫なお前を守ってもらうことにする。だから開けない』
『オマエじゃないよ。ひよりだよ。……それじゃあ、くれるの? お守り』
『あげないよ』
『くれないの?』
『あげない。これは俺が持ってて、泣きそうな日和を俺がこいつで守るんだ』
え、なんか思い出美化されてない?
九月十一日 十二時十五分
あれから、
私が夢理を連れて文月さんのところへ行ったあの日から一週間がたった。
七日。
百六十八時間。
一万八十分。
六十万四千八百秒。
どんな風に置き換えてもそれが長いのか短いのかなんてわからないけれど。
それでも、一週間。
いや、まだ後日談とかじゃないんだけどね。
キーンコーンカーンコーン。
「お、もうチャイムか。じゃあ、次の問題からは宿題にするからちゃんとやってくるように。やってこなかった人間がいたら、卒業式に配られる紅白饅頭はみーんな先生のものだ」
……そんなバカな。
大勢の生徒からひんしゅくを買い、大ブーイングを受けながら科学の保科先生は教室をにこにこ顔で出てゆく。あの人は本気で楽しんでいるんだろうなぁ。生徒からの評判も、実のところそんなに悪くない。ま、あの程度の冗談なら思春期真っただ中のこーこーせいにも通用するということなのだろう。
ということで本日の三限しゅーりょー。世はお昼休みに突入なのです。
「ひー、よー、りーん!」
「ん、ゆきちゃ……」
「のわわわ」授業の終わりとほぼ同時に私の席に駆け寄ってきた雪ちゃんが、すでに人の立ち去った隣の椅子につまずく。言葉にするならドンガラガッシャーンかな、そんな音をたてて盛大に周りのものを巻き込みながら倒れた。近くにいた人間が私だけだったのが救いだったかもしれない。
「もー、周りが見えてないぞ、この幸せ絶頂不良娘がー」
高校生活における一週間は、同じサイクルの平凡な日々の連続。のようで、実は大きく変わっていたりする。
「わかる? そっかー、わかっちゃうかー。ごめんね!」
起き上がりながら謝罪の言葉を口にしている雪ちゃんの顔は満面の笑みだ。表情筋を制御できていない、造語で表すなら『こぼれきった笑み』とでも言えばいいのかな。打った額は真っ赤だけれど、転んだことなんてちっとも堪えてないみたい。
「えへへへ」
「えーい、うざったい!」もちろん本気ではないけれど。私自身も、本当はすごく嬉しいしね。
あれから一週間。
雪ちゃんは、生徒会長さんとカップルになっていた。
恋人同士。
相思相愛。
恋愛関係。
口に出すと照れてしまうような言葉で二人は繋がりましたとさ。よかったよかった。
「でねでね、こうくんが言うの、『奇跡だよ。キミと出会えたことがじゃない。キミの瞳に僕が映ったことがだよ』だって。きゃー」
あー、そういえばそういう大仰な話し方をする人だったっけ。というか単に気障なだけでは? しかもよく考えるといっている意味がよくわからない。ま、雪ちゃんが幸せそうだからそれでいいんだけどね。
「でもね……」
今まで笑みを全く崩さずにのろけ続けていた雪ちゃんの顔が突然曇る。
「ど、どうしたの?」
「もしかして、私達もう倦怠期なのかな。彼に送ったメール、返信が来ないの」
「え、そんな、いつから?」
「二限目の終わり」マダニジカンモタッテイマセンヨ、コラ。
「雪ちゃん、今ものすごーく幸せでしょ?」
「うん、えへへ」即答ですか。
訂正。雪ちゃんは幸せなのでもうどうでもいいです。べー、だ。
にゃおーとか言いながら机に伸びている親友さんは放っておいて、今朝購買で買ったパンを取り出す。んー、別に今日は品薄なわけじゃなかったんだけどね。
「あー、チャレンジ商品。ひよりんってば、いつの間に勇者になっちゃったのですか」
「え、これ食べたら世界救えちゃうの?」
「というか、そのパンで世界が滅ぼせる……」どんなパンだ。
そんなに警戒するほどのものだろうか。最近ちょくちょく手を出して慣れてきてしまった私には雪ちゃんのこの反応はちょっと新鮮かもしれない。
「意外といけるんだよ。一つ食べ「いやいいよ」早いからね! 私まだ言い終えてなかったからね!」
もー、どんなにおいしくても雪ちゃんには絶対あげないと心に決めました。ふんだ。
ちなみに今日のメニューは、おろしポン酢ピザトースト、ベーコンレタスプリンサンド、フレンチ風アボカドまんデミグラスソース和え。きっと、おいしいはず。……自信、なくなってきたけど。
「最近、夢理君見ないねー。さびしーよー」
雪ちゃんが唐突に、そんなことを言う。
はむ、「寂しくはないでしょ」はむはむ、「今までだって、ずっと教室になんて来なかったじゃない。授業も出ないで、探すのはいっつも私の仕事」
迷惑な話ですよ。迷惑な話ですともさ。
「それでもここまでじゃなかったよぅ。ま、ひよりんは密会してるみたいだからあんまり変わらないかもしれないけどね」ごっふぉふぉ。危うく人生で初めてベーコンとプリンを同時に吐き出すところだった。
「密会ってことないでしょ!」
「にゃはは」「ゆーきーちゃん!」しかも笑い方が人魂と一緒。
ふー、と息を吐いて呼吸を整える。いや、私も動揺しすぎだとは思うけどね。
一週間前から、春風夢理の姿はもはや教室では見当たらない。
朝のホームルームから、放課後まで。確かに三回に一度くらいは国語の授業を受けていたこれまでとは違うかな。
当たり前といえば当たり前なんだけどね。
昔、夢理にきいてみたことがある。
『夢理って、授業に出ないのに何でわざわざ高校生やってるの?』
『変か?』
『変でしょ』
『へへへ』
喜ぶところじゃない。
『高校生ってさ、何か始まりそうな感じがしないか? 確信とかじゃないんだけど漠然とさ。きっと何かが始まるんだよ。それは十六歳とか十七歳とかって年齢の話じゃなくて、高校生。中学生でも大学生でもなく、高校生。……だからかな』つまり学生なめてるんですねわかりました。
『で、何かってなによ』
『物語。なんかこうすっげーわくわくするような感じのやつな』
抽象的な言葉ばかりを羅列されて、あの時私は夢理がなにを言いたいのかわからなかった。今ならわかるってそういうわけでもないけれど。
つまり夢理は、この学校でずっと『特筆すべき物語の時間』とやらを待っていたのだと思う。そのためだけに学校に来て、友達もつくろうとせず、授業にも出ないで噴水に座って本を読んでいましたと。
最低条件だけクリアして、必要のないことには関わらずに。
バカだと思う。
夢見がちな中学生乙女よりもたちの悪いロマンチスト。
少しの根拠もないことを平気で信じられる危ないドリーマー。
けれど夢理は結局、その夢を叶えた。
文月さんと、出会った。
だから夢理はもう、この教室に来ることはないのだと思う。その必要すらも、なくなったのだから。夢理にとってここは目的ではないのだから。
本来なら、誰にとってもそうあるべきなのかもしれないけどね。進学校であるこの学校は大学への通過点と捉えるべきなのかもしれないし、そしてその大学ですらも自身の将来の夢に向かう一過程でしかないのかもしれない。
けれど、そんなのってつまらない。少なくとも私にとって雪ちゃんとこうしてお昼を食べている『今』は夢よりも大切なもので、失いたくない幸せなのだから。
『今』と『未来』を天秤に掛けた時、私の場合はどちらに傾くんだろうね。
「大人になんて、なりたくないなー」と高校生の神楽日和はおもっていますよー。聞こえていますか? 未来の私。
「へー、ひよりんでもそんなこと考えるんだ」
「考えるよ。私だって年相応の女の子だもん」
「恋する乙女だもんね」
ちょっぷ!「いたっ!」
おっと、手が勝手に。もー何とかしなきゃねこの体質。
「ウソだー、今のは絶対に故意だったって」
「え、恋?」
「わー、ひよりんにあからさまにとぼけられた! 訂正しますひよりんは故意する乙女だー」
「雪ちゃん、言ってることがめちゃくちゃだよ。話題が泳ぎ始めてる」
「泳ぐ? 鯉?」なにこの濃い会話。
はむ、雪ちゃんとのおしゃべりは楽しいけれど、はむはむ、食事が進まないんだよね。けれどこれはちょっと、いや、ちょっとどころじゃない驚きかもしれない。まさかおろしポン酢とピザがこんなに合うなんて。
「あれ、そういえば雪ちゃんお昼ごはんは?」
私はもう半分ほど食べ終わっているのに、雪ちゃんは未だ机になにもだしていない。いつも通りなら、やっぱり雪ちゃんも購買のパンだと思うけれど。チャレンジ商品ではないにしてもね。
「ふ、ふ、ふ、」その不敵な、もとい素敵な笑みはなんなのでしょうか。
「よくぞ聞いてくれました。っじゃじゃじゃーん!」
楽しそうに雪ちゃんが自身のバッグからそれを取り出す。
もしかして聞いて欲しくて、聞かれるまで出さないつもりだったのだろうか。それだと……もし、聞かれなかったら?
それはともかくとしてこの物体……うーん、説明した方がいいのかな。
艶のある漆塗りの黒。そこに丁寧に描かれた金の雄鶏。二十センチ四方はある平たい直方体が二段の……これは所謂、
重箱。
「あのねあのね。あのねのね。こうくんが作ってくれたの。お弁当」……の粋ですかこれは?
白ごはんにだし巻き卵、きんぴら、塩ジャケ、ほうれんそうのおひたし、ミニトマト。他にも私の知識じゃ名前がつけられないようなおかずがずらりと並んでいる。しかもまだ一段目。
「そんなに、食べきれるの?」
「大丈夫だよ。時間はできる限りのーんびり使わないとね」
いやいや、量の話だったんだけど。
「私がこうくんの作ってくれたものを残したりするはずないでしょ」
「今さらだけど、普通逆だよね! 私は、『今日、こうくんのためにお弁当作ったのー』っていう女の子らしい雪ちゃんを想像していたよ」
「その考え方はひよりん、古いのですよ。今どき女の子らしさ、男の子らしさなんて論じるひつよーないのです」
古い、か。そうかもしれないけど。いつか、夢理も言っていた。らしさなんて、自分らしさだけで十分だって。
それでも、ガツガツという擬音そのままに重箱をむさぼ……いや、喰らいつ……じゃなくて、召し上がる? (混乱)かわいい女の子って不思議な光景。
でもなんだろう。
今の雪ちゃんをみてると、好きなんだなぁって真っ直ぐ伝わってくる。今までの雪ちゃんだったら考えられない――ということもないけど――この行動は、愛情表現とやらの一つに含まれてしまうのかな。
やっぱり女の子って恋をすると変わってしまうものなのでしょうか。私も? 私も変わった?
変わりたいとは、思わない。なんだかんだいって私は、『今』の私は、『今』の私の事が好きだから。でも、
「あうう、おなかの許容量が……」
「当たり前でしょ。手伝おうか?」
「こういうのはきっと妥協しちゃだめなのです。うぅ……が、がんばるもんね」
今の、変わった後の『今』の幸せそうな雪ちゃんを見ているとそれもいいのかなって思っちゃうよね。
あいつは今頃、なにしてんだろ。今日も雨だから、またイルカにでものってるのかな。
はむ、うん、やっぱりデミグラスソースはイマイチ。
「そういえば、ひよりん。さっきの時間なにしてたの? 科学の時間なのにあの、えっと……パルメザン? してたよね」ちーず、はしてませんが。
なにをどう違えたらそうなるのかよくわからないけれど、多分、手算の事だ。神楽式高次手算。文月さんから刺激を受けたのは、夢理だけじゃないからね。けど、それをどこまで雪ちゃんに説明したらいいんだろう。一連の不思議な体験を、私はまだ話していないのです。
「んと、あのね……」
リンリロリンリロリンリン――言葉を探しあぐねていた私を助けるように、携帯電話が鳴った。さっきまで授業中だったからマナーモードにしているので、実際には音の流れていないバイブレーションだけなわけだけど、そこは使いなれた携帯、振動だけで脳内再生できてしまう。
これは、昔大好きだった小さな女の子たちが魔女見習いになるアニメのオープニングだ。ってことはEメールじゃなくて着信? 珍しい。
ポケットの中からそれを取り出す。知らない番号。だれでしょう?
雪ちゃんに、一言断って電話に出る。にやにやしているけど、なにを勘違いしているんだろうね。
「もしもし、どなたですか?」急いで出てきた廊下は少し肌寒い。
「ひよりん、私のこと忘れちゃったの? そんな。ずっとずっと友達でいようねって言ったのに。一緒に駆けまわったあの草原も、あんなに熱く語り合ったあの日々も、全部、全て、みんな、ことごとく、欠片も残さず忘れてしまったというの? でもね、私のな「えいっ」ピッ、ツ―ツ―ツ―。
さてと、次の授業は数学だっけ。因数分解の早解き五〇問の小テストがあるから早めに準備しなくちゃね。
リンリロリンリロリンリン――と、教室に戻ろうとしたところでもう一度着信がある。同じ番号。これ、でなくちゃいけないのかな。
「なんですか、宇佐木先生」
「冷めてるなー、神楽。担任の先生から直々にお電話があったら多少はウキウキするもんだろ。それともあれか? なにか叱られるような、やましーい事が心の中にあって出たくなかったパターンか? 大抵の事なら笑って聞き流してあげるから話してみなって。先生は自分のクラスの女の子が大好きなんだ」
「そのセリフ、先生が男性だったら確実にPTA会議ものですよ」
「そんなことにはならないね。クラスの女の子はみんな私の事が好きだからさ」どこからくるんでしょうね、その自信は。まるで誰かさんみたい。
「現に神楽も私の事、好きだろ?」
「いいえ」
「嘘つき」
天の邪鬼なだけですよ。
「それで、なんのようですか?」電話越しに問いかけながら、廊下のガラス越しに教室の時計を覗く。いつもどおりなら、うーん、テストは受けられないかな。でも、普段ならば放送で呼び出すところを電話で連絡してきた事を考えると別の急用なのかもしれない。
「わるいんだけどさー。春風夢理、探してきてくれない?」なにも変わらない。いつもどおりだった。
「あ、今なんで電話だったんだろうって考えてるだろ? いやね、本当は放送って大変なのよ。二つ隣の第三放送室まで行かなきゃできないからさ。で、今日掃除したら見つけちゃったんだよね。いやー、ラッキー」
…………携帯電話を?
そういうことだからよろしく、という言葉を残して通話が切れる。うーん、見てみたいかも。綺麗になった(かもしれない)家庭科準備室。今までを知っているから、ちょっと想像しがたいものがあるよね。
「さて、いきますか。本当に迷惑な話だけれど」そう思うのはやっぱり私が天の邪鬼だからで。最近の私は、それを自覚しすぎているのかもしれないね。
「ゆきちゃ……」「いってらっしゃい」「宇佐木先生からだって知ってたの?」「知らないよ。知るわけないじゃん」「じゃあ」「だって、ひよりん嬉しそうだもの」だそうですから。
私が帰ってきた時にはあの重箱は空になっているのかな、なんてことを考えながら私は授業開始直前の教室を出た。
十三時十五分 四限目
『春風夢理の携帯電話にはアドレスと電話番号が一件ずつしか登録されていない』という話は、この学校では割とポピュラーな噂だったりする。
すなわち『神楽日和のアドレスと電話番号だけ』。
春風夢理が他の人間と電話、或いはメールをしている姿を見たことがない、更にいえば想像もできないというのがその理由らしい。
まあ、もっともだとは思うんだけどね。社交性? 社会性? 協調性かな? 難しい言葉はよくわからないけれど、いうなれば仲間意識のようなものが極端に希薄である夢理を知っていればそんな噂になってしまうのも仕方がないと、当事者の私ですら考える。
けれど、この噂が真実でないということを知っている人はどれだけいるのかな。
そんなことを考えながら螺旋階段を下る。毎回思うことだけれど、これだけ大きな校舎なのだからエスカレーターかエレベータの一つや二つ作ってもいいんじゃないでしょうか。
ご立派に噴水なんかはあるのにね。そのあたりこの学校の方針はよくわからない。
いいんだけどさ。きっと、わからなくても。
「ん?」
ポケットの中で、携帯電話が揺れている。まさかまた宇佐木先生かと思ったけれど、表示されている名前は……タイミングがいいというかなんというか。どうせ出ないと思ったからこちらからは掛けなかったんだけどね。
二階から一階に繋がる階段の踊り場で立ち止まって電話に出る。近くの教室は今は授業中ではないみたい。
ピッ。
そうそう。
『春風夢理の携帯電話にはアドレスと電話番号が一件ずつしか登録されていない』という噂は間違い。
なぜなら、『春風夢理の携帯電話にはアドレスも電話番号も一件も登録されていない』のだから。
「もしもし、えーと、日和?」
「そっちから電話掛けておいて疑問形って。まーた、間違い電話消すの忘れたでしょ。そろそろ着信履歴から掛けるのやめて登録したら?」
「いいんだよ、これはポリシーだからな。それに基本的にはお前からしか来ないんだからさ」
「それでいいの?」
「いーだろ」……いや、にやけてないって。
「で、日和今どこにいる? お前探して久しぶりに教室に行ったら、数学のなんとかってセンセーに『テスト中なんだからもっと静かに騒げこのばかもん』ってつっぱねられたぞ。あいつ、自分の言ってること理解してるのかな」
「静かに騒ぐってすごい表現。チャップリンみたいな感じ?」
「サイレントの喜劇王をバカにするな」
「してないってば」そういえば、しっかり観たことはなかったかもしれないけれどね。
なんとなく、本当になんとなく、近くのガラス窓に近づく。左手で霜を適当に拭き取ると、その向こうは連日と変わらない雨だった。昼間からほんのり薄暗い空に気付いて、今さらながらに心細さを感じる。
「螺旋階段」
「ん?」
「あんたが聞いたんでしょ、私の居場所。下から数えて最初の踊り場」
「ああ、わかった。じゃあ、そうだなひとつ上がって二階の第二図書室まで来てくれ」
「なんで私があんたの方に行かなくちゃいけないんでしょうか」ほんとに、誰のために授業中の廊下を歩きまわってんだか。
「ばーか、俺はまだ教室前だって。そこにいたら寒いだろ」
「あ、いや……う、うん」いつの間にそんな気遣いできるようになったんだろう。成長してる? 私が意識しすぎてるだけなのかな。
「見せたいものがあるんだ。もっかい言うぞ、見せたいものがあるんだ。すぐにそっちに向かうから、期待しとけよ。ワクワクしとけ。じゃな」高揚した夢理の声の残響をピッ、と無機質な電子音がかき消して通話が切れる。
えーと、なにか間違ったかもしれない。私が宇佐木先生から頼まれたのは、春風夢理を探すこと。ひいては夢理を授業に出させることだったはずだ。電話が通じたのなら、それを伝えればよかったはずなのに。
「ま、そもそも先生に突っぱねられたみたいだしね」この分なら、私が連れて行っても授業には出られなかったかもしれない。猪宮先生、夢理の事嫌いだからな。夢理が数学を嫌いなのとどっこいどっこいだと思うけど。
はぁ、とため息を一つついてゆっくりと階段をのぼる。
寂しいと思った。
きっとそれは、雪ちゃんが感じていたものとは質の違う別のもの。あんまり会えないーとか、そういうのじゃなくて。
誰がみても誰が聞いたとしても当り前のように、それは自業自得なのかもしれない。全ての人に平等にある権利を、チャンスを蹴ってきたあいつの、自然な帰結なのかもしれない。けれど、夢理の居場所がどんどん少なくなっていくことを私は初めて寂しいと思った。
現実と真実。
見えていた虚構と本来あるべき姿。
夢理は、その壁を隔てた向こう側の存在になってしまうのかな。夢理はそれを望んでる?
