天狗のお面
「箱清水さん、久しぶりっす」
「よう問題児。友達をつれてくるなんて珍しいじゃないか」
箱清水さんはそう勇二の言葉に答えると、ワイングラスを近くにあった小さなテーブルに置いて指を鳴らした。すると何処からともなく人数分の椅子と机が目の前に現れた。机は小物しかのせられないような小さなものだ。僕はそれをなにか夢でも見ているかのように眺めていた。不思議と全くその光景に疑問を抱くことはなかった。
「飲み物は、何がいいかな?」
彼は僕らにそう尋ねた。すると勇二が、
「あ、俺コーヒー持ってるんすよ」
そう言ってバッグから喫茶店セットをごそごそと取り出し、僕らの机にコップを置きコーヒーを注いでいった。このやろう、一応確認くらい取ってくれよ。そのコーヒー、キュウリとか入ってないだろうな。
「どうぞ、座って」
「ありがとうございます」
「で、君たちは?」
すると、隣の席に座ったひかりがまるで金縛りから解放されたかのように口を開いた。
「あ、あの、はじめまして。雲上殿ひかりです」
……知り合いじゃなかったのかよ。僕はそう思ったが、よく考えればここに来るまでの道のりをひかりは知らなかったし、何よりさっきから猫を被ったかのように静かだ。それはこういう訳か。
僕がそんなことを考えていると、箱清水さんは少し驚いた顔をして、
「雲上殿……。もしかして、あかりさんの親戚かい?」
とひかりに尋ねた。
「あ、そうです。私のお祖母ちゃんです」
「そうか! あかりさんにはとてもお世話になったんだ。今でも元気かい?」
途端に箱清水さんの声のトーンが上がった。きっと箱清水さんとひかりのお祖母ちゃんはよく知った仲なのだろう。箱清水さんはひかりをまるで旧友に会っているかのような視線で見つめた。
しかしひかりは、それとは対照的に気まずそうである。色男に見つめられて恥ずかしいのか?
「あ、元気だと思います。はい」
「なんだ、会っていないのかい?」
「今お祖母ちゃん青森なので」
すると箱清水さんは少し残念そうな顔をした。
「そうか、もし会ったらよろしく伝えておいてほしい」
「わ、わかりました。出来たら伝えます」
なんとも曖昧な返事である。
箱清水さんはそれ以上はやぶ蛇だと思ったのだろう。次は僕の方を向いた。おお、凄い目力。
「君は?」
「そいつは一樹っすよ箱清水さん、人間なのに俺らのこと見えるんですよ」
僕が返事をしようとすると、勇二が我が物顔で横からそう説明した。いま僕が質問されていたじゃないか。なんで勇二が答えちゃうんだ。
「吉田一樹っていいます。彼の言うとおり人間です。はじめまして」
勇二の言ったことの繰り返しになってしまったが、僕はそう答えた。
すると、人間だということに驚いたのだろうか。箱清水さんは目を見開いて僕の顔を凝視した。
「吉田……一樹……?」
「そうなんですよ。俺、妖怪が見える人って初めて会いました。箱清水さんも驚きました?」
勇二がそう尋ねると、一瞬間があって箱清水さんは「ああ、そうだな」と答えた。
そのあと箱清水さんは僕にいくつかの質問をしてきた。
「吉田くん、いつから君は妖怪をちゃんと認識出きるように?」
「この間、突然でしたね」
「他に何か変化は?」
何かとはなんだろう。妖怪を見ることに副作用でもあるのだろうか。
「いや、特にはないです」
その他にもいくつかのよく分からない質問をすると箱清水さんは「そうか、いや、なんでもない」とだけ言い、僕への追求はやめてしまった。その顔は、なんというかよく分からない表情であった。
「それで、聞きたいことがあってきたんですけれど」
と僕は箱清水さんに切り出した。この人なら、多くの質問に答えてくれるに違いない。外で感じた悪寒も今はもう感じないし、思ったよりも優しそうである。
「なにかな?」
「あなたは、本当に天狗なんですか?」
「ちょ、そうじゃないでしょ!」
ひかりが咄嗟につっこみを入れてきた。確かに聞きに来たのはそういうことではないが、しかし質問せずにはいられない。勇二にしてもひかりにしても一応僕の知っている妖怪の想像図にマッチしていたものだから、てっきり天狗は赤い顔で長い鼻のいかつい奴だろうと思っていたのである。なのに実物はこれいかに。全く違うではないか。
すると箱清水さんは「はっはっは」と笑いながら、「確かに、イメージとは違うかもしれないな」と言った。
そして、「君が思い描いていた私の顔はきっとこれだろう?」と続けながらなにやら物を取りだしそれを顔に着けた。
それは、天狗のお面であった。
お祭りとかでよく見るやつである。
なるほどいつもあんな怖いお面をいったい誰が買うんだと思っていたが、天狗本人が買っていたのか。納得である。
「これは所謂情報操作でね」
そう言って箱清水さんは再び話し始めた。
