通称「聖母」
なんとか二時間目の授業が始まる前には間に合い、そこからはしっかり授業を受けた僕は、お昼の時間になって仲の良い友達にからかわれていた。
「おい一樹、今日はいつにもまして可笑しかったな」
そう言ってクックックと気持ち悪い笑いを繰り返すのは、同じクラスの朝陽優希である。
高校に入ってから最初に仲良くなった友達であり、僕のプライベートな部分も知っている数少ない親友である。明るく、大変いいやつなのだが、
「これはあれだな、お前が、彼女には霊的な魅力を感じる、って言ったときと同じくらい面白かったな」
こうやって僕の恥をことあるごとに蒸し返す所だけは変えてほしいものである。
わざわざ声マネまでしやがって、僕だって怒るときは怒るんだぞ。
まあ、このエピソードが仲良くなったきっかけでもあるので何とも言えないが。
「彼女には、霊的な……」
「ちょっと、止めなよ」
「なんだよー。似てるだろ?」
「そういう問題じゃないでしょ」
ああ、流石は聖母。本当に気が利く。彼女のあだ名を天使から聖母にクラスチェンジさせたのはやはり間違いではなかったようだ。
話に入ってきた彼女の名前は本郷渚、通称「聖母」であり、僕の数少ない親友のもう一人である。その包容力と気遣いは最早人の域を越えている、と言ってもいい。彼女の手に掛かればどんな喧嘩でも一瞬で解決。さらには揃って彼女の言葉に癒される敬虔な信者となる。僕と朝陽のことである。まさに聖母。まあ本人はこのあだ名をあまり気に入っていないようだが。
「けれど確かに、今日のあれは私から見ても可笑しかったわね」
「おっ、そうだろ?なんせ教師に向かって、うるせぇ! 黙ってろ! だからな」
朝陽はそう言って、またクックックと笑い出した。
「ねえ、霊的な魅力を感じる彼女って、誰のこと?」
ねえねえ、そう言って僕の肩を揺らすのは、雲上殿ひかりである。
そう、ひかりが教室にいるのである。
よくよく考えれば家からついてきている時点で、違和感を感じていなければいけなかった。僕はそう、激しく後悔していた。
事件は二時間目の授業中に起こった。なんとさも当然、という顔で一緒に教室に入ってきたひかりは、僕の机の隣に立ち、僕のどっか行けよという無言の合図をすべて無視し、
「ねえ、数学って楽しいの?」
「足疲れてきちゃった、椅子がほしいな」
「ねぇー、返事してよぉ」
と授業中に僕に話しかけ続けたのである。
いくら温厚な性格の僕でも、これには耐えられなかった。結果、解説をしていた新米の数学教師に怒鳴り、遅刻していたのと相まって、クラスの視線を独り占めにしてしまったのだった。
二時間目が終わりクラス中の冷ややかな目を一身に受けながら、僕は騒ぐひかりを掴んで無理やり外に連れ出した。当然である。このまま授業を邪魔されたらたまったもんじゃない。図書室にひかりを連れて行き、「ジャマしたら、今日の夕食抜きだからな」と釘をさし、ここを一歩も動くなとかなりきつく言った。その間も、ひかりの姿、声は誰にも届いていないようで、僕は一人でぶつぶつと独り言を呟き続ける変な奴となってしまった。まったく、幸福を届けるのではなく不幸を届けるの間違いではなかろうか。
しかし、こんなことをされても嫌いになれないのがひかりの凄いところである。
そのあとの授業中、廊下から教室を覗き込み、
「ねえ、怒ってる?」
「ごめんね、怒ってる?」
「やっぱり怒ってるんでしょ」
と涙目で聞いてきたのである。
いや、別に全然可愛すぎだろ、なんて思っていない。断じて違う。ただ、反省しているのだけは認めてあげてもいい、とは思った。まあ、授業の邪魔をしていることに変わりはないので、夕食抜きは決定である。
「さやかちゃんに、謝った方がいいかなぁ」
と僕は二人に聞いた。
さやかちゃんと言うのは、僕が怒鳴ってしまった数学教師のことである。数学研究室唯一の女性であり、背が低く、さらに若いことから、「数研の妖精」と陰で呼ばれている。
怒鳴ってしまったあと、とっさに「すみません、寝言です」とフォローしたのだが、信じて貰えただろうか。
「いや、大丈夫じゃね?流石に本気にはしないだろ」
「けどさやか先生、ちょっと涙目だったよね……」
聖母はそう言って、少し眉をひそめた。
「分かった。後で謝ってくる」
「おいおい、俺の意見は無視かよぉー」
「聖母のお言葉は絶対だからな」
「そのあだ名、やっぱり恥ずかしいんだけど……」
「ねえねえ、私、お腹空いてきちゃった。一樹、ご飯、ご飯」
あぁ……。いつもの楽しい三人での会話に、異分子が混ざっている……。