心配とは違うよね、きっと怖いんだ。夢理が手の届かないどこかにいってしまうような気がして。
…………そうなったとき、夢理は私を連れて行ってくれるのかな。
「夢理の物語の先に私はいる?」
言葉になった不安にはもちろん返事なんてなくて、宙に浮いた言葉は近づいた第二図書室の喧騒に飲み込まれていく。どこかのクラスが授業中みたい。貸切状態では、『図書室の中ではお静かに!』の張り紙もまるで効果がないようだった。
だから当然だけれど、図書室の中には入れない。ま、夢理が人に気を回すなんて本来ありえないといっても過言ではないレベルの話なのだ。これぐらいのオチは想定の範囲内だよね。
夢理は私なんていなくても、生きていけるのだろうから。きっと本さえあればそれだけで、たとえ誰がいなくても気になど留めないのだから。
私はただのおせっかい焼きなんだろうね。
はぁ、と今度は自然にため息がこぼれた。
「らしくねぇぞ、ため息なんて」
「ほんと、なんでこんなことで私が……って誰のせいじゃー!」いつの間にか後ろに立っていた夢理に裏平手でつっこみを入れる。ほんとにことごとくタイミングの悪いやつ。
「いや、俺のせいなのか?」「当たり前でしょ」「当たり前なのか?」
はい、理不尽ですが何か?
「まぁ、それはいいや」わ、軽く流された。「見っせたいものがあるんだ!」
『んだ』の部分を必要以上に強調して、夢理はいままでと表情を一変させる。まるで好奇心旺盛な子供が今まで大人ぶっていたみたい。……例えようとしたんだけど、これじゃそのままかもしれない。子供だし。
子供だけど……ううん、いいよね。その先はまだ、雪ちゃんの前だけで。
だって私は、天の邪鬼なのだから。
「いいか」と夢理が言ったところで、脇の図書室の中がわっと盛り上がった。男子のばか笑いと女子の逃げるようなけれど楽しそうな悲鳴が聞こえる。うーん、授業中になにしてるんだろうね。
「ここはうるさいな。歩きながら話すか。これはちょっと集中力がいるんだ」
「あんたは周りがどんなにうるさくてもなんにも気にせず小難しい本を読んでられるじゃない」
こと好きなことに関しての集中力なら夢理以上の人間を私は知らない。呼びかけても気づかないくらいだもんね。
「ばーか。集中力がいるのはお前だよ」ああ、そういうことか。……どういうこと?
言われていることがよくわからないまま、夢理について歩き出す。今まで歩いてきた方向とは逆の道だ。特別棟二階。図書室より奥のこの先はあまり行ったことがないんだよね。
当たり前だけれど上履き越しに触れるリノリウムの床は硬質で、感じるはずのない冷たさが心細さを助長しているみたいだった。それは夢理が横にいても変わらない。
「それで、見せたいものって?」
「その前に、考えてほしいことがあるんだ」夢理は話しながらなにかを探るように右手を背中に担いだバッグに入れた。手が止まる。けれど出さない。そのまま、何かをたくらんだような顔でこちらを向く。
「消しゴムってなんだと思う?」なにその質問。
「消しゴムっていったらあれでしょ。その、四角くて、ぶよぶよしてて、人に貸した時に使ってなかった角を使われると無性にくやしいやつ」どんなに仲のいい子でもイラってするよね。
「なんか極端に私的感情の混じったイメージだけど、まぁいいか。ん、じゃあ消しゴムってなにをするためのものだ?」
「文字を消すためでしょ。鉛筆とかシャーペンとかのね。最近では消しゴムで消せるボールペンもあるみたいだけど」
「それは正しいと思うか?」
「いいじゃない。ボールペン使ってても、うっかり間違えちゃうことぐらいあるでしょ」
「そうじゃない。なにをするためのものかって方だって」ああ、そういうこと。
「違うの?」当たり前だと思っていることを聞かれると、自信はあるのに不安になったりするよね。
「いいよ、それが正しいとする。『消しゴムは鉛筆で書かれた文字を消すためのもの』である。じゃあ、次の質問。文字を消すってどういうことだ?」
「どういうことって……」
そんなことは考えたことがない。文字を消すとはどういうことなのか。私の苦手な思考分野で、夢理の大好きな話なのは間違いないよね。つまり唯一の答えが存在しない、哲学的な設問。生活に即しているのに宙に浮いた問いかけ。
慣れないことを考えていたせいで、横を歩いていたはずの夢理に二歩ほど遅れていた。なーに考えてるのかなこいつは。無言で背中に聞いても返事はないけどね。
「消すってことは、失くすってことじゃない? そこにあったものを失くす。書かれていた文字をなかったことにすること。存在を……」
言葉の途中で夢理が割り込む。
「消しゴムでこすると文字の存在が消えるか?」
「えっと」頭が混乱しているのが自分でもわかる。私の言ってること間違ってる?
「当たり前のことだけ考えろ。今生活している現実の範疇で考えていい。今のお前は、俺が何かを企んでると思ってるだろ。それに振り回されてるんだよ。深読みするからわからなくなるんだ。質問は簡単だぜ。文字を消すとはどういうことなのか」
夢理の言葉を素直に受け取ってみる。単純に簡単にオーソドックスに質問に答えてみる。
「文字を消すってことは……文字の存在をなくすこと。だってそうでしょ。文字は形に意味があるんだもの。形を失えば誰もそれを読めない。それは文字にとって存在を失うのと同じことだと思う」一呼吸置く。「これが私の答え」
消しゴム一つになんて会話をしてるんだろうね。
「じゃあそれが前提だ」
そう言って、夢理は右手をバッグから取り出す。握っているのは話題になっている消しゴム、ちなみにカバーが青と白と黒の一般的なタイプのものだ。それから、ノートと鉛筆?
夢理が急に立ち止まって、反応が遅れた私が今度は二歩進んだ。振り返って、向き合う形になる。
「試してみようぜ」そう言って夢理はおもむろにノートを開いた。普通の大学ノートだよね。七ミリ幅で罫線の入った、それ以外は何も書かれていない白い紙の束。
夢理自身もそれをほのめかすような事を言っていたけれど、なにか企んでいるのはわかっている。手つきが昔トランプのマジックを見せてくれた時と同じだからだ。事務的な動作とは違う魅せる所作。
あの一見なにもなさそうなノートになにか仕掛けがあるのかな。
余談だけれど、夢理はマジックの時にもトランプに仕掛けがあるかどうか事前に確認させてはくれなかった。『どんな馬鹿でも確認してわかるようなタネをしかけてたら確認なんかさせないだろ。確認してもわからないからカードを渡すわけだ。見てもわからないのが明白なんだから確認する必要なんてない。わかるだろ、普通のトランプだ』だそうだ。それはマジックを見る側の人間が決めることだと思うんだけどね。そんなことを言ってしまったら、マジックというエンターテイメント自体が破綻してしまうのだから。
夢理はノートを左手で抱えるようにもって、残りの手でペンを構えている。んー、これはおかしな表現かも。両方に役割があるのだから残りの手なんてないのか。
「なんて文字がいいかな……ああ、そうだ」
夢理は一瞬考えてさらさらと文字を綴っていく。悔しいけれど、夢理は意外と達筆なんだよね。程良く形を崩してあるけれど、読める。でも……ねぇ。
「もう少しかっこいい言葉はなかったの?」
「文学少年はメタ的なことが大好きなんだよ。ちょっとワクワクするだろ?」
ノートには細い鉛筆の筆跡で『消しゴムで文字の存在は消えるのか』と書かれている。文系人間の考える遊び心っていうのは私には理解できないな。
「いいか、消すぞ」
夢理がゆっくりと、文字を消しゴムでこすっていく。消しゴムは新品だ。さっきまでビニールに包まれていていたのではないかと思うほど、真っ白で使用感のない 直方体。その角がノートに押しつけられぐにゃりと歪む。前に後に動かされる中でただただ白かったそれは文字を形作っていた炭素を纏い徐々に黒い部分を見せ始める。
ノートに書かれていた、文字が消える。意味を無くす。存在を失う。間違っていないはずだよね。
夢理が手を止める。
「文字は形を失ったよな。存在を失った。これが現実だ、日和の言っていたことは間違いじゃない」
「なにそれ、じゃあなんで……」今までの話は全部無駄だったってこと?
「なぁ、これ何だと思う?」夢理はノートの上に散らばったチリのようなそれを指して言う。
「これって、消しかすでしょ」
「そ、消しかす。文字を消して残るもの。まぁかすだよな。じゃあさ……」そう言いながら、夢理はノートの上のかすを集めて摘まみあげる。摘まみきれなかったものはまたノートに落ちて……
「例えば、こいつが文字の形を記憶していたとしたら……だ。どうなると思う?」
頭に電撃が走ったような気がした。
考える。消しかすが文字の形を記憶していたならば。
考える。消しゴムで消すという動作が存在を消すとは別の意味をもつ事柄になる。
考える。文字は一時的に情報を縮小化されているとしてだ。
考える。私達が読解可能な形を失っているだけなのだとしたら。
考える。考える。何が起こるのか。
考える。いや、違う。
考える。考えるべきことはそうであったらどうなるのかということではないはずだ。
考える。思考の想定範囲を自分の知っている常識の範囲から逸脱させる。
考える。どうしたらそのことが意味を成すのか。
考える。情報を保存しているのならまたそれを開示することができるのかもしれない。
考える。例えるならPC上で圧縮されたファイルを解凍プログラムで再表示するように。
考える。どうしたら圧縮された文字を復元できるのか。
考える。考える。復元をするには今ある現実には何が足りないのか。
考える。或いはなにが邪魔になるのか。
考える。考える。理想と現実との差異。
考える。考える。夢理の求める解答。
考える。考える。そこにたどり着くまでの道程。
考える。考える。至るまでの道筋。
考える。考える。導くための計算式。
考える。考える、考える考える考える考える……。
夢理が私に何をさせようとしているのかは、もう理解していた。
本来ならば夢理自身がおこなえばいいことだ。
私の発想力ではそれは生み出せないものだから。
けれど夢理にも足りないものがある。
だから役割を分けたんだ。
文学少年と数学少女に。
突飛な仮定と緻密な過程に。
パンクしそうな思考回路の代わりに、両手が動き出す。役割の違う左右の手に別々のものをインプットし、相互の干渉によって思考では追いつけなかった計算をこなしてゆく。
体が熱い。興奮しているのがわかった。答えに近づいている。導いたことのない種類の答えに、触れられるところまで来ている。
けれど、どうしよう。こんなもの、言葉で表現できる範疇を超えている。
「日和はそれを、正確に精密にイメージするだけでいい。かつて、ウィトゲンシュタインは著書の中で『言語の限界が思考の限界だ』と偉そうに語ったが、安心しろ。それはちっちゃい『現実』って世界の中での話だ。今、日和の頭のなかにある答えはその世界の外側に必ずある。だから確信しろ、そして表すんだ」
夢理は持ち上げていた消しかすをノートの上にのせた。
『それ』は確実に覚えている。自分たちが消したものの形を。
そして、それを元に戻すための答えは、文字通り私の手の中に収まっている。
なにも言わなかった。そういう類のものではなかったから。
けれど、事象は始まる。動き出す。ゆっくりとけれど着実に、乱雑に纏められていた消しかすが列を作り、跡を残しながら移動していく。まるで消しゴムで消すという動作の逆回転をみているようだった。文字が形を成していく。
「すげーだろ?」夢理が楽しそうに言う。
「すごい。……不思議」文月さんに出会った時とは違う、別の種類の驚き。ただただ受動的だったあの時とは違う。
「不思議だけど、私理解してる。でもこれって、どういうこと?」
私の頭は、さっきまでとは別の事でぐちゃぐちゃになっていた。それは今起こったことが指す事実を受け入れられていないから。その事実が裏付ける事柄を心が拒否しているから。だってそんなのって……
「日和、」
けれど、続く夢理の言葉は私の質問に対する答えではなかった。
「……タマ?」
夢理の驚いたような視線に合わせて、振り向く。
今まで歩いてきた硬い、冷たい廊下の遠くの果てで、小さな球体が一つゆらゆらとその形をうつろわせながら、こちらへ近づいてきていた。
見覚えは間違いなくある。
「コロ……だよね」「タマだ」「でもちょっと様子が変じゃない?」なんだか弱っているみたいに見える。
雰囲気でしかわからないけれど。いつもならもっと元気に、それこそはしゃいだ子猫みたいに跳んで向かってきてくれるのに、今はまるで人が足をひきずっているように、不安定で壊れそうな動き方。
雰囲気の話をすれば、違和感はそれだけじゃないよね。
静かすぎる。
いくら離れたといっても、授業中の図書室がほんの二十メートルくらいの範囲にあるのに。それなのに、何も聞こえない。
先生が話しているのかな。それとも生徒全員が本を読み始めた? でも、そんなレベルの変化じゃないことは明白だった。
耳が痛くなるほど無音の静寂の中で、隣にいる夢理の呼吸の音だけが増幅されたように頭に響く。
まるで私たち以外の人間がいなくなったような――違う、もっとおおきな……ありのままに表現するなら、わたしたちが今までいた世界そのものが目に映る部分だけを残して、気配を消したみたいだった。
心なしか窓から入る光も小さくなってしまった気がする。
そういえば、外は雨だったはずだ。
「なに、これ?」
すがるように、問いかける。わけがわからなかった。
不思議なことは、たくさんと言っていいくらい経験した。今だって私には理解できないこともたくさんある。でも、こんなことは初めてだった。
これは、怖い。
なにかいけないことが起こってしまうような予感が、体を強張らせている。体感の温度が更に下がったように感じるのも、錯覚なのかどうか自分ではわからなかった。
夢理からの返事がない。
それは、多分夢理にもわからない事態が起こっているってことだよね。そして私と同じように警戒している。
本当は今すぐ逃げ出したいけれど、動けない。動き出せない。
「ねぇ、夢理……」声に出した瞬間、漂うようだった人魂が動きを止め、突然重力に掴まれてしまったかのように廊下の床に落下した。
「コロっ!」
「まて、日和! 今はだめだ」
飛び出そうとした私の腕を夢理が掴む。人差し指を口元に当て、動きをとめるように促す。
早くコロのところに行ってあげたいのに、どうして? でもその答えは、敏感になっていた鼓膜にすぐに届いた。
コツッ、
と音が聞こえた。
コツッ、
足音。
近くじゃないよね。静かな廊下に響く硬い靴音は、普段以上にその位置を正確に教えてくれる。
コツッ、
コロがいるこの廊下の先。その向こうは螺旋階段だ。
コツッ、
長方形に区切られた、廊下と踊り場の境にゆっくりと人影が現れる。あれはちゃんと人だよね? 雰囲気と状況だけなら、幽霊と言われてもきっと驚かない。いや、それはそれで驚くだろうけど。足音がするのだから、きっと足はある。
完全に踊り場に出て、人影はこちらを向いたようだった。
遠くてよくはわからないけれど、黒い学生服で長身。あとは、腕に何かつけているように見えた。……え?