「天狗とはこういうもんだって言う固定観念を作るために、私が作ったものなんだ」
……なんと。なぜそんなことをしなければならないのかはさっぱり検討もつかないが、それは大成功である。なんせ僕の中の天狗のイメージはもう二度と変わりそうにない。本物が違うとしても。
「さっき君が妖怪が認識出来るときいて私は驚いたけどね、昔はそんな人珍しくなかったんだよ。むしろ、皆ちゃんと見えていたんだ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ、そうだよ。あれは日本列島ができた頃かな? いや、もっと前だったかも……」
いやいや、それ昔とか言うレベルの話ではないぞ。っていうか箱清水さん、年いくつだよ……。
「きっと君たちが聞きに来たことってこういう話だろ?だから話すけど、もともと妖怪と人は共存していた生き物だったんだ」
そして箱清水さんは妖怪と人の歴史について、僕たちに話してくれた。
妖怪と今でこそ一括りにそう呼ばれているけれど、昔はそうではなかった。所謂、人間の突然変異みたいなものだったんだよ。見た目や能力が違えど、そこに種族的な違いは存在しなかった。それぞれがそれぞれの個性として受け入れられていたんだ。しかし、それはあるときに変わってしまった。人々の脳が発達し、アニミズムが興った頃だ。霊魂の存在を感じるようになった人類は、同時に自分達の理解を越える妖怪の存在に霊的な畏怖の念を感じるようになった。
え? それが見えなくなるのと関係あるのかって? まあ説明するから。
妖怪たちを怖れた人間だったが、しかし同時にこれまで共に歩んできた妖怪たちに対しての情もあったんだ。その二つの感情は彼らを苦しめた。そして一つの解決策を編み出したんだ。そう、理解することを止めたのさ。妖怪の未知な部分を。理解を越える部分を。目では見ていても脳はそれを認識せず、自分達に都合のいいように作り替えて、彼らは妖怪をただの普通の人間として捉えるようになったんだ。「……とまあ、こんな感じだよ」
それは、あまり「ああ、なるほど」とすぐに理解できる話ではなかった。二つの感情が、とかそんな簡単な話でいいのだろうか。僕には分からなかった。
「どう?謎は解けたかな?」
箱清水さんはぼくに、そう投げ掛けた。
「どう、と言われても……。じゃあぼくはなぜ見えるのでしょうか」
「君も妖怪かもしれない」
……勘弁してくれ。しかも前にも言われた気がするぞ。
「それに、今の話では天狗のお面を作った理由は説明出来ていない気がします」
僕がそう言うと、箱清水さんは満面の笑みを浮かべて「だって顔見せるなんて恥ずかしいじゃないか」と言った。
なんだその理由は。雰囲気からして完全に黒だ。なにか隠している。けれど僕にはそれを推測することも、追求することもできなかった。
「今の話は難しくてよく分かんないっすけど、俺が聞きに来たのはそういうことじゃないっすよ」
と、今まで話を聞いていた勇二が言った。静かに話を聞いていた勇二だったが、話に入れなくてイライラしていたのだろうか。その声は少し不機嫌そうだった。それに対してひかりも「そうですそうです」とうなずく。
「俺が知りたいのはなぜひかりが人に全く見えないかってことですよ」
と勇二が続けた。そう言えばそんなことをいっていた気がする。自分の疑問で頭が一杯になっていたのですっかり忘れていた。そもそもここに来たのも僕はただの付き添いみたいなものだったはずなのに、それも完全に忘れていたみたいだ。
箱清水さんはそれを聞くと、なんだそんなことか、という顔で「それはな」と言った。
「詳しいことはひかりくんのお祖母さんに聞いた方がいいよ。よく知っているし、なにより当事者だから。ひかりくんはなにも聞いていないの?」
箱清水さんがひかりにそう尋ねるとひかりはぷるぷると首を振った。
「そうか、じゃあ言うけど、座敷わらしは特別なんだ」
……特別?
「そう、特別。妖怪の中でも座敷わらしと鬼はね」
そのときであった。箱清水さんが、「鬼」という言葉を発した時だった。突然、部屋の温度が急激に下がったような気がした。見ると、ひかりと勇二の額にはうっすらと汗がにじんでいる。少し震えているようにも見えた。
「あの、鬼って?」
僕がそう聞くと、箱清水さんは
「妖怪だよ、妖怪からすら怖れられる」
と答えた。そして、
「奴は人の記憶を食べる」
「奴は人の記憶を食べることでしか生きられず、人の記憶を食べないことでしか死ぬことはできない」
と言った。
それを聞いて僕は、背筋が凍るような気がした。
それはその存在が衝撃的だったからではなく、ひかりたちの反応におののいたからでもない。
僕に記憶が無かったからだ。
父の。
母の。
家族の。
小学校入学前の記憶が。
何もかも。
全て。