僕はとても悲しい気分になり、席を立った。
「あれ、どっか行くの?」
「ごめん朝陽、聖母。僕今日お昼持ってきていないから、コンビニで買って食べるよ」
僕は申し訳なさそうにそう言った。
学校の門を出てすぐ隣に、コンビニはあった。
おにぎりをいくつか買い、コンビニの裏のベンチに座る。ここなら滅多に人も来ない。
「 ほら、ひかり」
「ありがとう!」
悪意の全く感じられない素晴らしい笑顔。なんだか餌付けしている感じである。
「なあひかり、僕がご飯あげなかったらどうしていたんだ?」
「えっ! えっとね……」
僕はその時、ひかりと初めての会ったときのことを思い出した。
「ま、まさかお前、自分が見えないことをいいことに……!」
「ち、違うよ! そんなことしないもん!」
ひかりはそう言ってふるふると首を振った。
本当だろうか。何だか信用ならない。なんせ前科がある。
「私だって、人には見えなくても妖怪たちには見えるんだから……」
あっと、えっと、と、ひかりはよく分からない言い訳みたいなことをまくし立てた。
「まあいいや。それは」
いや、本当はよくはないのだが、今は後回しでもいい。差し迫った問題を解決することの方が、今は大事である。
僕は一呼吸おいて、話を続けた。
「午前中のことだ。なにか言うことは?」
僕がそう言うと、ひかりは大変困った顔をした。もじもじして、言いずらそうである。
「あの……えっと……」
「……ごめんなさい」
おい、声が小さすぎるぞ。昨日の高圧的な態度はどこへいったんだ。
僕はそんなひかりの態度に呆れてしまったが、ちゃんと謝ってくれたのでよしとしよう。根に持たないタイプなのである。
「分かった。午前中のことは水に流そう」
「ほ、ほんとに?」
「ほんとに」
僕がそう言うとひかりは途端に顔色を変えた。
「えへへ」
しまった、もう少し怒っている体を装った方がよかっただろうか。
いや、後悔しても遅い。
「その代わり、午後は邪魔をしないでくれよ?」
「うん、わかった」
そう言ってひかりはニコニコしながらおにぎりを頬張り始めた。
……絶対に分かっていないな。
僕は、午後はどんなに邪魔をされても頑張って授業に集中しよう、そう固く決心した。
時は授業が終わり、生徒たちが各々の活動にいそしんでいる頃。
場所は吉田一樹が暮らすアパートの一室。
机を挟んで向かい合うのは、人間の吉田一樹と座敷わらしの雲上殿ひかり。
互いの手元には、コーヒーとオレンジジュース。
そして今まさに、これからの共同生活についてのすり合わせ会議が行われようとしていた。
「さてひかり、君は鳥頭なのかい?」
「な、なによそれ! どういう意味!?」
……そのまんまの意味である。
昼休みに「分かった!」と気前よく言ったひかりであったが、案の定授業中にノコノコと現れ、
「なんか、眠くなってきちゃった……」
などと言ってきたのである。
三歩で忘れる、とはあくまで例えばの話だと思っていたので、実際にそれを目撃するとその破壊力は凄まじいものであった。まじありえねぇ。
「ともかく、これ以上ひかりに授業を邪魔されたら実害が出る。ひかりだって、今日人にぶつかりまくって大変だっただろう?」
「あー、もう信じられなかった! 何でみんなして私にぶつかってくるの!?」
そりゃ見えないからだろう……。
今日分かったことなのだが、ひかりは他の人には見えないし、声も聞こえないが、実体はあるので他の人にでも触れることができることが分かった。おかげでひかりは廊下を歩く度に必ず誰かとぶつかっていた。
「だから、僕が学校に行っている間は隣に来るのは止めてくれ。僕のためにも、ひかりのためにも」
「じゃあ私、何していればいいの?」
そりゃ、家で留守番、とかじゃないだろうか。そう思った僕だったが、そもそもなんで一緒にいるのか分からなくなっていた。
「……ん? ひかり、ここになにしに来たんだっけ?」
「一樹に幸福を届けに来たんだよ」
そうだった。そうだった。じゃあ仕事を終えたら共同生活なんてしなくてもいいじゃないか?
「じゃあ、ほら幸福、くれよ」
「え? どうやって?」
「……」
「……」
あれ? この前もこんな会話をしたような……。
「ねえ、そんなことよりさ、明日は土曜日でしょ?」
「え、そうだね」
今日は金曜日、明日は休みである。
「だからさ、明日、行こうよ」
「ん? どこへ?」
「忘れたのー? 箱清水さんのところへだよぉ」
ひかりは意気揚々とそう言ったが、僕がその人が天狗だと思い出すのは随分あとになってだった。