「なに……それ……」
私の声がその人まで届いたのかもしれない。届かなかったかもしれないし、本当はそんなこと関係なかったのかもしれない。
人影が右腕を突き出して、
メギュオっと、廊下が歪んだ。
まるで空間そのものがひずみを起こしているように壁が内側に潜り込み、床が波を打ってこちらに向かってくる。
漫画かアニメの世界のように現実味がないけれど、硬いリノリウムに入ったひび割れや砕けた窓ガラスの散らばった破片が、それが実際に起きていることを無理やり認識させる。そしてそれらも、この歪みの波に呑まれていく。
爆発するような音が連続していた。軋みから完全な破壊に変わる瞬間の壮絶な痛みを伴う破砕音。
眼前の廊下すべてが襲ってきている。比喩にしたいけれど、きっとそうしたら間違いなんだよね。
「なに突っ立ってんだ、逃げるぞ」
夢理に腕を掴まれて、自分が呆然としていたことに気が付いた。わかってるよ、理解はしてる、でもどうしたらいいのかがわからない。計算している時間だってない。
「だって、コロが……」
「間に合わないだろ、ばか。俺たちのほうが危険だ。それに、」
途中から聞こえてなかった。
コロが、呑み込まれた。
そしてそれとは無関係に、波が、加速した。
「あ、」
「走れ、多分あれは、」
夢理に引かれて、駆け出す。この廊下は……どこに続いてるんだっけ。思い出せない。階段に差し掛かる。私たち、何階にいたんだったか、それもわからない。
ただ、前を走る夢理の姿がデジャビュのように懐かしく映っていた。もう一週間も経つんだっけ、あの時は、私が手を引いて……なんかこんなんばっかりだね。
不意に、つながっている左手に目がいく。痛いくらいに強く握って、まるで男の子みたいだ。失礼だけどね。
走りながら、呼吸を整える。振り返る勇気はないけれど、聞こえてくる音は波が背後に迫っていることを示していた。
「ごめん、夢理。やっと冷静になった。走りにくいから手、放して」
「え、あぁ、おう、たすかる」夢理は息も絶え絶えだ。ほんとに体力がないんだから。
夢理が一度放した手を、今度は私が握りこむ。
「え?」「あんた、遅すぎ!」「のわぁ、うおおおおおおおおおおお」
無理やり引っ張ったから、体制を崩したのかもしれない。後ろが見えた夢理から「もっと早っ」とか「あ、危」とか聞こえてくるけれど、もうすでに全速力だった。これ以上はどうしようもない。
夢理から主導権が移った瞬間から、どこに向かうかは決めていた。多分、夢理も同じだったのだと思う。あてずっぽうに進んでいたように見えたけれど、そこへ向かうための道はまだ波に呑まれていなかった。
下へ、走る。
もう馴染みのあの扉。
この異常事態の中でも、繋がらないとは一分も思わなかった。
ドアノブに触れる。冷たいと思う間もなく開ける。その先は光だ。
十三時五十七分
ザーっと、雨音が聞こえた。
なんとなく、それは漠然とした根拠の一つもない期待だったけれど、ここに来ればどうにかなる気がしていた。それは、半分は正解なんだと思う。
「扉」という境界を越えて、廊下の波が襲ってくることはなかった。当然だよね。さっきまでいたところとこのもはや見慣れた屋上とはあの扉を開いた一瞬しか繋がっていないのだから。扉を閉じたその瞬間から、『あちら』と『こちら』には距離ができる。
逃げ切れたら、それでよかった。だってそうでしょ。いきなりだったんだもの深く考える時間なんてなかった。ううん、きっとどんなに時間があったって、わたしなら同じことしかできなかったんだと思う。
一つの状況に複数の選択肢があるなら、ここに来たことは唯一と言ってもいいくらいの正解だった。
だから、こんなことは予想の外だったんだ。
「文……月……さん?」
夢理が、倒れている文月さんを抱える。一瞬遅れて私もすぐに寄り添った。もちろん傘なんてなくて制服がすぐに水浸しになったけれど、そんなことにかまっていられる状況じゃない。
文月さんの肩に触れた右手がずるっと滑った。黒い冬服を着ているから気づきにくいけど、赤黒い液体が大量にしみ込んでいる。
生温かくて、鉄臭い。
血。
夢理が叫ぶ。
「日和、まずは屋根のあるところに運ぶぞ。このまま体温が下がったらまずい、ような気がするんだ」
「なにそれ。怪我をしてて出血してて温度がどんどん低くなってるんだから、体温を下げちゃいけないのは当たり前でしょ。でも怪我をしてるなら、むやみに動かすのも危ないんじゃ……。ちょっと、夢理!」
私の声も聞かずに、夢理は文月さんの上体を持ち上げ、ひきずるように屋根の下まで連れて行く。言葉ではとめたけれど、医療や看護の知識のない私にはそれ以上の事は出来なかった。
「夢理、大丈夫なの? 文月さん」
「まだ何とも言えない。ただ、軽く調べた感じ外傷がないんだ。傷も怪我もない。けど体温はあるし、呼吸も脈もあるから、多分大丈夫だと思う」
「傷がないって、どういうこと? そんなはずないでしょ」
そんなはず、ないよね。だって、目の前にいる文月さんは、全身血だらけで……私の手だって。
「あるんだよ。現に今ここでそんなことが起きてるんだ。多分俺たちの知っている血液と、真実における血液では意味合いが違う。これは推測だけど、出血には受けたダメージの大きさだったりその個所だったりを表すマーキングくらいの意味しかないんだ」
壁に寄りかかる形で意識を失っている文月さんの長い黒髪の先から、黒いしずくが落ちる。私にはそれが、少しずつ削り落ちていく命の欠片のように見えて焦燥感が空回る。
「きっと、重要なのは体温の方なんだ。真実では熱がそのまま生命になる。人魂なんかはその最たるものだろ。だから体を温められれば……って、そうか人魂!」
夢理が立ちあがる。そのまま「コロ! ミケ! いるんだろ」と呼びかけると、端に設置された大型の貯水タンクの陰から人魂が一匹出てきた。一匹だけだ。当然だよね、本当のコロは私達の前で『波』に呑まれてしまったんだから。
「ニャハハ」こちらに近づきながらミケが嗤うと、大して多くもない物陰から魚やエイや、わけのわからない海の生き物たちが少しずつ出てくる。様子を窺うようにゆっくりと、まるでなにかに怯えているみたい。
ミケが文月さんに寄り添う。前にコロが夢理の服を乾かした時よりも、ずっとずっと優しい温もり。きっとこれがコロでもタマでも同じだったのだと思う。コロ……。それに、タマはどうしたのだろう。
「ねえ夢理、ここでなにがあったの? みんな怖がってる。怯えてるよ。それにさっきの廊下で襲ってきたものはなに? あれは、間違いなく夢理を狙ってたよね。どういうこと?」
夢理は考えるように顎に手を置いて、いつもの癖でつま先でリズムを刻み始めた。
「……全部は答えられないぞ」
「うん、わかってる」
一呼吸置いて夢理が話しだす。
「まず俺たちは、七不思議が全部真実に関する事柄だと自然に思いこんでいたんだ。『魚』から始まり『人魂』『幻想曲』それから『扉』。これらはすべて、おそらく七番目にあたる『真実』へ導くための地図みたいなものだったんだ。だから、七不思議の中に他の要素があるなんて思ってなかった」
他の要素。七不思議。私達がまだ遭ってなかったのは……
「そっか、『暴れ廊下』! あれは七不思議の一つだったんだ。でも他の要素っていうことは、さっき私達を襲ったあの『波』は真実とは関係ないってこと?」
「いや、きっと関係ないわけではない。ただ真実そのものでもないんだ。ここで倒れている魔女が俺たちを襲ったと思うか? 俺たちはこの世界の、大きな意味での世界の、まだ一つの面しか知らないんだよ。まだ読まなくちゃいけないことが山ほどある」
最後はいつもの調子で、夢理は言い放った。
世界は、物語。その言葉を思い返すたびに私は、世界に拒絶されているみたいな感覚になるんだよね。どこか私の性質が周りにある全てを反発しているような、そんな気にさせられる。
『物語喰らい』――世界を糧に生きている夢理とはやっぱり私はちがうのかなぁ。
文月さんを見る。ミケの看病(と言っていいのかな)のおかげか血色がよくなってきているように見えた。表情も柔らかい。
「ねぇ、どうして文月さんは襲われたのかな? どうして夢理は襲われたの? 文月さんは、夢理は何をしようとしているの?」
私にはわからないことばかりだった。誰も教えてくれないから。人のせいにするのは簡単で――でも理由はそれだけじゃないんだよね。
私があまりに無知で、無自覚で、無関心だったからなんだと思う。意識をして、見ないふりをしてたんだ。
私が文月さんと出会ったあの日から、夢理に七不思議の話をしたあの時から、私たちは大きな物語に巻き込まれてる。それはもう受け身のままでいられるほどやさしいものではなくて、私自身の目の前で起きていること。
ずっと他人事だったんだ。でも、もうこれは私の物語に、なりつつあるのかもしれない。
「それは……いや、先に俺から聞かせてくれ。タマを」「コロね」「廊下で見つけた後――あ.の『波』が襲ってくる直前、……俺はよく見えなかったんだ。見てなかったわけじゃない。違和感はあったし、なにかが近づいてくる気配もあった。だからずっと廊下の先をのぞいてたし、瞬きだってしなかった。でもな、最後までなにも見えなかったんだ」
「……え?」
思い出す、記憶を辿る。廊下の向こうからコロが近づいてきて――そう、足音が聞こえてきて、それから……。
「あの時――廊下が歪みだす一瞬前だ、日和『なにそれ』っていったよな」
言った。だって見えたから。廊下の向こうから確かに出てきた……
「日和、お前なにを見たんだ?」
そんな……、そんなはずない!
「夢理は、本当に見てないの? なにも、誰も? 螺旋階段を上ってきたじゃない。こちらを向いて、腕をあげてそしたら、廊下が……ぐにゃって……」歪んだ、その先は夢理にも見えていた。だから私の腕を引いて逃げた。
コロのことも夢理は見えていた。当前だよね。夢理が先に見つけたんだから。それに気づいて私が振りむいた。
「誰か、いたんだな?」夢理の口が私に向けて問いかける。夢理はあの人を知らなくてそれがどんな人物なのかを聞かれているなら答えようがある。でも違うんだ。
存在を認識していなかった。
夢理には見えていなかった。
私には見えて、夢理には見えない。
私が知っていて、夢理は知らない。
そんなこといくらでもあるように思える。
それが個人ということのように思われる。
どんなに近くても夢理は私じゃないのだから。
近づきたくても私は夢理になれないのだから。
でもそんな話の次元はとうに超えているんだよね。
認知すらできないほどの圧倒的な差が私達にある。
嫌な予感がして、それはなんの根拠も確証もないままにどんどん膨らんでいく。
信じたくなくて、否定するための何かを探すのに見つからない。見当たらない。
それなら、あの『波』はきっと夢理を狙っていたんじゃなくて――
「私、だったんだ」
だから私に近づいて、私の周りに近づいて。
「日和?」
「私、行かなきゃ。……行って、会って、それから全部聞かなくちゃいけない」
「なにか、わかったんだな。それなら俺もいくよ」
「ううん。夢理は文月さんについていてあげて。それにきっとこれは私が聞かなきゃいけないことなんだ。ほら、私達って分野があるでしょ。夢理には夢理の、私には私の。もしかしたら数字で会話することになるかも」
「…………」後半は、大ボラだったけれどそれはそれで効果があったようだった。夢理が口を閉じる。もしかしたら、なにかを察してくれているのかもしれないけどね。
好奇心だけでずかずか行動するくせに、繊細な部分では一歩引けるのが何気に夢理のすごいところかもしれない。そんな場面あまりないけれど。
「一つ聞かせて。夢理はこの扉を出たら、またあの『波』が襲ってくると思う?」
「ないだろ。そんなこと」即答される。「あれが俺の見た『現象』じゃなくて、日和の見た誰かの『意思』なら、少なくとも目的地まではなにもないはずだ。……その後は、どうなるかわからないけどな」
「ん、そっか」それで十分だった。それ以上の保証なんて、きっとどこにもないのだから。
横たわる文月さんから少し離れて、ミケが「ニャハハ」と笑う。ここだって、安全なわけじゃない。
「夢理、気をつけてね」「逆だろ、ふつーは」「あー、そうかも」「これもってけよ」「え、なにそれ?」「いーから、なんかあったらすぐ連絡しろよ」「あんた電話が来てもあたしかどうかわからないじゃない」「わかるよ、日和からしかこないからな」「もー」それでいいなら、まぁそれでもいいけどね。
今度はドアノブをその冷たさに気がつけるくらい握りこんで、それからゆっくり開けた。
光がなんだか眩しかった。
十四時三十二分
「『人魂』、『扉』、『空飛ぶ魚』、『幻想曲』、『暴れ廊下』、それから『真実』――どんなに数えても、一つ多いんだよね」つぶやく声が、無人の廊下に響く。
いつのまにか、私達が真実とは違う『なにか』に巻き込まれているうちに-、世間は今日最後の授業が始まっていた。今はむしろ終りに近い。私達のクラスの授業はなんだったかな? あぁ、そうだ体育だっけ。
歩きながら私は簡単な足し算をしていた。さっき夢理から渡された手帳にまとめられていた、簡単なはずの足し算。
雪ちゃんに話した四ケタまで暗算ができるというのは掛け算割り算に限った話で、加えて引き算なら十二ケタ、足し算なら十五ケタまでなら三秒以内に答えが出せる。そのはずなんだけど……。
屋上から『扉』を開いて廊下に出ても、夢理が言うように『波』が襲ってくることはなかった。結構緊張したんだけどね。だからひとまず職員室の方へ向かった。来客用玄関のすぐ前にある職員室前の壁には校舎全体の見取り図が設置されている。行くべきところはわかっていても、その位置を知らなかったんだよね。
長い時間生活しているこの学校という空間に私の知らないところがあるということ、もはやそれは私にとってなんの不思議でもなかった。きっと認識していなかったんだ。できなかったんだと思う。
夢理にあの人が見えなかったのと同じように。
私たちが七不思議とか真実とかっていうものに関わる前から、それらはずっと隣り合わせに存在していたことを改めて感じさせられるよね。感慨深いというかなんというか。
意識をして探せば、そこはすんなり見つかった。
五階特別棟の最奥。隣は週に二回は授業で通う音楽室だ。知らなかったはずのない知らない場所、そこへ向かって歩き出す。
「『人魂』、『扉』、『空飛ぶ魚』、『幻想曲』、『暴れ廊下』、で『真実』……六個」
あらためて数え直してみたけれど、やっぱり数は変わらない。同じ式なんだから当たり前だけどね。一たす一たす一たす一たす一たす一は六。唯一無二で六。
つまり私が出会った七不思議の数は六個で……まぁ、七不思議なんだから全部で七個でしょ。そうすると、数が合わないんだよね。夢理と私が調べた噂では、あと『窓ガラス』と『合わせ鏡』が残っている。
噂が全て実際の七不思議に関わっているとは限らないのかな。そもそも七つにこだわる必要だって、私にはよくわからないしね。
立ち止まる。
見慣れた音楽室は無音だった。授業をしていないみたい。覗くと、普段は賑やかなたくさんの楽器が今は静かに眠っている、なんていったら少しはメルヘンなのかな? 大きな音を立てたら楽器に「うるさい」なんて怒られて――わかっている。これはほんの少しの現実逃避。
本当は進みたくない。
でも進まなきゃいけない。
すぐ横にある準備室にも人の気配はなかった。
その、隣。
豪奢な文字で『生徒会室』と書かれた札付きの扉の、金属質で質素なドアノブに手を掛ける。
光なんてなかった。もちろんどこか遠くに繋がることもない。
「よく来たね」と人の気配よりも先に声がした。
だから私は、開いた扉をゆっくり閉めて、椅子に座るその人の姿が視界に入ってから答える。
「呼ばれたんだと思ってました。生徒会長さん」雪ちゃんなら迷わず『こうくん』って呼ぶんだろうけどね。「夢理風に言うなら、導かれていたんだと」
部屋の中は想像していたよりも広い。机やものが整頓されているせいでそう感じるのかもしれないけれど、それにしても広すぎるように思う。四十人が一度に授業を受けられる音楽室と同じ大きさの部屋に両手を広げた程度でしかない机、椅子が一つずつ。あとは隅に本棚が二つと金属製の棚が三つあるだけの簡素な空間。
片付いている、なんていえば聞こえがいいけれど、そんな感じじゃないんだよね。ここが生徒会室だということを踏まえなければ、きっと生活感がないという言葉がぴったりと当てはまるんだと思う。人がこの部屋の中にいた気配が、こうしてその部屋の中で人と向きあっていても感じられない。感じ取れない。
文月さんの空間を『異常』と表現するなら、この空間は『異様』って言ったらいいのかな。ただ立っているだけで胸のあたりが気持ち悪い。うあー。
「導くという言葉には、なにか大きなものの意思を感じないかい?」今在さんが口を開く。「崇高と言い換えてもいい。それは法であったり、論理であったり、先人であったり、色々だろうけどね。そういう意味では、君は確かに導かれたのかもしれないよ、神楽日和さん」
導いたのは僕ではないけどね、と軽口のように付け加えて今在さんは立ち上がった。本棚に近づき、形だけ本を探すようなしぐさをする。
「それで、なにから聞きたい?」
なにから、聞こうか……。聞きたいことがありすぎて、何を優先すべきなのかわからない。まだ混乱している、のかな。
「えと……、あなたは誰で、何者なんですか?」
「そう来たか。最初の質問としては悪くないけれど、いささか急ぎ足になってしまうね。勇み足ともいうかもしれない。現段階で答えるならばこうだ。僕は今在光、この学校の生徒会長をやっている。それ以上ではあるが、少なくともそれ以下じゃない」
「それは全部、私の知っていることです。だからここにたどり着けたんだから。それでは答えにならないはずですよね。大事な部分をあからさまに全部ぼかしてるじゃないですか」
「しょうがないことなんだよ。うん、何を知るべきなのかを正確につかむということは、単純なようで実は非常に難しいことなのかもしれない。いいだろう、たまには僕自身がだれかを導いても文句は言われないだろうからね。君が今本当に聞くべきことは僕が何者なのかということではないんだよ」今在さんが本を一冊抜き取る。「君は自分が何者なのかすらも正確にはわかっていないのだからね」
「私が何者なのか……どういうことですか?」私の知らない……私のこと?
