走るメトロノーム
僕の通う高校、県立長山高校は、その立地と名称から「ベースキャンプ」と呼ばれていた。高校が接している丁字路は、東、西、南の3方向になだらかに下って延びており、北側には傾斜が20°を越えるような急勾配の山脈がそびえている。この町でしっかり舗装された二車線の道で行ける最も標高が高い場所がこの丁字路であり、また最も高い場所にある建物が、この長山高校である。そのためか交通の便はあまり良くなく、鉄道の駅は徒歩30分の距離にあるものがもっとも近く、学生の多くは学校前までバスに乗るか、自転車で坂を上るかのどちらかであった。
僕はというと、学校から約1kmほどにあるアパートで独り暮らしをしている。通学は基本的に徒歩である。大事なことなので二回言おう。基本的に徒歩である。走る今日は例外である。
1限目の授業が始まるのは8時40分、そして時計の針が指し示していたのは8時37分。運動神経は中の下、高校最初の駅伝大会でつけられたあだ名は「走るメトロノーム」。そんな僕にはどんなに頑張っても間に合わない時間である。1kmの坂を3分で。どう考えても無理だ。しかし、だからといって急がないわけにはいかない。いくら遅刻は遅刻でも、できる限り早く行こうとした場合と、諦めてゆっくり行く場合とでは、雲泥の差がある、僕はそう思っている。
例えば、友達と待ち合わせをしている場合について考えてみよう。待ち合わせ時間になっても相手が来ない。そんな時、相手から電話が掛かってきた。前者は、
「ごめん、間に合いそうにないや! 出来るだけ早くするから!」
と、息を切らしながら言う場合。後者は、
「あぁ、間に合わないや。待ち時間、一時間ずらしてくんね?」
と、眠そうに言う場合。
……確実に前者の方がいい奴である。後者のような人間にはなりたくない。何故か後者の方が仲が良さそうな感じがするが、ともかく、僕は気持ちだけでも、前者のような人間になりたい、そう思っている。
だから、間に合わないと分かった状態でも、僕は迷いなく学校に向かって走り出した。微妙に上り続ける学校までの坂を。
しかし結局、その日はできる限り早く着くどころか、1限目の授業にすら間に合うことはなかった。
何故なら、途中で足を止めたからである。それは別に途中で疲れてしまったからではなく、諦めて開き直ってしまったからでもなく、後ろからついてくる雲上殿ひかりが、「まって! 置いてかないで!」と叫んでいるからでもない。
目の前に、河童がいたからである。
緑色の体、頭の上で光る純白、そして背中の大きな甲羅。間違いなく河童だ。
僕がその光景に呆気にとられ立ち止まっていると、雲上殿ひかりか追い付いた。息を切らし、恨めしそうにこちらを睨んでいる。
「ちょっと、置いていかないでよ!」
「あぁ、いたんだ」
「なっ! ちょっと、それどういう意味よ!」
ひかりはかなり怒っているようだったが、僕はそれどころではなかった。なにしろ河童である。やばいやばい。その緑色の生命体が道を歩く様子は、僕に圧倒的な違和感を与えていた。そして、その違和感をさらに際立たせているのが、周囲の視線であった。誰も気にしていないようなのである。しかもそれは決してそもそも存在自体が見えていない、というわけではなく、しっかり目視してからスルーしている、という感じなのである。近所で有名なコスプレおじさんだろうか? いやいや、いくらここに来て約半年しか経っていないとはいえ、こんな面白い人がいたら話題に上がらない方がおかしい。
「おい」
僕はそう言いながら、不機嫌そうな雲上殿ひかりの肩を叩いた。
「おい、って何よ! ちゃんと名前あるんだから!」
「あぁ、ごめん。ひかり。」
「えへへ。なに?」
……こいつ、ちょろいぞ。
僕は緑色の人物を指差した。
「あれ、なんだ?」
ひかりは僕の指差した方を見ると、驚いた顔をした。
「あっ、勇二じゃん。久々に会ったよ」
そして、僕の方を振り返り、
「って言うか、河童だってちゃんと見えてるんだ。凄いなー、一樹」
と言った。その声は、本当に驚き、さらに感心している声であった。
「勇二! 久しぶりっ!」
ひかりはそう言ってその緑色の勇二という生物の肩を叩いた。
「おお、チビ。相変わらずチビだなぁ」
振り返った河童は、そう言いながら少し笑みを浮かべ、ひかりの頭を無造作に撫でた。
「ちょっ、ちょっと止めてよ!」
なんとも微笑ましい光景である。
河童は思ったより若いようだった。整った顔にスラッとした体格、笑った顔はなんとも人が良さそうであり、なかなかの好青年、いや、かなりのイケメンであった。緑だが。
「なあ、ひかり、紹介してほしいんだけど」
「あぁ、ごめん。こちら、河童の勇二君です。私より2歳年上の幼馴染み。勇二。彼は人間の吉田一樹。私の仕事相手です」
「どうも。初めまして。」
僕がそう挨拶をすると彼は、
「本当かよ! 妖怪がちゃんと見えてる人なんて初めて会ったわ!」
そう言ってバンバン僕の背中を叩き出した。
……馴れ馴れしい奴だ。
残念なイケメン、という感じだ。甲羅を背負った。
「本当に、見えてんのか?ほら」
彼はそう言って、自分の体を指差した。
「何色?」
「緑、ですかね」
「うおー!すげーな!」
よほど嬉しいのか、彼はニコニコしながら再び僕の背中をバンバンと叩いた。
……鬱陶しいことこの上ない。
おいひかり、お前もニコニコしていないでこいつをどうにかしてくれ。
目でそう訴えるが、ひかりにそんなことが伝わるはずもなかった。
「あの。質問があるんですが」
「なんだ?何でも聞いてくれ。答えてやるぞ。あ、この甲羅は取れないからな。羨ましくてもあげられないぞ」
「別にほしくないですよ」
僕は軽いため息をついた。この人とはちゃんとした会話が出来そうな気がしない。
「妖怪についてもまださっぱり分かってないんですが、見える人間っていうのはそんなに珍しいんですか?」
「んー。珍しいって言うか、会ったのはお前が初めてだし、今までそんな人間聞いたこともないなぁ」
……マジかよ。自分はいつの間にか大変特別な人間になってしまったようである。
「他の人には見えてないってことですか?」
僕は次にそう尋ねた。すると彼は、とたんに似合わない気難しそうな顔をした。
「んー。何て言うか、見えているけど見えていない、みたいな?」
なんだそれは。
「おお、その顔まじで恐いから止めてくれよ。だからな、俺は人間から河童としてじゃなくて、人間として見られてるってことだ」
どうだ、分かりやすいだろう。そう言うと彼は拳を腰にあて、盛大にどや顔をした。
すると今度は、ひかりが気難しそうな顔をした。
「え、河童は人に見えるの?」
「え?」
「え?」
おいおい、何で妖怪同士で話が食い違うんだ。僕は呆けて口を開け、見つめ合う二人の妖怪を見ながらため息をついた。
「あのー、大丈夫?」
僕がそう言うと彼らは、ブルッと身震いをして、かと思うと、二人して大声で騒ぎ出した。
「えぇー! か、河童は人に見えるの?」
「いやいや、見えないよ! 見えないけど見えてるよ!」
「な、なによそれ! 意味わかんない!」
「いやいや、分かんないのはこっちだわ。人に見えないって、透明人間かよ!」
「ちょっと、二人とも落ち着け、落ち着け」
「「落ち着けるか!」」
双子のように息を合わせてそう言うと、彼らは少し落ち着いたようだった。
「俺らじゃ埒があかないや。誰か知っている人、そうだ、お前のばあちゃんなら何でも分かるんじゃねえのか?」
河童はそうひかりに問いかけた。
たが、ひかりはふるふると首を振ると、
「おばあちゃん、今青森だから、聞きに行くには遠いよ」
と答えた。
なんだか分からないが、ひかりのおばあちゃんは大変物知りなようだ。
「そうか、残念だな。じゃあ……あ! 箱清水さんなら分かるんじゃないかな」
「そうか!あの人ならすぐに会いに行けるし、いいかも!」
「よし、じゃあ俺はこれから仕事があるから、そっちも用事終わったら連絡してくれ。行くときは一緒に行こう」
「連絡、どうやってしたらいい?」
「駅前の喫茶店で俺働いてるから、そこに来てくれればいいよ」
「分かった!ありがと!」
「まてまてまて!」
僕は勝手に話を進める二人になんとか割って入った。
「箱清水さんって、誰?」
そう僕が言うと、彼らはそんなことも知らないのか、というような呆れた表情で、
「誰って、天狗だよ」
と言った。
僕はこれで三つ目になる未知の生物の名前に、一瞬理解が遅れ、
「あっ、学校」
そう呟いた。
何重にも巻かれた太い鎖の軋む音と、獣のような唸り声が、その小さな洞窟に響いていた。
その筋肉質の腕にはいくつもの傷がつき、あちこちから血が、滴り落ちていた。
男は、限界を迎えていた。
そこに、もう一人、男が現れた。
背の高い男だ。
男は縛り付けられた男を見ると、悲しそうな目をして、振り絞るように言った。
「頼むから、もう止めてくれ……」
しかし、男にその声は届かない。
男は、最早その目から理性を失いかけていた。