「それはね……。あ、お茶でも出そうか?」「結構です」「いいダージリンの葉が入ったんだよ」「結構です」「ちょっと待っててくれるかい。すぐにお湯を沸かすよ」おい、こら。
今在さんは私の遠慮を気にも留めずに本を机に置いて、流れるような動きでその机の引き出しからティーポットを取り出した。
いやいや、明らかに引き出しの方がティーポットより小さいんだけどね。それに、なぜかガスコンロもその引き出しから出てきたように見える。そのまま火にかけてしまったけれど、中に水は入っているのかな。
「細かいことを気にしないのも、人生を楽しむコツだよ」
「この部屋の異様さに自覚はあるんですね」
「もちろんだよ。僕が一番、この空間に恐怖を抱いているのだから。この『理の狭間』の空間にね」
まぁ、僕自身も同じようなものなのだけど、と今在さんが笑う。自嘲交じりのなんだか寂しい笑い方。
「話をもどそう。まずは前提から、世界とは、」「……物語」「そう、物語だ。誰もが持っていて誰もがその中心にいる。それが『現実』の在り方。複数の世界が同時に存在し、ある時は重なり合いながら共存している。『現実』とは君たちが今まで暮らしてきた秩序であり理のことなんだ。ここまでは理解できているかな?」
「わかっているつもりです。そして、それが本来の姿でなかったことも」『現実』は『真実』が形を変えたものだと、文月さんは言っていた。神様がいなくなって、人間が生まれて、そうしてできたもの。
「では」こちらを窺いながら今在さんが言う。
「今と本来が違うものだったとして、別のものだったとして、果たしてどちらが存在していることが正しいのだろうか? 真実と現実と、どちらが正義なのだろうか?」
ポットから湯気が噴き出して、ヒューと鳴る。今在さんはそれを片手で持ち上げて、いつの間にか用意されていたカップに注いだ。金縁の高そうなカップ。
「どうぞ、熱いから少し冷まして飲むといい」……猫舌なのばれてるのかな。
「……いただきます」今在さんからカップを受け取る。中の液体は濃い紅色で香りが強かった。甘い、それでいてまろやかな香り。紅茶のことなんてよくわからないけれど、確かにいいものなのだろうと思う。
何よりこの温度を感じられない無機質な部屋の中で、温かいものに触れていられることに安心感を覚えた。実を言えば早くこの部屋から離れたいのかも。
両手の中でカップをゆっくりと回しながら、今在さんの質問の意図を考える。
「つまり、その正義という名目で文月さんを襲ったんですか? 彼女がいなければ、真実は存在できないから。だから真実を消すために彼女を傷つけた」
「言葉の中に込められた敵意がまっすぐに伝わってくるよ。まぁ、私が敵対しているものが真実なのは間違いないけれどね。しかし、大元を辿れば、原因は向こうにある。君は、あの魔女の目的を知っているかい?」
目的……、「文月さんは真実を蘇らせることだと言っていました」あれは、そういう意味だよね。
「きれいな言葉だね。あの魔女の得意分野だ。彼女の言葉は無駄に詩的で、認識を歪ませる。ある意味魔法だよ」
「どういう意味ですか?」「わかりにくいってことさ。本質を隠すからね」あぁ、よくわからなかったのは私のせいじゃなかったのか。
「いいかい。『真実』がその形を失ったのは人間が生まれたその瞬間だ。純粋な一つのモノだったその世界は、他の世界の発生により干渉されることになった。大きな大きな神の世界は、小さな物語の集合体に飲み込まれていったんだ。そうして存在している現在の世界の在り方を彼女はもとに戻そうとしている」
嫌な予感がする。いや、もしかしたら感覚じゃなくて理屈でも、もう理解し始めているのかもしれない。あの時の文月さんの会話で、夢理が気付いて私が気付けなかったこと。
「つまり、彼女はこの世界から人間すべてを消そうとしているのさ」
「でも」今在さんの言葉を否定したくて、無理やり出した言葉はけれど続かなかった。
人間がいなくなれば個々の持つ物語は消滅する。観測する人間がいないのだから、本もテレビもラジオも物語たり得なくなって……。
真実は真実本来の形を取り戻す。
「やはり先に、僕という存在を説明しようか。僕は僕を『魔女狩り』という言葉で表している。複数の物語の集合体である現実が自己防衛のために無意識下で作り出したシステムの総称さ。ヒトの姿をしている今のこの形を一応分けて『今在光』と呼んでいるに過ぎないんだよ」
「それじゃあ、あなたは文月さんを消すためだけに存在している人間だっていうんですか?」
「いいや、便利だからこの姿をしているだけさ」今在さんは、そっとカップに口をつける。「僕は人間じゃない」
ふと、雪ちゃんのことが頭をよぎった。どうしよう雪ちゃん、彼人間じゃなかったよ。けどお互いが愛し合っているのなら、そんなことは問題にならないのかな。
「君は、春風夢理という存在をどのように評価しているだろうか?」
今在さんが話題を変える。変わったよね。まさか夢理も人間じゃないなんて言い出すのかな。
「夢理は、本が主食の変態です。ずーと本ばっかり読んで、おとぎ話みたいな世界を夢見るロマンチスト。叶えちゃいましたけど」あと計算能力ゼロ。あと馬鹿。
「夢理君は一日に何十冊もの本を読むね。それも選んで物語ばかりだ。物語は世界。彼は、物心つく以前から尋常じゃない量の世界を食い散らかしてきたんだろう。もちろん物語は読まれたところで減ったり消えたりすることはないが、読んだ本を一字一句記憶している彼の場合はそのまま自身の世界の拡大につながっている。これがなにを示すか、本当は君ももう気付いているんだろう?」
世界は物語。物語は世界。ここ最近で、何度も何度も確認させられる理。それならって、考えなかったわけじゃなかった。夢理が他の人とどこか違うのは初めからわかっていたことでもあるしね。それは、文月さんと出会ってから加速したんじゃないかと思う。
多分、気付いたんだ。自分の可能性に。きっかけがなかっただけ。
「まさか、じゃないんですね。夢理ももう人間じゃないってことですか」
「神はこれまでにたった一人しか現れたことがないからね。正確に定義するのは難しいが、彼は大量の物語を吸収することで限りなくそれに近い存在になっていると言えるだろうね。その力の片鱗は、君もほんのさっきその目で見たのだろう?」
消しゴムが文字を記憶しているなんて現実は存在しない。そして、あれは真実でも起こっちゃいけないことだったんだ。もしかしたら、鉛筆も消しゴムも真実の中には存在していないかもしれない。
それなのにあの時、消えた文字が復元されたのは……、夢理が神として夢理自身の世界を具現化させたから。現実に対して、目に見える形で影響を与えられるくらいに大きな世界が夢理を中心に回っているってことなんだ。
「私が何者なのかっていうのは、そういうことだったんですね。文月さんが言っていました。真実では魔女はいつも神と一緒にいて、神は魔女を媒介に世界を映しだしていた。つまり、私は夢理の魔女だった」
カップを持つ手が、少し震える。それが今在さんに伝わらないように語調を強める。
「廊下が襲ってきたとき、私は夢理が襲われたんだと思ってました。私が襲われる理由なんて思いつかなかったから。だって、普通の女子高生のつもりだったんですよ。普通に友達がいて、普通に進路に悩んで、普通に美味しいもののこととか考えて、」普通に、恋もして。「でも、あなたの狙いは初めから私だった。だから私だけに接近したんですね。あなたは、魔女狩りだったから」
それは、つまり今この場で襲われてもおかしくないということだ。怖くないわけないよね。自然に体がこわばって、カップを落としそうになる。
「警戒しなくても、今僕は君に何かしたりしないよ。できるならば、お茶会などせずに攻撃しているさ。そもそも、現実が真実や他の世界に干渉するというのはものすごく無理のあることでね。対価というのかな、相応の代償が必要なんだよ」
今在さんは参ったよ、とでもいうように両手の平を頭の位置でひらひらさせておどける。代償っていうのは、力の源になるものっていうことかな。さっきの攻撃で、今はそれが足りなくなっているっていうことだと思う。
「対価って、なんですか?」敵である私にそんなことを話してくれるとは思えないけど。
「敵である君にそんなことを話すと思うかい?」まぁ、そうだよね。
「と言いたいところなんけどね。残念なことに君には知る権利がある。君には酷な話になるだろうが、さてどうする?」
知る権利……、今在さんの言っていることがうまく飲み込めない。敵としての私になら言わないということは、私自身に近いということなのかな。
「聞きます。初めに今在さんが言っていたこと、やっぱり私には何を知るべきなのかよくわからないけれど。よくわからないから、手に入れられる情報はすべて聞きます」
「そうか。これについてはどちらが正しいのか僕は答えを持たないよ。だから君がそう判断するならば、それでいいのだろうね」
今在さんが手に持っていたカップをおく。そういえば一度も口をつけていないけれど、私のカップはもう冷たくなっていた。
「『魔女狩り』というのは現実の生み出した存在でありながら、現実とは別の存在形式をもっていてね。だから通常では人間に認識されることはない。それだけ存在が希薄なんだ。初めて君と出会ったとき君がすぐに僕を見ることができたのは、魔女という特質からだ。その関係上魔女という存在に対してのみ僕は影響力が強いからね。逆に言えば、魔女がいなければいない存在なんだよ魔女狩りは」
誰の目にも映らないというのはどんな感覚なんだろう。私には想像することすらできない。
「しかし、存在の自立ができなければ外の存在とは戦えないからね。まれに特異点と呼ばれる人間がいるんだよ。僕に気付くことができ、ぼくを見ることができる人間がね」
それって、「雪ちゃん……」そういえば、お弁当全部食べれたのかな、なんて……。
「今の僕はユキとの絆で存在している。彼女との出会いは間違いなく奇跡だよ。親友の君には悪いが、うまく使わせてもらっている」
「使う……」て何? 何それ、まるで道具みたいな言い方。
「今在さんと雪ちゃんとは恋人関係で、」
「恋なんて幻想だよ。僕にとっては言葉のあや。ユキにとっては勘違い。そしてすべての人間にとっての心の拠り所。それが恋であり愛だ。それだけだよ。実際にはそんなものは存在しない」
「やめて! あなたがそんなこと言わないで!」雪ちゃんは本当に本当に今在さんのことが好きで、周りのことなんて何にも見えなくなっちゃうくらいずっとずっと今在さんのことばっかり考えてて「こうくんって、雪ちゃんは今まで見たことないくらい幸せそうにあなたの名前を呼ぶのに、それなのにあなたは!」
私が声を荒げても、今在さんは冷静な態度のままで口を開く。
「もしかして、君は自分が春風夢理に恋をしていると思っているのかい?」
「な、」そんなこと今は関係ない。
「ずっと彼のそばにいたいと思ったり、離れていても彼のことが気になったり、或いは思い返せば彼とのことばかりが頭に残っていて、それを春風夢理に対する恋心だと自分で解釈しているんじゃないかい? いや、これは話を逸らしているわけではないんだ。共通項だからね。認識の違いを正してあげようと思ってね。もし、君が今僕が言ったような事柄を恋と呼んでいるのならばそれは誤りだ。それらはすべて、神と魔女との関係から生まれるものだよ。恋じゃない。君たちはそういうものなんだ」
………………………………………………………………………………………………は?
恋じゃない?
こいじゃない?
コイじゃない?
故意?
濃い?
鯉?
夢理へのこの気持ちが恋じゃなくて、私が夢理の魔女だったから起こる錯覚?
「魔女は固有の物語を自身で持たないからね。神と世界を共有することになる。君は春風夢理と出会う前の記憶や記録が欠落しているんじゃないかな。そして彼との思い出とその周辺事実のみが君を構成していく。まぁ、実際それらから恋や愛というものにつなげてしまうのも無理はないと思うけれどね」
記憶?
記録?
欠落?
転校してくるまでの記憶がない。
記憶を辿ると必ずそこに夢理がいて。
でもそれは全部魔女だから?
魔女だから?
まじょだから?
マジョだから?
マジョ。
マジョ?
「大分混乱しているようだね。お話はこのくらいにしようか。これから僕は準備に入る。本気であの魔女を消すためのね。もちろん君もターゲットだ。これから君がどうするかは君の自由だよ。抵抗してもいいし、すべての人間のために何もしないでくれてもいい。時間はお互いにまだあるからね。ゆっくりと休むといい」
バツン、とミミモトでオトがシタ。
イシキは、ソコで、トギレル。
十七時三十分
冷たい。それから、硬い。
胸ポケットに入れていた携帯電話が揺れていて、あぁ私はこれで起こされたのかと気付く。
重たい体を無理やり起こすと、ようやくここがどこなのか理解できた。普通教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下だ。両側の壁がガラス窓に囲まれてるのは、この学校では渡り廊下しかないもんね。三階か四階か、ここから見える景色だけじゃ何も変わらないからよくわからないけれど、つまり私はこの廊下で辺りが真っ暗になるまで気を失っていたらしい。
それにしても。
こう見えてわたしだって女の子なのだから、体を冷やさないような配慮があってもいいと思う。私であるはずの体が氷のように冷たくなっていた。さて、私は誰に対して憤っているんだったろう。霧がかかったようにまだよく、頭が働かない。
真っ暗と言っても、そういえば今日の天気は雨だったっけ。携帯電話に表示された時刻はそれほど遅い時間じゃなかった。けど、生徒会室に入った時の時間を考えると二時間以上はここで眠っていたことになるのか。
そうだ、私はさっきまで生徒会室にいて、今在さんと話をしていて……。なぜかその先は考えたくなくて、とりあえず思考を切り替える。電気、つけなくちゃ。
携帯の明かりと壁に触れた手の感触を頼りに電気のスイッチを探す。ついでに確認した受信メールは夢理からのものだった。八件、それから通話の着信で五件。心配させちゃったかな?
疑問形になったのは、やっぱり私があまのじゃくだから。
「あ、あった」
上下に二つ並んだスイッチを同時に押す。長い廊下を渡る合計十六本の蛍光灯が予想以上の明るさで辺りを照らした。暗闇に慣れ始めていた目には、少し眩しすぎるくらいだ。
「とりあえず、夢理のところに向かわなきゃ」連絡を返すのは道すがら、歩きながらでいいよね。
深夜と言われても見分けのつかない、人気のない今の校舎は少し怖い。さっきまでいたところに比べればへでもないけどね。それでも不安はぬぐえなくて、手に持っていた携帯を握りしめる。
外の雨は、そんなに強くないみたいだった。そもそもよく見えないんだけどね。磨き抜かれた窓ガラスが蛍光灯の光を反射してまるで大きな鏡みたいになっているせい。外が暗いせいで、それは映りこむ自分の姿がはっきりと確認できるくらいになっていた。そういうのも、やっぱりちょっと怖いよね。
――本当にいいの?
「…………!」今何か、聞こえた?
心なしか速くなっていた足が止まる。誰かの声が今確かに聞こえたよね。一応振り向いてみたけれど、誰もいない。当然進行方向にも動きのない暗闇があるだけだ。
――本当に、このままで……。
いやいやいやいやいやいやいやいや、ものすごく怖いんですが! やっぱり、誰か話してる。
辺りにはもちろん人影なんてなくて、窓に映る自分の姿がこちらを覗いているだけだった。
あれ? さっきは気が付かなかったけれど、両側に窓ガラスがあるせいでお互いに映った鏡像をさらに映しあっている。
端的に表すなら巨大な合わせ鏡だ。無限に反射された私が一斉にこちらを見ている。なんだろうこの違和感。
「あ、そうか。一斉にこっちを向いてるから変な感じがするのか。だって、半分は後ろの窓ガラスが映してるんだから、背中が見えなくちゃいけないんだもんね」
……………………。
「……………………………………………!」声にならない叫び。
――本当にいいの?
――このままでいいの?
無数の私の中のいくつかが問いかける。ううん、私まだこの状況に対応できてないんだけどね。本当は一目散に逃げ出したいのに足が震えて、動き出そうとしてくれない。
これ、多分七不思議だよね。数が合わなかったのは、『窓ガラス』と『合わせ鏡』の話が同じものだったからなんだ。噂が広まっていく過程で、二つの言葉になっちゃったってことなんだと思う。
それがわかっていても、怖い。生理的な怖気の走る、数の恐怖。
――このまま夢理に会っていいの?――答えも出ていないのに――納得できていないのに――あの生徒会長に言われたままを受け入れるの?――本当にそれで――全部間違いだった?――今までのこと――これまでの気持ち――
右から左から、いくつもの私から言葉を投げかけられて、私の頭はすぐに飽和した。意味を理解する前に先の言葉は次の声に塗りつぶされて、うまく処理できない。
それでも何とか考える。
「ここにいる全部が、私なのかな。私が考えないようにしてきたことから、逃げるなって言ってる?」
私の一人が言う。
――今、目を背けていることはなに?
「別に、逃げてるわけじゃないんだよ。ただ今は先にやらなきゃいけないことがあるだけ」
別の私が言う。
――答えが出るのが怖い?
「そうじゃない。今は、だって、今在さんが文月さんを狙ってって」
これじゃあまるで私が自分自身に、言い訳しているみたいだ。
――恋じゃない。
――それを自分で納得してしまうのが、そんなに怖い?
無表情で声を発する自分の姿を見たくなくて、目を伏せた。
今在さんの言葉が頭の中で蘇る。夢理は神で、私はその魔女で、私が夢理に対して持っていた感情は全部、魔女として必然のことで、だからこれは恋じゃない。
――そうなのかもしれないって、思ってるんでしょ?
私の一人が笑う。
――自分に夢理と出会う前の記憶がないことも、気が付けば夢理のことばっかり考えていることも、全部説明できちゃうもんね。
「…………」否定する言葉が見当たらなくて、声にならない。
きっと、もともと確信があったわけではなかったんだよね。絶対にこれは恋だ、なんて言えるほど私は恋とか愛とかいうものをよく知っているわけではなくて。普段雪ちゃんが楽しそうにそういう話をしてくれるから、私の中にあるこれも恋だったらいいなって、多分そんな風に思ってしまったんだと思う。
違うと言われれば、そうかと納得してしまうくらいにはおぼろげな、淡い期待みたいなものだったんだ。
――私って、そんなに素直だったっけ?
「え?」
顔を上げると、それまであった違和感はもうなくなっていた。
左右の窓ガラスが交互に光を映しあった、無機質な普通の合わせ鏡があるだけ。
「あ、……いかなきゃ」そうだ、夢理のところへ行く途中だったのだから。
震えの止まった足を速めて渡り廊下を抜ける。辺りは暗かったけれど、ところどころにある常夜灯を頼りに進むことにした。階段だけは明かりをつけて駆け降りる。
一階。いつもの鉄の扉で立ち止まる。ここを開けば夢理がいるはずだ。
文月さんは、意識を取り戻したかな? 夢理がついてるから大丈夫だとは思うけれど、あのべっとりとついた血の記憶が不安を加速させる。それに、彼女にも聞かなきゃいけないことがあるよね。
正直、今夢理に会うのは怖い。やっぱり、まだわからないんだ。自分の中にあるものが本当に恋じゃないのか。ただの必然が重なって起こった錯覚だったのか。
でも、私あまのじゃくだから。
すんなり飲み込んだりなんてしてあげない。
そうして私が私を否定して、自分に向けられた雪ちゃんの気持ちを否定させるのが今在さんの目的なんだから。
私、信じてるんだ。根拠もないし、証明もできないけどね。
きっと、今在さんも私と同じぐらいあまのじゃくなんだって。
ドアノブを握る。何をしたらいいのかも本当は全然わかってない。でも、進むしかないから、きっと私にしかできないことがあるから。
だから、想像もできなかったんだ。
扉を開いても、私が光に包まれることはなかった。
第四章
「……どういう、こと?」
ザー、という不快な雨音が耳につく。
立ち尽くすことしかできない私の視線の先には噴水があった。もちろん雨の日のこんな時間に水が出ているわけはなくて、大きな陶器の受け皿が雨を跳ね返しているだけだった。それすらも、遠くてよくは見えないけれど。
何度試しても、扉はあの屋上につながらなかった。まるでそれが当然であるかのように真っ暗な中庭がそこにある。
「こんなこと今までなかったのに」言葉に出しても、リアリティーのない現実が目の前にあるだけだ。
携帯電話を開く。もう三回目だった。こちらからの電話もメールも、ちっともつながらない。夢理からの連絡も、あの渡り廊下で来たものが最後。
実は、雪ちゃんにも連絡が取れなかった。こっちの方が心配なんだよね。今在さんは、文月さんを消すための準備をするって言っていたから、きっと雪ちゃんと先に接触してるはずだよね。
真実がなければいないのと同じ存在だって今在さんは自分のことを話していた。これが最後だって思ったら、力を蓄えるために雪ちゃんに何をするかわからない。
考えなきゃ。どうにかしてあの屋上に行かなくちゃいけない。
「ほかの扉で試してみようか。でも、これまでだって試さなかったわけじゃないし。きっと場所に依存する類の開通率があるんだよね。そうだとしたら、多分ほかの扉を開いても意味がない。それなら……」それなら、どうしたらいいんだろう?
「あっれー、神楽?」
何もできないまま壁に寄りかかっていた私に、廊下の向こう側から聞きなじんだ声がかかる。
「宇佐木先生。どうして」
「どうしてはこっちの方だろ。下校時刻ぎりぎりにこんなところで……、おまけにあんた制服が濡れてるじゃないか。猪宮のやつにでも見つかったら、厄介だよ」
あたしでも理性とんじゃうかも、なんていいながら宇佐木先生は着ていたジャージを肩にかけてくれた。普段ズボラなんて呼ばれているくせに、ジャージからはなんだかいい匂いがする。失礼だけど、ちょっとびっくり。
「ありがとうございます」「ん、よろしい。あんた素直な方が可愛いよ」「な、かわ……」
宇佐木先生は一通りけらけら笑って、ふぅーと一つため息をつくといつもよりほんの少しだけ真面目な顔でこちらを向いた。
「で、あんたは今なにを迷ってんの?」
力のある鋭い両目で宇佐木先生はこちらを覗く。すべて見透かされてるみたいな、そんな気にさせられるけど本当はそんなことはなくて、多分いつもこんな表情で見守ってくれてるんだろうね。
「どうした?」何も言わずにいた私にしびれを切らして先生が声をかける。
「えと、」何も言えなかったのは、今の状況をうまく説明できる自信がなかったからだ。
「あの………………………………」
「………………………………ん?」
「あ……、なんでもいいのでアドバイスをください」ナーニイッテンダワタシハ。
あっひゃっひゃっひゃっ、て先生も笑いすぎ。
「はー、いいね。いい方向に雰囲気が変わったというか、恋でもしたかい?」
あっひゃっひゃっひゃ、もう一度笑う。残念なことにタイムリーすぎて私は全く笑えません。
「ん、アドバイスね。質問が漠然としてるから日頃あたしがあんたに思っていることを言わせてもらうけど、そうね。神楽に足りないのは豆乳かな。もちろん小ぶりなのもいいんだけど。あたしの好みとしてはあともうすこーしってところなんだよね。こう、手のひらに収まらないぎりぎりってのがいいんだよ。あとキャベツと鶏肉も……、と神楽ちょっと待っ、どこいっちゃうのさ。おーい」そうですね。宇佐木先生に少しでも期待したあたしが悪かったんですね。
「もしかして違った?」「本当にそんなことだと思ったんですか?」「まぁ、小さいし。気にしてるのかと」「小さくないです!」……小さくないよね。雪ちゃんとは比べないで。
「じゃあもう一つ、アドバイス」
ぽん、と持っていた出席簿を私の額に当てる。「わ、」
「あんたさ、数学得意でしょ。その気質っていうか特質っていうかね、割と日常生活でも出てるのよ。必要ないものには見向きもしないで、効率のいいものだけを自然に探してるところがあると思う。最短を求めすぎなんだよ。客観的に見ててそれはいいところでもあるんだけど、それだと見えないものもあるでしょ。時にはそれが大事なものだったりするわけ」
わぁ、宇佐木先生が先生らしいことを言っているように聞こえる。
最短を求めすぎて見えないもの、か。
「ま、たまにはもとの形をじっくり眺めてみなってことね」
出席簿が頭の上から外される。でもその先の先生とは目が合わなかった。もしかしてこれ、宇佐木先生流の照れ隠しだったのかな。
「あ、そっか」思い出す。
最初に扉の七不思議に遭遇したとき、扉はいろんなところに通じたけれど全部この学校に実際に存在する見覚えのある場所だった。それなら、あの屋上も見覚えがなかっただけでこの学校に実際に存在しているところだってことだよね。
そしておそらく、文月さんがいることで普段誰にも認知されることのない場所。一つだけ、思い当るところがある。
この扉を開けば通じるっていう最短が、空間が地続きであるという元の形を見えなくしていたんだ。
「探していたもんは、見つかったかい?」
「多分。確証はないけど自信はあります」
「ん、それが一番大事なことだよ。たまにはちゃんとあたしも先生らしいこと言えるだろ?」
「びっくりしました」「こら」縦になった出席簿が振り下ろされる。けど、ちゃんと寸止め。
きっと宇佐木先生は不器用なだけなんだよね。こんなに生徒のことを考えているんだからもっともっとそれがみんなに伝わったらいいなと、先生の大好きな神楽は思っていますよ。
「ありがとうございました。それじゃあ、私行きます」
「そ。雨がまだまだ強いから気を付けて帰るように。いい? 男は狼よ」
「あ、ジャージ……」
「着ていきな。風邪ひいてもちゃーんと明日出席してもらうからね」
頑張ります、と残して駆け出す。生徒玄関はここからそんなに遠くない。
はっと思い立って振り向くと、まだ廊下の先で宇佐木先生はこちらを見ていた。
「せんせーい、嫌いじゃないですよ!」わ、思ったより廊下は響くね。
「ばーか、そういう時は素直に好きって言わないと伝わるものも伝わらないよ!」
ずっと遠くで笑っているようだった。それを確認して、今度こそ廊下を走り抜ける。
『好き』か。すいません、私あまのじゃくなんです。
この学校の屋上は、基本的にすべて施錠がされている。もちろんこれは安全上の問題で、生徒の出入りは厳禁と生徒手帳にも明記されていたりする。とはいってもせっかくあるので、夏の一部の期間や化学の実験の一環などで先生同伴のもとに年に数度は上がることになるんだけどね。
だから、実は私が見たことのない屋上は校舎にはない。それが、あの屋上が地続きにはないと錯覚させられた一つの要因でもある。
この学校が校舎だけじゃないことに気が付かなければ、きっとここにはたどり着けなかったと思う。
図書館のある四階を抜けて、お風呂場のある五階を目指す。一階から階段を駆け上ってきたからすでに呼吸がうまくできていないけれど、そんなこと言っていられる場合じゃないよね。
五階に着いて、お風呂場を背に一度立ち止まる。
普段私が生活している、女子寮五階の階段前。意識してみないとすぐに視界から消えてしまうのぼりの階段が、深い暗闇を覗かせている。
「こんなに近くにあったんだ。本当は、ずっとずっとすぐそばに」
階段を上る。備え付けの電気はなくて、ポケットから取り出した携帯電話で足元を照らしながら一段一段踏みしめる。
辺りは埃っぽかった。何年も人が立ち入らなかったところなんだろうね。それから、階段が奇妙に長い。これは予想していたことだけれど、あの生徒会室と同じように空間の距離感覚が私の知っているものと違うんだと思う。もう、普通なら三階分くらいはすでに上っているはずだよね。こう先が見えないと、不安になっちゃうよ。
「もしかして、この階段終わりがな……」っと踊り場に出ました。カッコワルイ。
突き当りの壁に触れて中心にある扉を手探りで確認する。ドアノブが錆びていてうまく回らないけれど、そこは力ずくでどうにかした。じょしこーせーはたくましいのです。
「ん。あ、あれ?」ドアノブは回ったのに扉がほんの少ししか開かない。ちょっとだけずれたっていえばいいのかな。できた隙間は、向こう側を見通せないほど狭い。
わけがわからなくて、扉に携帯電話の光を当てる。
愕然。
そういえば、そうだよね。この学校の屋上はすべて施錠されていて、それはもちろんこの扉も例外ではなかったわけだ。
内開きの扉の手前を、壁の両側から伸びた太い縄が横断していた。きっと長い間この扉を守ってきたんだと思う。びくともしないわけだ。大量の紐がらせん状に折り重なっていて、縄というより綱に近い。
「これをどうにかしなきゃ、夢理のところに行けないもんね」焦る気持ちを紛らわせるために無理やり声を出して綱に掴みかかる。あるかどうかも分からない道具をこの暗闇の中で探すには、時間が惜しい。
ほつれている部分から強引に縄を引き裂こうとしてみる。ささくれのようなものが刺さって痛い。食い込む指も、割れそうな爪も。こんなこと女子高生のやることじゃないよね。さっきの言葉をもう撤回したい衝動に駆られる。
そんなにたくましくなんてないのかもしれない。
強がっているだけで、行かなくちゃってどこから来たのかもわからない責任感に突き動かされているだけかもしれない。
本当はこの先に進みたくなんてない。
だって危ない目に逢うかもしれない。
今度こそ今在さんは本気で私を殺そうとしてくるのかもしれない。
それは怖いよ。
実を言えばこの暗闇の中に一人でいることだって、怖くてしょうがない。少しでも気を抜けば、立っていられなくなりそうなくらいに怯えてる。
足の震えが止まらない。気持ちを無視するように視界が歪み始める。
魔女だとかそんなことは関係なくて、ここにいる私はやっぱりただの弱い一人の無力な女の子なんだ。特別なことは一つもない。できることだって何もないのかもしれない。それを自覚してしまえばこの手が止まってしまいそうで、無理やり弱気な考えを振り払う。
大丈夫。私はあまのじゃくだから。自分の心に嘘をつくのはお手の物。
でも、それだけじゃない。
「怖いんだよね。自分が消されちゃうことよりも、夢理や雪ちゃんを失っちゃうことの方がずっとずっと、怖い。だからやらなくちゃ」
ぼぅ、と背後の階段から明かりが当たって振り返る。
「ニャハハハハハハ」
「タマ!」文月さんが倒れていたとき屋上にいないと思ったら、こんなところで会うなんて。もしかしたら、今在さんにどこかに連れて行かれてたのかな。
真っ赤に燃えた人魂が、三分の二ほどの太さになった縄に触れる。草の燃える独特の匂いがして、縄はどんどん細くなっていった。
「今ほど、抱きしめたいと思ったことないよ。タマ、ありがとう」しないけどね、熱いから。
扉を横断していた縄が真ん中から音もなくちぎれる。タマが離れると、縄の火はすぐに消えた。どうやら燃え広がる心配はなさそうだ。
「一緒に来てくれる?」「ニャハハハハハハ」返事してくれたのかな。ちっちゃいけれど、頼もしい味方だよね。
「行こっか」
重い音をたてて、開かずの扉がようやく開いた。
羽織っていたジャージの上から大粒の雨があたる。思った通りの景色の変化に、まずは一つ安堵のため息をついた。
「日和!」夢理の声で振り向く。どうやらまだ、今在さんはここにきていないようだった。
「夢理、文月さんは?」「ああ、さっきやっと意識が戻って……」夢理は、私の後ろ上方を指さした。「タコと遊んでる」
言葉のとおりだった。文月さんは床から二メートル離れた高さを,八足の軟体生物と絡まりあいながらうねうねと漂っていた。あの何を考えているのかわからない目と目があい、ぞくっと背筋に悪寒が走る。文月さんじゃなくて、タコの話。
「あら。神楽さん、こんばんは」タコがしゃべる。違う違う、しゃべったのは文月さんだ。ちょっと混乱してるかも。
「こんばんは……って、体はもう大丈夫なんですか?」
「ふふふ、こんなにぴんぴんしているよ」といって持ち上げたのはタコの足だった。「春風くんのおかげだね。ありがとう」といって持ち上げたのはタコの足だった。うー、大変な時なのに。この人と話していると調子が狂う。
でも時間はないんだよね。とりあえずこれまでのことを二人に掻い摘んで説明した。今在さんと魔女狩りのこと。彼の目的が、文月さんを消して真実を消滅させることだということ。そのための力の源が雪ちゃんとの繋がりで、今は限界まで力を蓄えているところだということ。
「彼はまだ信じることができないんだね。それはとても悲しいこと」
話を聞き終わって、文月さんはマフラーの巻かれた折れそうなほどに細い首をかしげながらそう小さく呟いた。言葉の意味は分からなかったけれど、私たちに向けられたものじゃなかったように思う。『彼』っていうのは今在さんのことなのかな。
対して夢理は、考え込むようにして黙り込んでいる。きっと行間を読んでいるんだろうね。私なんかには想像することのできない物語の先が、この小学四年生の計算もできない頭の中で構築されているのだと思う。『物語喰らい』か。
つまり、と夢理がゆっくり口を開く。
「真実と現実はずっと、お互いを牽制しあっていたわけだ。真実はもとの形を取り戻すために、現実はその危険を排除するために。で、俺たちがその均衡を破っちゃったんだな」
「俺たちって、私たち?」
「ああ、白野………………、えっと……」「雪ちゃん?」「その白野雪が特異点になったのは、まず間違いなく日和のそばにいたことに起因しているだろうからな。俺たちが、真実に出会ったから」
そうか、特異点がいなければ、魔女狩りである今在さんは力が使えないんだもんね。
特異点。魔女狩り。神。魔女。
「夢理は、自分が神に近い存在になっていたって知ってたんでしょ?」
「そんな大それたもんだとは思ってなかったよ。まぁ、自分にできることと役割くらいは理解してるつもりだったけどな」
やっぱり俺たちは導かれてたってことか、と夢理が言う。そのまま文月さんの方に向き直る。
「いくつか、質問していいか?」
「もちろんなんだよ。友達は大事にしなきゃいけないからね。けれどきっと、答えはすべて春風くんの中にもう全部あるんじゃないかな」
「それでもだ。確認ととってもらってもいい。まず一つ目、真実を取り戻すということは、すべての人間の排除そのものってこといいんだよな?」
「ふふふ、そうだね。真実の世界にはいなかったものだから。そして、世界が形を変え始めた直接の要因でもあるものね。魔女にできる手段はそれだけなの。でもきっと想像しているよりもずっとシンプルで簡単なことなんだよ。もとに戻すってことだもの。悲しいことなんて何もないよ」
「それは、」口出さないつもりだったんだけど、これはちゃんと聞いておかなくちゃいけないこ
とだと思った。「それは、真実の世界に生きる文月さんの都合ってことですよね? でも現実を生きている人間からしたら、とても悲しいことです」
元に戻るということなのだとしても、人はみんな今生きてるんだから。
「言っていることはわかるんだよ」文月さんが答える。「けれど理解はできないの。人間はいなかったものだから。人間の悲しみは魔女の理解の範疇を超えているんだよ。魔女は魔女だから、魔女のできることをやるだけなの」
「そんなのって」「いいんだ日和!」
自然と乗り出すような姿勢になっていた私を夢理の腕が止める。
「でもこのままじゃ今在さんを止めることができても、その時は人間がみんないなくなっちゃうんだよ? 雪ちゃんも、宇佐木先生も、クラスのみんなも、それから私たちだって」
「ならない」夢理が言う。「そんなことにはならないんだ。今までのことは全部そのために必要なことだったんだからな」
一度言葉を区切った夢理が文月さんに向けてピースをする。
「二つ目の質問だ」ピースじゃなかった。「真実は、その外側を認めることができるのか? 例えばこの世界の平行な座標に別の巨大な世界があったとしたら、それも魔女の攻撃対象になるのか?」
パラレルワールドっていうやつのことかな。昔、夢理が話していたことがある。単一方向に進む時間軸に無数の分岐点があって、選択された事柄一つ一つから派生される複数の種類の世界が存在している可能性の話。それはまるで、一つの物語にハッピーエンドとバッドエンドが用意されているようなものだ。……世界は、物語。
「世界の形はね、クローズドサークルなの」そう答える文月さんの視線は夢理の方ではなくて、遠くの空に向いていた。雨雲の切れ間に、かろうじて三日月が見え隠れしている。
「別に外枠としてちゃんとした線があるわけではないんだよ。けれど誰かを中心に回転しているそれは、常に内側に向かって働きかけるものなの。外側には関心がなくて、だからお互いに触れあわなければ干渉することもないの。現実が真実に干渉しているのはね、人間が真実の中心から発生した、いわばウイルスみたいなものだからなんだよ」
文月さんのきれいなソプラノから発せられたウイルスという表現が、ざらつくように耳に残る。やっぱり、文月さんにとって現実は敵なんだよね。そんなことわかっていたはずなのに。
文月さんがいなくなるのは嫌だ。友達だって言ってくれた。たくさんのわくわくするものを見せてくれた。人魂たちとの出会いもくれた。
夢理がいなくなるのも嫌だ。いままでずっとずっと一緒にいた。口ではいろいろ言ったけど、それが嫌だったことなんか一度もなかったよ。ほんとはそれでももっと一緒にいたかった。
私だってまだ消えたくなんかない。やりたいことだってたくさんある。
でも、真実があることで周りのみんながいなくなっちゃうなら、消えてしまった方がいいのかな。消えてしまわなくちゃいけないのかな。
「ねぇ夢理、どうしたらいいんだろう。どちらかがなくならなきゃいけないの? それまでずっと、傷つけ合わなくちゃいけないのかな?」
足に力が入らない。立っていられなくて、崩れるようにしゃがみこむ。床にできていた水たまりが雨音の中でぱしゃりと鳴った。
ぽんと何かが頭の上に乗る。
「日和はさ、目に見えてるものから式を組み立てるだろ。だから導かれた答えにしかたどり着かないんだよ。一方では、真実が人間を滅ぼして本当の姿を取り戻す。もう一方では現実が真実の魔女と俺たちを殺して脅威をなくす」
頭の上で夢理の手がわしゃわしゃと動いて、少しくすぐったい。
「俺な、日和がいなかったら現実なんてなくなってもいいやって思ってたんだ。つまんないからな。わくわくするものなんか何にもなくて、だからやりたいことだってなくてさ。人間って作られた枠の中でだって生きていたくなかった。本読んだらわかるじゃねーか。何をして、どんな道に進んだらどんな人生が待っているのか。わかってるものなんて目指したくなかった。そのために何かするなんて面白くないじゃんか。考えるんだよ。しゃちょーさんになったら偉いのか? じゃあ、偉いってなんなんだ? 人のために何かすることがかっこいいのか? じゃあ、人はなんのために生きてるんだよ? 全部どうでもよかった。そんな疑問わくわくしないもんな。だからわくわくするものだけ残して、ほんとは全部なくしてやろうと思ってた。ずっと望んでたことだから」
全部、わかるような気がした。夢理が何を思って誰とも関わらずに本だけを読んで生きてきたのか。多分誰もが、一度は考えることなんだと思う。
目を背けるのは簡単で、けれど一度考えてしまうと動けなくなってしまう疑問。人間の欠落みたいなものなのかもしれない。多くの人は動けなくなることのほうが恐くて、こじつけのような答えで補完して生きていく。それを本当に幸せに思って生きていける人もいれば、最後まで違和感と闘いながら生きていく人もいる。
私はどっちだろう、まだ流されるように知らんぷりしている最中なのかな。
人間としては生きていくつもりがないと言い切った夢理の気持ちが今はほんの少し分かる気がするよ。
でもさ、と夢理の言葉がつづく 。
「日和には、ちゃんと今まで生きてきた世界になくしたくないものがあるんだろ。多分俺の知らない、俺の諦めてきた価値がちゃんとあるんだよな。他の、俺がなりたくなかった人間にも」
「夢理にだってできるよ。なくしたくないもの。絶対できる」だから、そんな泣きそうな顔しないでよ。
必死に出した私の言葉に、けれど夢理は「はは」っと笑っただけだった。
「どっちかしかないように見えるよな。真実か、現実か。でもそもそも俺の物語に敵なんて存在しないんだ。その方が楽しいだろ? そうじゃなきゃ悲しいだろ? だから、道はもう一つある。そうだよな?」
そう言った夢理の視線はいつの間にか私のずっと後ろの方に向いていて、
「ここは少しうるさいね」
しん、と周りの音が消えて背後から声がした。視界の中には夢理がいて、文月さんがいて、もちろんタマもミケもここにいて、そこまで私の頭が確認したところで振り返る。
雨音が止まっていた。止んだのではなくて。雨粒が宙で静止しているように見えた。
「雪ちゃん!」
今在さんの腕に抱えられた雪ちゃんはぐったりしていて、意識を失っているみたいだった。
「心配する必要はないよ。少し疲れているだけさ」今在さんが言う。「しばらくすれば目も覚ます。……初めましてかな、春風夢理くん」
「ああ、今初めて見えた。長いかくれんぼだったな」
「隠れていたわけではないのだけれどね。僕はいつでも君たちのすぐそばにいたのだから」
緑の腕章をつけた今在さんは屋根の下に雪ちゃんを丁寧に寝かせて、そして離れる。その所作はどこまでも紳士的だった。
「彼女は君たちに返そう」という、今在さんの言葉を聞き終わる前に雪ちゃんに近づく。ぐったりしてはいるけれど、怪我などはないみたいだった。それにこの雨の中で、少しも濡れていない。目に見えないけれど、何か不思議な力に守られているようだった。
ほっ、とひとまず安堵の息を吐いて、それから状況を確認する。
文学少年と生徒会長が、十メートルを切った距離で対峙していた。お互いに牽制するように視線を交わしながら、けれど今にも笑い出しそうなどこかわくわくした表情をしている。今在さんも、あんな表情をするんだ。
突然、くぐもった獣の咆哮が響いて今在さんの背後に影が走った。鈍重な物体と鉱物がぶつかる轟音が宙の雨を伝わってこちらに届く。
「さ、サメ?」自分の口から出た言葉がなんだか間抜けに響いた。
体長が成人男性の二倍はありそうな巨大なサメが空の海を猛スピードで移動して今在さんに襲いかかっていた。開いた口には数えきれないほどの鋭い牙が並び、今にも獲物を食いちぎらんと噛み付く。
けれど、その無数の刃は今在さんが添えた腕の先で不自然にめくれ上がった床の一部によって見事に阻まれていた。一トンは優に超えるであろうサメの巨体でも、厚いアスファルトでできたその障壁はびくともしない。
サメの動きは速かった。けれど、今在さんの方が何倍も速い。
「これは君の意思と、受け取っていいのかな」今在さんが寂しそうに向けた言葉は、目の前の夢理ではなくその後ろの文月さんに向けられていた。
文月さんの手元で光を放っていた小さな魔方陣がゆっくりと収縮して消える。それと同調するように、暴れていたサメの姿も見えなくなっていく。
「魔女は手を貸しただけだよ。真実は真実の神のモノだから魔女が操ることはできないの。やりたいと思うことをさせてあげているだけ。愛されているのね、魔女狩りさん」
言い終わると同時に文月さんは右手を筆代わりに宙に真円を描いた。『円形求心型方程式』と文月さんは呼んでいたっけ。円に沿って並んだ文字列が回転して内側に向けて計算を進めていく。文字は読めないけれど、何となくその仕組みは理解できた。魔女の役割は、目の前の現実と本来あるべき真実との差を埋めること。その異次元の計算式が目の前で答えを道き出してゆく。
魔法陣から、一際大きな光が夜空に瞬いた。
びゅっ、っと突風が吹いて咄嗟に私は目を瞑る。思い出す、風は道。
開いた視界の中に透明なレールが敷かれていた。一本じゃない。月の光を屈折させて朧に映る線が無数に伸びて、夢理を避けるように今在さんに向かっていた。その上を何かが滑るように高速で走っていく。
「弾道が見えていれば避けるのは簡単だよ。加速させるためとはいえ、この風の道は愚か以外の何物でもないな」
今在さんが風の軌跡を読んで大きく右に飛ぶ。けれど、風の上を走るモノは予想を裏切って今在さんを追うようにカーブした。
「風は滑走路なの。だってそうでしょ? 鳥は自由なのだから、いつまでもそんなものに縛られたりはしないの」
「ちっ」今在さんが、先ほど作った壁を蹴って宙に飛び出す。急な方向転換についていけなかったいくつかが壁に突き刺さって動きを止める。でもいくつかは壁をそれて、空中で身動きの取れなった今在さんを再度狙って飛ぶ。
「わぉ、まるでホーミングミサイルみたいだな」
夢理が、満面に笑みを浮かべてそんなことを言っている。なんだか他人事みたいだけれど、呆気にとられている場合じゃないよね。止めなくちゃ。
多重螺旋の軌跡を描いて残りの鳥が目標に向けて飛び立った。壁の鳥はものすごく鋭利で、あれ、あったったら多分怪我じゃすまないよね。
「日和、手出すぞ。集中しろ」
夢理がポケットから本に挟むしおりを取り出して振りかぶる。
「夢理それ普通の、何の変哲もない、長方形のただの紙!」長峰文庫の印字が一瞬目に入る。
「役割があるだろ。大丈夫、俺の中に答えはちゃんとあるぞ。だからお前にもわかる」
絶対だ、と言いながら腕を振り始める。
「間に合うわけないじゃん」と叫びながらも、私の手は印を切っていた。神楽式高次手算。
考える。何が足りないのか。夢理のやりたいことは不思議ともうわかっていた。
答えはすぐに出る。
しおりは静止している雨粒をはじいてまっすぐ飛んだ。ぺらっぺらの軽い紙がまっすぐに。しかもその速度は、もう今在さんの寸前まで来ている鳥よりもずっと速い。物理の田中先生が見たら卒倒しそうな光景だよね。でもこれだけじゃない。
手のひらに収まるサイズしかなかったしおりが、今在さんと鳥の間に挟まった途端に平行に広がる。大きさはそれでも広げた新聞紙くらいにしかならなかったけれど、まとまって飛んでいた鳥にはそれでも十分だった。鳥はすべてその体の半ばまでしおりに突き刺さって、動きを止める。
しおり。挟むもの。
「僕を、助けようとしてくれたのかい?」声は背後から聞こえた。あれ? 大きくなったしおりの向こう側に今在さんの姿はない。
「私たちが何もしなくても、間に合ってたんですか」きっと今在さんはあの状況からでも、『防ぐ』ではなく『避ける』術を持っていたんだ。それならば、あんな文字どおり紙の防御に頼るよりも自分で避けた方がずっと安全だもんね。
「際どかったけれどね。しかし君たちがすでにあのレベルで、世界を発現できるとは驚いたよ。地味だがちゃんと独自のシステムを構築できている」
今在さんがわざとらしくぱちぱちと手を叩いた。
「地味ってゆーな」と夢理が突っ込む。「ちゃんと、今の状況にあったものを選んだんだぞ。紙の鳥なら、紙のしおりで十分止まるだろ」
ん、紙? しおりと一緒に床に落ちた鳥を恐る恐る拾ってみる。
「これ、折り紙だ」飛んでいるときは気が付かなかったけれど鳥はすべて赤や黄色なんかの単色で、いたるところが鋭くとがっていた。形は、鳥というよりも紙飛行機に近い。
「真実では、鳥はみんな紙だったの?」
「あれ、日和には話してなかったか。真実での鳥は、空を飛ぶという特徴以外は俺たちの知っている鳥とは全然違うぞ。平面の形状からいくつもの形態に変化できるんだ。ちょうど現実のキツネとかタヌキみたいにな」
一緒にしないでほしいけれどね、と今在さんが呟く。うん、別物だよね。
でも、ようやく合点がいった。一週間前のこの屋上で大きな傘になった紙飛行機は紙でできた鳥だったんだ。なんだか、便利。
「ふふふ、空を飛ぶって素敵なこと。それは宙を泳ぐよりもずっとずっと神に近い行為なのだもの。魔女も飛べるけれど、それは自由とは紙一重で違う別のモノ。カミだから許されたのかな。髪ならどう? 近づきたいけれど、やっぱり魔女は魔女だものね」
赤いマフラーが風もなくなびいて、文月さんが手に乗せていた鳥を一羽放つ。もちろんだけど紙の鳥。複雑に織り込まれたそれは、ちょうど私の知っている折り紙の鶴に見えた。
「そろそろ僕も、反撃をしていい頃合いだろうか。正直少し力を持て余しているんだ。やらせてもらうよ」
今在さんが少し距離をとって屋上の隅の手すりに掌を添える。次の瞬間、それがまるで当然であるかのように端が切断され手ごろな長さの鉄パイプとなって今在さんの手に収まった。
「マジックみたい」そんな幼稚な感想が口から出て、今在さんにクスリと笑われる。わ、はずかし。
「種も仕掛けもないけどね。君たちと同じさ。独自の理論とシステムがあるだけだよ」
今在さんは高速で飛びかかってきた紙の鶴の脇をすり抜け、直接文月さんを狙って鉄パイプを握った右手を大きく後方に振りかぶった。
「夢理クンに負けず劣らず、僕も地味だな」
鉄パイプは音もなく袈裟に振り切られて、文月さんの体を両断する。瞬間、カメラのフラッシュのように光が瞬いて文月さんの体が無数の何かに分かれた。あれは、鶴? もしかして、千羽鶴かな。
「そうか。魔女は化けるのだったか」
「違うよ。魔女はほんとの形を持たないだけ。全部の姿の魔女が魔女そのものなんだよ」
文月さんの声は、初めの鶴が飛んで行った方から聞こえた。
「文月さんの手から飛んだ鶴が本当は文月さんで、切られた文月さんは鶴の集合体が形を変えたものだったっていうこと?」え、鳥すごすぎ。
「好きなように飛んだらいいよ。君たちのいる空は、神と君たちのモノだもの」文月さんの言葉に反応して、さっきまで文月さんだった鶴の群れが一斉に今在さんに襲いかかった。
複数方向からの波状攻撃。一つ一つは手のひらに収まるような大きさでも、数はそれだけで相手を脅かす。
けれど今在さんはその場から動かなかった。手に持った鉄パイプも使わずに、その顔に笑みを浮かべる。余裕とは違うもっと純粋な、まるで私のよく知る夢理みたいな笑い方。
「全く、真実は美しい。魔女狩りという立場の僕でもそう思うよ。それゆえに残念だ」
今在さんが鶴に呑み込まれた。鶴の数は千じゃすまなかったかもしれない。まるで意思を共有した群体のように、まるで理念に統率された軍隊のように、一つの大きな塊になっている。
「今在さん何かしようとしてた。空いてた左手でポケットから何か取り出して……」
「日和、伏せろ!」夢理が私の体を覆うように前に出て、反射で私はしゃがみこんだ。
直後、爆発。
紙の焦げるような匂いを感じて閉じた目を開くと、折り鶴が散り散りになって炎に包まれていた。その中心で今在さんが立ち上がる。手にはジッポーを持っていて、その横に弱弱しく転がる火の玉が、
「コロ!」
横で夢理が同じように「タマ!」と叫んでいたけれどそんなことはどうでもよくて、夢理の静止を振り切ってコロに近づく。
「コロ、無事だったんだ」でも、炎に力がない。今の爆発はコロを利用したってこと? 命そのものである熱が、どんどん失われている。
雨に当たらないように抱きかかえて、屋根の下に隠れていたタマとミケを呼ぶ。着ているブラウスがちりちりと音を立てたけれど、ナイロンに火が付くほどの熱もないみたいだった。三つの人魂が寄り添うように一つに固まる。
「持ち歩くにはちょうどいいサイズだったよ」今在さんがジッポーを投げ捨てた。「もう、用はないけどね」
「ひどい、コロだって生きているのに」
「ひどい? 真実が消滅すればただの炎だよ。命のかけらもない。ただの化学反応だ。それでも、僕が使えば少しは大きな火種くらいにはなる」
「ふふふ、現実がなくなれば人間なんて形も残らないのにね」
緑の腕章をつけた魔女狩りと、赤いマフラーの魔女が牽制するように笑いあう。ううん、顔は笑顔だけど、どちらもほんとは笑っていないのかもしれない。
「価値観が違うってこういうことを言うんだよな。文字通り違う世界に生きていて、互いに相手の世界に価値を見出していないんだ。かたや異物、かたや危険物だもんな。どちらの方が犠牲が少ないとか、どちらの方が先にあったとかそんな単純な話じゃない。正義とか理性も越えた、コインの裏か表かみたいな二者択一」
いつの間にかそばに来ていた夢理が、人魂を覗きこむ。
「タマの様子、どうだ?」コロのことね。
「弱ってるけど、多分大丈夫」
「ん、そっか」にっと笑いながら夢理がくしゃくしゃとコロを撫でる。「あぢぃ」
さっきは抱きしめても熱くなかったのに、少し元気になったみたいだ。よかった。
「日和」「ん?」やるぞ、と唇が動いたように見えた。音としては聞こえなくて、聞き返す間もなく夢理は次の行動に移っていた。
すぐ後ろにあった鉄の扉をおもむろにグーで叩く。
ダンっ、という鈍い音が響いてその場にいる全ての生物の注目が夢理に集中した。
形は違っていても覚えのある光景。教室でクラスメイトから七不思議の情報を集めたあの時のように、夢理が人を動かす合図。
「デモンストレーションは終わりにしようぜ」
今在さんと文月さん、五メートルほどの距離を開けて立つ二人の間に夢理が割り込む。
少し視線を上げればそこに月があった。雲に隠れていて気が付かなかったけれど今日は満月だったんだ。
「こんなもので決着がついても、虚しいだけだろ」夢理の声が響く。「何かの犠牲の上に何かが存在するなんて理不尽は、それこそお前らのいうシステムが未完成で幼稚なんだよ。当然と言えば、当然だけどな」
夢理は文月さんの方を一瞥して、「真実の神はこんな事態を想定することもできなかっただろうし」それから今在さんの方を向く。「現実はそもそも集合体だから、そんな状況はあって当然の功利主義だ。最大多数の最大幸福の裏にはマイノリティの犠牲がつきものなんだろ」
「それは仕方のないことだと思わないかい? たった一人の命でほかのすべての人間が助かるのなら、現実を生きる人間はたとえ迷ったとしても最後には必ずその一人の命を犠牲にするだろう。犠牲があるから正義とは呼ばない。しかしそれが取るべき選択だ。逆を考えろ、ただ一人のために全てが滅んだ世界を。虚しいとはそういうことを言うんだ」
今在さんのいうことはよくわかる。私たちだって現実を生きている人間なんだから。そして、人間ではない文月さんにこの理屈が通じないことも理解できてしまった。その虚しい世界こそが、文月さんの本来生きてきた世界なのだから。
「そこで、思考を止めるなよ!」夢理が叫ぶ。「犠牲があれば、なんていうのは解決じゃねぇだろ。妥協に周りを巻き込むな。世界は物語、物語は世界だ。物語はいくらでも作り出せる。可能性はいくらでもある」
「それなら、君には何ができる?」今在さんがこれまでとは違う、地の底を這うような声で静かに応える。「そのしおりを盾にする程度の力で、君ならどんな答えを出す?」
そう聞かれるのを夢理は待っていたみたいだった。
「真実も現実も内包した、もっとでかい物語を創る。何かを否定しなくても全てが存在していける世界を創りだす。『新実』、それが『真実』でも『現実』でもない第三の答え。俺と日和は、その理想と目の前の現実との差を埋めるために魔女の計算式から生まれた答えだったんだ」
文月さんは何も言わない。ただ黙って、夢理を見つめていた。
「私たちが、答え……」
やっと、全てを理解した気がした。夢理がやろうとしていること。文月さんが本当に望んでいること。今、私にできること。
この争いを終わらせるために、そして全ての世界を存続させるために、必要な新しい選択肢。
真実よりも現実よりも大きな、夢理の世界を創りだすこと。
全部、そのために導かれていたんだ。
七不思議に関わったこと。魔女に出会ったこと。今在さんと出会ったこと。
ううん、それだけじゃない。
この学校で、雪ちゃんと出会った。たくさん笑って、たくさんふざけて、時には泣いて、それから……互いに恋もした。
今までの思い出すべてが『運命』という言葉を引き連れて、私の中を駆け廻る。
夢理との出会いも……偶然じゃなかった。誰かに仕組まれたものだった。
でも、そんなに残酷な響きじゃない。例え導かれていたのだとしても、全部全部、私自身が選んだ道だ。それは絶対、間違いじゃなかった。
「うぬぼれるなよ」
声と同時に、今在さんの周囲の床がボゴッと一斉にめくれ上がった。まるで生物のようにアスファルトが波打ち、歪な破壊の音を奏でながら夢理へ敵意を向けている。
「君のいうことは綺麗事だ。理想論だ。新実? 絵にかいた桃源郷じゃないか。僕は神を知らない、しかし彼の物語は知っている。人間の物語もだ。君に雄大で荘厳な真実の全てを想像できるか? 猥雑で傲慢な現実の全てを理解できるか? 到底君では及ばない――」
今在さんの言葉が途切れるのを待たずに、灰色の塊が夢理に向かって跳ねるように動き出す。
「――不可能だよ」言葉が、冷たい。
でも、夢理は少しも動じなかった。ううん、夢理だけじゃない、私も。
「信じさせてやろうぜ」顔はこちらに向けていないけれど、夢理が笑っているのがわかった。少年のように目をキラキラさせながら、最上級に楽しそうに、極めて幸せそうに笑む。
返事は間に合わないと思ったから、代わりに手を動かした。指先がぽぅっと光りだし、軌跡が複雑に絡んで解を結ぶ。神楽式高度手算、この時のために私は夏休み必死に論文を書いたのかって思うと、なんだか笑っちゃうよね。
何かが引き伸ばされるような音を立てて、こちらに向かっていた灰色の塊が止まる。
夢理の右手から垂れたネクタイが枝分かれし、その先を屋上中の無数の突起にひっかけて、今在さんの放った攻撃を受け止めていた。張り巡らされたそれは肥大化した蜘蛛の巣みたいに頑丈でびくともしない。触らなくても分かった。私が創ったんだから。
ついで夢理の腕が、近くまで来ていたタマを掴む。
夢理の考えていることがまるで自分のことのように理解できた。言葉がなくても、視線さえ合わせなくても、私たちは繋がっている。
球体だったタマの炎が棒状に広がった。もやもやとしていた輪郭が形を成して、薄い刃が姿を現していく。炎が人にとって最大の武器というのは私にもよくわかる。けれど、武器にデザインを求める感覚が、女の子の私にはいまいち理解できなかった。出来上がった諸刃の『剣』は火炎土器のように複雑に造形されている。なんていうか……無駄に豪奢で持ちにくそうだ。
「命名、コロソード!」「意図せず、物騒なことになっちゃってるよ!」
かっこよければいいんだよ、と夢理が走り出す。はて、かっこよさってなんだったろう?
「その気持ちは、わからなくもないね」
今在さんが手に持ったパイプを構えなおすと、筒状だったそれも形を変えた。鍔のない日本刀みたいな、夢理の剣よりずっとシンプルで機能的なシルエットだ。
お互いの間にあった距離はすぐになくなって、二つの剣になったばかりのものがぶつかり合う。
「のぉ、りゃぁぁぁぁ」なんて夢理が叫んでいるけど、運動神経ゼロなことを知っている私にはいまいち迫力が感じられなかった。頑張ってる男の子はかっこいいけどね。それとこれとはやっぱり別かな。
「ふふふ、モノの本義を抽出したことで、そのモノが形を変えるというのは大きな矛盾なの。その形はまた別の意味を伴って、意味がまた、形を変えていく」
文月さんが、二人を眺めながらつぶやいた。この人には、この戦いがどんなふうに映っているんだろう。
「それでいいんです。きっと」わからないから答えた。「世界が物語なら、それはあり方じゃなくて変遷だと思うから。変わっていくことが物語なんです。世界なんです」
文月さんは何も言わない。でも、本当はわかっているんだと思う。
文月さんが選んだ答えが私たちだったこと、それはつまり文月さん自身が変化を望んだということなのだから。神がいなくなって変化をとめた世界を、守るためでなく生きかえらせるために。
文月さんの戦いはもう終わっている。後は私たち次第だから。
「おぉぉぉぉぉぉ」という声の気合いとは正反対に夢理の剣が弾かれ中空に飛ばされる、これで三回目だ。その都度、剣は一瞬炎の姿を取り戻し、夢理の手の中に返ってくる。コロが健気で涙が出てくるよ。
今在さんが剣をゆっくりとおろす。
「それで、勝てるのかい? 自分の力ではなく他者の力で勝利して、君はそれを本当の勝利と言えるのかい?」
「当たり前だろ、自分のために力を貸してくれる奴の力は全部自分のもんなんだよ」
夢理がそんなことを言うのは意外だった。「あんた、友達いないじゃない」
「日和がいるだろ」むぅ、いや、嬉しくなんかないもんね。
「だからこそ人はなんだってできる。できるんだよ、本当は!」
炎と剣の中間くらいで形状を保ったタマを夢理が一気に振り上げる。
「お前も、最初っから諦めてんじゃねーよ」
振り下ろした夢理の剣は真っ赤な光の軌跡を描いて――
「つまらないね」と、その声は私の耳元で聞こえた。
何かを見逃してしまったのかと思ったけれど、そうじゃない。
全部一瞬の出来事だったんだ。
夢理の攻撃を避けて当て身をくらわせていたことも、対峙していた位置から一瞬で十数メートルを移動して、私の背後に立ったことも。ひんやりとした刀の感触を首筋に感じて、息をのむ。
よくよく考えたら、当たり前のことだよね。本来今在さんに夢理と闘う理由なんてない。
今在さんは言葉通りの、魔女狩りなんだから。
「夢理クンの言葉は、つまらないよ。孤独に世界を貪って、神に近い力を手に入れた者の言葉としてはあまりに幼稚で甘ったるい。彼はもう少し僕に近いと思っていたけれど、面白くないね」
私の位置からは今在さんの表情を窺うことはできないけど、とても寂しそうな顔をしているような、そんな気がした。
ずっと、今在さんは独りだったんだ。真実を憎みながら、現実とも馴染まずに、あの広いだけの生徒会室で存在することすらも認められないまま、ただただその時を待っていた。
想像するのも怖い。
「夢理が孤独だったことなんてありません」だから私は呟くように言う。「あなたもそう。あなたは今義務で戦っている。でも本当はそんなもの投げ出してでも守りたいものがあなたにはあるんじゃないですか?」
「ユキのことを言っているのなら、それは見当外れだよ。僕と彼女との関係は魔女狩りと特異点。彼女は僕の力の源だ。その関係もじき終わる。この戦いが終われば、僕は彼女を必要としなくなる。現実が僕を必要としなくなるのと同じようにね」
そんなのって、「そんなのってない! 私は雪ちゃんの幸せそうな顔を知ってる。誰かを愛して、愛されている顔を知っている。それがあなたとの愛だということも知ってる」
「幻想だよ。愛とは現実に巣食うもっとも醜い病魔の名前だ。大切なことは、ユキには僕が見えたということ。もっと噛み砕こうか。僕を見ることができたのがユキだったんだ。それ以上の意味なんてどこにもないよ」
「違う!」だって「だって、今在さんがこんなに強いのは……それだけ雪ちゃんがあなたを想っているからでしょう?」
「黙れよ!」今在さんの声はまるで地響きのように低く重く雨を伝った。「終わりにしよう。君が消えればチャックメイトだ。夢理くんは君がいなくなれば何もできないし、遊ばなければ満身創痍の真実の魔女に遅れなどとらない。現実は人間の世界の集合体としてこれからも上手く回っていくよ」
今在さんの、刀を持たない左手が床と平行に上がる。既視感のある光景。あの廊下で、私が初めて不思議な世界に恐怖を覚えた景色がよみがえる。
視線の先には貯水タンクがあった。円筒形に三つ並んだ私の身長よりも大きな塊。それがそれぞれ全く別の方向にぐにゃりと歪む。肥大化したタンクの一つが容易に破裂して中身をぶちまける。噴き出した大量の水が歪に飛び散って、私はようやくその正体がなんなのか理解した。
いわば、文月さんの使う『円形求心型方程式』の反対だ。内側から外側に、回転しながら膨張していく世界そのもの。今の私には現実を歪めながら広がっていく数式がはっきりと見えていた。その数式が何を求めているのかも。
「さようなら。理想と奇跡に魅入られし魔女」
巨大な歪みの波が跳ね上がった。すさまじい暴力を内包しながら渦を巻き、確かな指向性をもってこちらへゆっくりと向かってくる。
怖い、恐い、こわい、こわいこわいわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。
でも今は忘れる。そんな場合じゃないもんね。
私は打ち勝たなくちゃいけない。
本当に怖いのは、怖くてどうしようもなく震えているのは、今在さんの方なんだから。
波はもう目前まで迫っている。
視界の端で、夢理の腕が動くのが見えたけど、期待しない方がいいよね。大丈夫、そうなる事まで予想してきっと夢理は私にこれを持たせたんだ。文学少年は、本当に未来まで読めちゃうのかもね。
ポケットにしまっていた夢理の手帳を取り出す。その、最後のページ。
雑にテープで張り付けられていたそれを無理やり引きはがす。本当に、ずっと持ってたとは思ってなかったんだけど。
現実は今ここにある。小さなただの布袋。
そして夢理の理想を私は知っている。
それなら、答えを出すのは簡単なこと。その二つにある差を、計算で求めて埋めてしまえばいい。
役割の違う左右の手に別々のものをインプットし、相互の干渉によって思考では追いつけなかった計算をこなしていく。
だめだ、それでも指が足りない。
目を閉じる。思考を研ぎ澄ませる。
ヒントはあった。文月さんの細い指先。
既存のモノを排除して、システムをもう一度再構成する。
指が十本で足りないのなら、そこに何かを絡めればいい。
二つの掌に収まる小さな空間に複雑な糸と意図とを補完する。
あやとり式の高度手算は私が想像していた以上の処理を見事にこなした。
解はもうここにある。
「やっと会えたね」
巾着になっていたお守りの口からオレンジ色の光が飛び出して、私の挨拶には見向きもせずに歪な波の中心に飛び込んだ。とめどなく膨張していた波が動きを止める。止まって、また動きだした。フィルムを巻き戻すみたいに収縮していく。
後で夢理に教えてやろう。妖精の羽は蝶々みたいだったよって。
「今のは、一度きりなんだろう?」私の後ろで、今在さんが憤っているのがわかった。「次はどうする?」
妖精は、私を一度守ったら逃げて行ってしまう。それはわかっていたことだった。でも、もう必要ない。
「わかったんです。あなたがどうして戦うのか。今こうして夢理を否定しようとしているのか。あなたは何もかもを信じられなくて、ずっと怯えていたんですね。存在が希薄なまま長い時間を過ごして、その上無価値に消されてしまうことをずっと恐れてた。誰にも気づかれないまま終わっていくことを怖がっていたんですね」
現実でありながら現実ではない存在。
真実を消滅させるという目的のためだけにいる存在。
その目的がなくなれば在ることを許されない存在。
その全てを知ったうえで、生かされ続ける苦悩。
「知ったような口をきくな!」突き飛ばされて、私と今在さんが向き合う形になる。
「知ってるんです」だから強く言った。「今在さんの求めているもの、全部見えたから。でも違う。あなたが欲しいものはどんなに外側を探したって見つかりません。あなたの存在する理由は、あなたの中にしかない。雪ちゃんは、それを認めてくれたんじゃないんですか」
「そんなことは関係ない!」今在さんの握る刀が頭上高くで月光を反射させる。「僕は全ての人間を守るために戦っているんだ」
刀が振り下ろされる。
「本当は、納得しているんでしょ?」
だから、私を斬れない。
刀は、もう今在さんの手の中にはなかった。だってあれはただの鉄パイプだから。人が落ちたりしないように、屋上の端で手すりとしての仕事を全うしている。
床のアスファルトは平らにならされ、貯水タンクは円柱を取り戻し、役割として、景観として、屋上を形成する一部になっている。
元の姿。多くの人間が求める姿。現実の姿。
「私たちが戦っていたのは、現実ではなかったんですね。ましてや魔女狩りでもなくて、今在さんだった。そして今在さんが本当に戦っていたのは自分の運命だったんです」
夢理の提示した『第三の道』は今在さんにとって目的を奪われ、その存在意義を失うことと同義だった。少なくとも今在さんは、そう認識することしかできなかったんだ。
「僕は、負けたのか?」呆然と辺りを眺めながら、今在さんが呟く。
「勝ちとか負けとか、最初からそんな話じゃないだろ?」ようやく動き出した夢理が、球体の戻ったタマとこちらに歩いてくる。かっこよく言ってるけど「あんた今の今まで寝てたじゃない」
くしゃっと髪を撫でられる。「ありがとな」
今おもえば、と今度は今在さんに、「現実は初めから、新しい世界を受け入れられる準備があったんだな。それをまぎれもなくあんたの意思が捻じ曲げ、愛の力で強行的に終わらせようとした。『真実』と『新実』を。それはつまり、あんたが思うよりあんたは人間だったってことだ」
現実を歪める今在さんの力がなくなったのは、きっとそのことに今在さん自身が気付いたからなんだ。
「なにもかも、僕のエゴだったのか……」
「そんなはずない、あなたは生きたいと願っただけなのに」存在を認められたいと、そう願っただけなのに。
「それが僕の守るべき世界の願いとは、『現実』の望みとは異なっていたんだ。哀れな話さ」
今在さんが雪ちゃんに近づく。
「春風夢理! 僕はこれから消える。存在を失う。世界を攻撃する理由を亡くした今、そのためだけに生きていた僕の当然の帰結だ。僕は君の世界を信じよう。それはきっと素晴らしい世界だ。僕がそれを視ることは、叶わないがね」
雪ちゃんに触れる指先が光の粒子になってサラサラと砕けていく。真実がわたしたちにくれたあの祝福の花々のように、それは美しくて、儚い景色だった。
「これが哀れな僕の最後の望みだ。君の愛に応えたい。これこそ僕のエゴそのものだけれど、僕がこれまで否定してきたそれを、否定しなければならなかったそれを、眠る君に与えさせてほしい」
そう言って、今在さんは雪ちゃんにキスをした。
今在さんかっこいいし、雪ちゃんほんとにかわいいからすごく絵になる。光そのものになりつつある今在さんに包まれて、雪ちゃんお姫様みたいだよ。ものすごく場違いにそんなことを思った。ずっと見ていたい。これで最後だなんて、そんなの誰も望んでいないのに……。
「ばーか」
そんな幻想的な景色をブチ壊すように夢理が光に触れた。
不意に夢理の意志が頭に流れ込んで、心臓が高鳴る。私の心とは関係なく体が動く。
「お前が消えたら、泣く奴いるんだぜ」
「夢理、やめて!」叫んでも、手はとまらない。思考の外側で計算式は構築され、想いとは別に解が導き出される。答えはとてもシンプルで、だけどものすごく残酷だった。
「今在光の存在を、現実に繋ぎとめる。ちょっと試してみたけど、俺にはやっぱり無から有は創れないみたいだ。昔の神様ってやつは、ほんとにすごいやつだったんだな」
夢理が笑う。本当に楽しそうに、新しいおもちゃをもらった子供みたいに、笑う。
「仕方ないから、俺の存在を変換することにした」
今在さんの光が小さくなって、もう一度人の形をなしていく。それは嬉しかった。だけどその横で、今度は夢理が――
「そんなことしたら、夢理が消えちゃう!」私は叫んだ。
「消えない。現実に存在しなくなるだけだよ。どうせ俺は新しい世界で神様にならなくちゃいけないからな。現実か、真実か、もしくは他の何かが、きっとどうにでもしてくれるさ」
なんでもないことのように夢理は言うけれど、それってなにも変わらない。これまで今在さんがずっと苦しんできたのと同じように、役割だけの存在になるってことだ。
もう誰にも、会えなくなるってことだ。
「そもそも。俺がいなくたってそんなに変わらないだろ。誰とも関わらずに、ここまでやってきたんだからな」
そんなこと、ない。
「宇佐木先生はずっと夢理のこと心配してたし」違う。
「雪ちゃんだってもっと関わりたいって」違う。
「クラスにもファンクラブなんてできちゃったりして」違う違うちがうちがう。
ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、そんなことが言いたいんじゃない!
こんな時まで、あまのじゃくでいたくなんかない。
そう思ったとたん、涙があふれた。
「やだよ! そんなのやだ! 自分一人で生きてきたみたいなこと言って、自分が消えても誰も傷つかないみたいなこと言って、それでかっこつけてるつもりかばか!」
ぬぐってもぬぐってもちっとも止まらない。
「それこそエゴだよ! 誰も一人でなんて生きてない。自分勝手に生きたっていいけど、そんなの夢理の自由だけど、人の気持ちまで勝手に決めないで! 私は……」
崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。伝えたいことがまだまだいっぱいあったから。
「私は、夢理がいなくなったら寂しいよ。ちょっと考えただけでも胸が張り裂けそうになる。神と魔女だとか、幼馴染だとか、あんたの唯一の接点だとか、そんなのちっとも関係なくて、だから迷うことも隠すことも疑うことも自分をごまかすことだって本当はちっとも必要なかった。今まで言わなかったこと、ものすごく後悔してるよ」
私の手が、夢理の腕を掴もうとして空を切る。だからもう一つも逃したくなくて光の全てを抱きしめた。
「私、夢理が好き。大好きだった。今までずっとずっとばかばっかりやってきたけど、これからもずっと、ずっと一緒にいたい」
涙と光で何も見えなかったけれど、くしゃっと髪を撫でる感触があった。
――ちゃちゃっと神様になってさ。
それはもう音ですらない。けれど意味を成して伝わってくる何か。
――ちゃんと戻ってくるから。
ほんの少しのぬくもりを残して、
――守っててくれよ、俺の居場所。
それは光の粒と一緒に、消えてなくなった。
「そんなのってないよぅ」
全てが終わって、
私は結局ただの女子高生でしかないことを思い知る。
大きな世界を変える力なんてなくて、
ましてや自分の望む世界を守ることすらできなかった。
ちゃんとわかってるつもりだ。
夢理が決めたことだから、
いつか受け止めてやろうと思う。
それでも今の私には、
泣きじゃくることしかできなかった。
「わ、こうくんおはよ。今ねー怖い夢を見てたの。こうくんともう会えなくなっちゃう夢。でも泣かなかったよ。また会えるって、信じてたから。だから、今なら少しだけ泣いてもいいかな? おかしいよね、信じてたのに……あれ、こうくん泣いてるの?」
第五章
「ひーよりーん! はーやーいー! そんなに急ぐとウサギになっちゃうよー。首から懐中時計ぶら下げてさ、『大変だぁ、大変だぁ』って」
雪ちゃんの声を聞いて、並み以下の速度で歩いていたつもりでいた私は立ち止まった。普通校舎二階から三階に繋がる階段の中腹。既視感のある光景に私は思わずはっとする。
まるであの頃に戻ったような、不思議な感覚。
けれど、やっぱりそんなことがあるはずはなくて、私たちの時間はちゃんと一年進んでいる。
雪ちゃんが運んでいるのも、今では三年四組三九人全員の進路希望だ。
「ルイス・キャロルの不思議の国のアリスでしょ」
「わわわ、文学作品にはにぶちんのはずのひよりんが成長してるー。びっくりしちゃうよ」
雪ちゃんは両手を挙げて『びっくり』のポーズをとった。
かわいいけれど、もうその手にはのってあげません。踊り場に座る雪ちゃんを無視して階段を上る。目的は五階の家庭科準備室。
「もぉー、ひよりんのはくじょーものー」と言いながらついてくる雪ちゃんを少し待って、リノリウムの廊下を進んだ。
普通校舎から専門教室の並ぶ特別校舎へ。
渡り廊下には写真部の展示で『海水浴場』をテーマにした華やかな写真が並んでいた。今年の夏はただただ賑やかで、一年前この学校でささやかな不思議が噂されていたことを覚えている人は少ない。ほんの少しだけれど、そんなことに寂しさを覚えていたりする。
「失礼しまーす。三の四の神楽日和です。宇佐木先生に用があってきました」
「同じく白野雪、まとめた進路希望を配達に上がりましたー。えっへん」
いつも通りの家庭科準備室はいつも通りの様相を呈していて、雪ちゃんがゲイジュツと呼ぶほどに、ようは散らかっていた。
「おつかれさーん。進路希望はその辺に置いといて。神楽、ちょっとこっちにきなさいな」
「えと、その辺……ってどの辺かな?」と混沌の中心で困惑する雪ちゃんを一瞥して、「はくじょーものー」な私は山(机)の向こう側に向かう。
「で、どうすんの?」宇佐木先生の手にはちょっといい紙が握られている。一応目を通してみたけれど、国語と同様英語も苦手な私がすぐに理解できたのは、表題に太文字で描かれた海外の有名な大学の名前ぐらいなものだった。
「先生これ、またこの山の中から引っ張り出しましたね?」引き伸ばされた皺が戻ろうとして、紙はA4より少し小さい。せっかくのいい紙が台無しだ。
「それはいーの!」っとにもーと言いながら宇佐木先生は自前のマグカップでコーヒーをすする。
「猪宮のおやじが、あんたに絶対にサインをさせろってうるさいのよ。そりゃね、うちの学校から世界一の大学のそれも理数学部に引き抜かれれば、教師としては鼻高々でしょうよ。でもこれは、セクハラしかできない能無し教師が決めることじゃないっての」
はい、と紙が手渡される。「あんたはどうしたい?」
「行きません」と、私はすぐに答えた。
「あたしがこんなこというのもなんだけど、悪い話じゃないよ。学費の全額免除に生活費まで学校が面倒見るってんだから、行けるもんならあたしが行きたいくらいだ」
「いいんです。実はやりたいことができたんですよ」まだ誰にも、雪ちゃんにすら話していないけれど。
「ふーん」宇佐木先生は見透かしたような顔で笑う。今ではわかる。これは理解したんじゃなくて、信頼している顔。
「なになに何の話――――のわわわわ」雪ちゃんがようやくこちらにかけてきて、何かにつまずいて倒れた。
支えようとした拍子に手に持っていた紙が破れてA5になったけれど、内容と釣り合ってよかったのかも知れない。私には初めから必要のないものだしね。
「大丈夫?」「やってしまいました。てへへ」額を赤くしてるけど、平気そうだった。まぁ毎度のことだからね。
「白野は、進路どうする?」「こうクンのお嫁さんです」「なら心配いらないっか」
先生はその辺にあった紙にメモを取って、「あと三七……いや、八人か」と小さく呟いた。
「先生って、大変ですよね。みんなの将来のことまで気に掛けなくちゃいけないし」素直にそう思う。自分のことなんて自分ですべてやれればいいのにね。
「ほんっと、正直教師なんていったって自分のことで精一杯だってのに。あたしは誰のお嫁さんになったらいいんですかーって、学生時代の担任に聞いてみようかしら」
それで解決するなら世の中天国だろうな。
「そんなに大変なのに、どうして宇佐木先生は教師やってるんですか?」
向いているようで、向いていないようで。だから聞いてみる。少なくとも私には、もっと楽な生き方が、あるように思えたから。
「それだけ価値があるのよ。あんたらの未来ってやつにはね」
ここに立つ時の記憶は、全て雨だった。
だから僕が僕として、青空を眩しいと思うのは初めてのことなのだろう。
「何を考えているの?」何を考えているの? と彼女の声がこだまする。
「いつも通りだよ」いつも通り、そう答えた。「記憶の中で、彼はそう言っていた」
僕にここでのいつもなど存在しないのに。
「魔女は、覚えているの」彼女は全てを知っているかのように、「彼とのことはみんな、魔女だけの宝物」そう告げる。
世界は物語。
物語とは時間の経過とその知覚。
僕は、物語を持たない存在だった。もしかしたら存在未満の何かだったのかもしれない。
意志を与えられた現象。
自我を持たされた災害。
世界とは、物語とは、僕にとって守るものであり、また壊すものだった。
彼女が空を指でなぞる。中空に浮いた軌跡が幾重にも重なり、複雑な模様を創って動き出す。
「君を初めて見た時、僕は初めて美しい世界を知った。もちろん今は、もっと美しいものを知っているけどね」
「魔女は彼の世界しか知らないの。だから魔女にとって世界は美しいもの。美しいものこそが、世界そのもの」
円形に描かれた魔法陣が収束するように掻き消えて、大きな紙飛行機が宙を舞う。
すれ違いざまに『鳥』が手放したソレを、僕は大切に、大切にポケットにしまった。
僕の何よりも大切なひとが、何よりも大切にしているひとの、何よりも大切なひとからの贈り物だからだ。
「彼は、夢理くんは元気にしているかい?」
この一言のために、僕はここに来た。
魔女が答える。
「元気なの。例えそれが他の誰かにとってそうでなくとも、きっと彼はそう答えるんだよ。結果は彼が望んだこと。彼が望んだとおりに世界は形を変えてゆくのだから」
「少しずつ、彼に似てくるな」僕の知らない、彼に。
「彼が彼だったように、彼も彼なの。似てると違うは同じもの。あなたもそう、彼じゃない」
全部、まやかしだった。会話の姿をした、単なる言葉遊び。意味なんてなくて、だからこそそこに意味がある。
「さようなら。詩的で素敵な真実の魔女」
「さようなら。ただの人」
扉は未来に繋がってゆく。
「ひーよりん! こっちこっち」
お昼休みの初めに用事があるといってどこかにいってしまっていた雪ちゃんに呼ばれて、私は席を移動した。待ってたよ、雪ちゃん。一人での食事が寂しかったわけではないけどね。ないんだけどね。
「およ、ひよりんなに持ってるの?」
「チャレンジ商品。今日はね、まさかのアボカドに甘だ「うん、やっぱりいーや」ぶぅ、せめて全部言わせてよ」すごいのに、こんにゃくまで入ってるのに。
「そんなことより、ねね、これこれ」じゃじゃーんと、雪ちゃんが出したのはありきたりなサイズの封筒で、いつだったかの重箱を想像していた私は拍子抜けする。
「なにこれ?」
「こうクンがね、ひよりんにって」この様子だと、雪ちゃんもよくわかっていないみたいだった。
爆発とかはしないと思うけど、恐る恐る中身を出してみる。あ、これって……
「おまもり?」そっか、雪ちゃんは見たことないんだっけ。
「これ、夢理のお守り」私を守ってくれた、あのお守りだった。あれから必死に探したけど、どこにも見つからなかったのに。
「人から、預かってきたんだって言ってたよ?」ひとから……「夢理クンかな?」
そんなはずはない。あいつが帰ってきたら、まず一番に私のところに来るはずだ。
わかっているのに、胸が高鳴る。無意識な期待感が膨れ上がって止まらない。
もし本当に夢理が帰ってきてるなら、そのとき私は「えいっ」え、雪ちゃん今なにしたの?
「何にも、入ってないね」雪ちゃんがしょんぼりしたように言う。「手紙とか、入ってるのかと思ったのに」
「お守りって、そういうものじゃないでしょ。あと中身を見ちゃったら効果なくなっちゃうんだからね」もー、と言いながらお守りを受け取る。
一応逆さにしてみたけれど、中からはぱらぱらと小さなかすが落ちてくるだけだった。雪ちゃんにあんなこと言いながら、何を期待してたんだろうね。
「ねね、ひよりん。さっきうさぴょんと話してたこと!」
「ん、どのこと?」
「ひよりんの将来やりたいことって、なーに?」ああ、その話かー、できればあんまりしたくなかったんだけどね。
「んー、ききたい?」
「話したくない?」
「いいよ。雪ちゃんにだけね。実は……小説を書こうと思ってて」
「…………………………………!」雪ちゃん雪ちゃん言葉になってないよ。
予想通りの反応だけどね。私自身ですら、今でもちょっと信じられないし。
「どしたの、なにそれ、どういうことー?」
「うまく説明できないんだけど、これが夢理を待ってる間、私にできることかなって」
真実と、現実と、それから新実と。それらをすべてをほんの少しでも知っている私があの時のことを物語にすることで、少しでも夢理の作ろうとしてる世界の助けになるかもって考えた。
ちっとも理屈が通ってなくて、だから全部無駄なことかもしれないけど、それでも「やると決めたからとりあえず諦めてしまうまで、やってしまおうと思って」
「ひよりん」どしたの雪ちゃん、瞳がうるうる。「けなげー、うぅー」
夢理がいなくなってから、一年が経っていた。
十二ヶ月。
三六五日。
八七六〇時間。
五二五六〇〇秒。
時間はそれだけ進んでいる。それぞれの物語も、同じように進んでいく。
私と夢理の時間だけが取り残されているような、そんな気がしていた時期もあった。
だけど、私にもできることがある。
文月さんがそうしたように。
夢理が守った世界を、私が愛したい。
夢理が帰ってきたときに、ちゃんと居場所があるように。
これまでよりも確かで、ずっとずっとそこにいたくなるような居場所が。
「とりあえず、小説を読むところから始めようと思ってるんだけど」
「すごい進歩だよ、ひよりん。それで調子は?」
「うん、まぁ、三ページくらい……かな」なんというか、「五日で」
「……先は長いね。あ、チャイム!」
「わ、次の授業なんだっけ?」
「体育だよ! いっそがなきゃ」
急いでパンを平らげて、着替えをもって廊下に走る。全体的に今日のチャレンジ商品はいまいちだったかもしれないな。
「あ、雪ちゃん、私お守り片付けてない!」「おっさきにー」
はくじょうものーな雪ちゃんの背中を見送って、きょうしつに戻る。この分だと遅刻は確実だな。
「あんたのせいで、また授業に遅れちゃった」お守りを掴む。
文句の一つも言えないなんて、ずるいよね。
ほかにも伝えたいことがたくさんあるのに。
たくさんたくさん、増えていくのに。
「だから――」ううん、「あんたのことなんかどうでもよくなっちゃう前に、連絡の一つでもよこしなさいよね」
本当に伝えたいことは、言葉にしなかった。あんたが帰ってくるその時まで、私はもう一度あまのじゃくでいようと思う。
窓の外の青空が、夏の続きを教えてくれる。
小説の書き出しは、もう頭の中では決まっていた。
すべての始まりじゃないけれど、
一つの世界の始まりじゃないけれど、
それは特筆すべき私の物語の、その始まり。
『好き』ってなんだろう。
『愛』ってなんだろう。
『恋』をして初めて、そんなことを考え始めた。
視界の端で、風もないのに何かが動いた気がした。




