その頃
維明は、例によって、維心の留守に入れ替わりに来ていた将維と共に、巻物を前に政務の進め具合の指南を受けていた。将維は、維心とはまた違った形で政務を執り行っていて、それを知ることも大変に学びになるので、維明はいつも、こうして将維のやり方も聞いて覚えていた。
その最中、ふと将維が顔を上げた。維明が、窓の外の空を眺めて眉を寄せている将維を見上げて、不思議そうな顔をして問いかけた。
「お祖父様?何かおありでしょうか。」
将維は、まだじっと夕闇迫る空を見つめながら、言った。
「…主には気取れぬか。月の結界が消滅したのだ。」
維明は、びっくりして自分も急いで月の宮の方角を見た。自身の身を流れる月の力と共鳴して、遠く月の宮に、結界が無いことを気取った。
「まさか…十六夜に何か?!」
しかし、将維は首を振った。
「月自体は特に何もない。力を抑えられておる程度であろう。前にもこのようなことがあった…仙術を使って、十六夜の力を封じて宮を占拠しようとしたのだ。では、これは恐らく鵬明が動いたの。」
維明は、慌てて立ち上がった。
「援軍を!月の宮には、3000の兵しか居りませぬ!」
しかし、将維は座れ、と手で命じた。
「必要ない。維明、今月の宮には父上が居るであろう。代わりに父上が結界を張るであろうから、宮は案じることはない。軍神も、今や我が軍の力と大差ないのだ。数が少ないだけで。」
維明は、渋々椅子に座り直しながら、将維を見た。
「しかし、なぜにこのように性急に?いくら父上がけし掛けられとはいえ、相手は今まで尻尾を掴ませなかった輩。これほど無謀に、月の宮を侵略しようとは思わぬはずなのに。」
将維は、ふっと息をついた。
「それは、我もそのように。しかし恐らくは、死に場所を探してたどり着いたといったところか。」維明が目を丸くするのに、将維は片眉を上げて維明を見つめた。「鵬明は闘神だ。闘神の種族は皆、戦場で散ることを望むもの。我ら龍とてそうぞ。主は太平の世に生まれておるゆえ、分からぬかの。」
維明は、視線を落とした。闘神…確かに、立ち合いで胸が騒ぐことはあるが、まだ実感はない。
将維は、そんな維明からまた視線を外すと、窓の外の空を見上げた。
「父上に証拠を握られたことを知ったのであろう。ならば、一族ごと滅しられるのを防ぐためには、こうして戦って散るよりない。父上が宮へ侵攻して来る前に、他へ向かってそこで散る。残った種族は罰しられようが、王や軍神が戦場で散っておったならその限りではないの。残った力のない神達は、大概が哀れまれて命だけは助けられることが多い。ま、大概の王は、それを知っておって最後には篭城し、何とか己の命を最後まで永らえさせようとするものだが、鵬明は討って出ることを選んだのであろうて。」
維明は、戦というものを体験したことはなかった。なので、神世が戦のその後どう反応するのか、そんなことも全く知らなかった。書を読んで、その後の処理のことなどは知っていたが、そんなゴシップのようなものは、その時その時しか話されないからだ。
維明は、将維からそれを聞かされて、鵬明の覚悟を知った。そうまでして、なぜに龍に抗おうとしたのか…。
維明には、分からなかった。
鵬明は、嘉韻とまだ立ち合っていた。
嘉韻の速さはやはり並ではなく、自分に匹敵するその気はまるで無尽蔵に湧き上がる泉の前に居るかのようだ。もはや軍神としては盛りを過ぎている、鵬明には荷が勝ちすぎる相手だった。
回りに居る鵬明の軍神達も、何とかして自分の王に加勢しようとするものの、二人が早すぎるため手が出せずに居た。
鵬明は、後ろに居る軍神に気を取られて、一瞬嘉韻から気が反れた。嘉韻は、その一瞬を見逃さなかった。
「ぐ!!」
鵬明は、呻き声を上げた。刀がその手を離れて宙を舞う。嘉韻が、刀を振り上げた。
「お覚悟を!」
嘉韻は、思い切り刀を振り切った。鵬明は必死に気を込めて腕の甲冑でそれを受け、その衝撃で地上へと落下して、背を強く打ち付けた。
「う…、」
鵬明は、起き上がろうとしたが、気が消耗している上に全身を打ち付けたショックで体が動かない。嘉韻が、薄っすらと赤く目を光らせて刀を手に飛び降りて来た。
「これで留めぞ!」
「王!!」
回りの軍神達が、必死に身を投げ出して鵬明を庇おうと飛んで来るのが見える。しかし、間に合わぬ。
鵬明は、これで何もかも終わるのだと目を閉じた。
その少し前、維心と炎嘉はそこへ到着し、皆が戦っている様をもっと高い上空から見下ろしていた。
「…フン。嘉韻はやはりこの宮の筆頭か。」
炎嘉が、横からふふんと笑った。
「面白うないであろうが。」炎嘉は維心を小突きながら言った。「さすがにあの維月が、記憶がないままに選んだ相手であると思うたのであろう。」
維心は、キッと炎嘉を睨んだ。
「違う!維月が選んだのは我ぞ!嘉韻は、我の情けで見逃してやっただけ。それを違えるでないわ。」
炎嘉は、はいはいと手を振った。
「偉そうに言うて。しかし主が維月を離縁しておった時は、あやつは間違いなく維月の夫であったのだからの。嘉翔は健やかに育っておるのだと聞くぞ?あれの息子となれば、次の筆頭にも困らぬし蒼も心強いであろうの。」維心が反論しようと口を開きかけているのに、炎嘉はお構いなく続けた。「無駄話は後ぞ。そら、鵬明がもう持たぬわ。どうするのだ。このままあれの望み通りに逝かせてやるか?嘉韻はヤツを仕留めるぞ。」
維心は、じっと嘉韻と鵬明が立ち合う様を見つめた。確かに、もうあと数分か。
このまま、鵬明が死ねば、事は終わる。恐らく宮に残っている者達は、力のない臣下ばかりであろう。力のある軍神達は皆ここで死ぬことで、皆己の家族や子を守ろうとしているのだ。そうすれば、発覚した帝羽の件も責を負わされることはない。
「い、維心様!」急に後ろから、蒼の声が息を切らせて話しかけて来たので、驚いた維心は振り返った。後ろには、十六夜も、その向こうには箔炎も見える。維心が何事かと見ていると、蒼は維心の前で止まって言った。「維心様!どうか、鵬明や他軍神達を助けてやって欲しいのです!何か方法は…」
「ない。」横から、炎嘉が答えた。「蒼、まだ懲りぬか。ここで鵬明を無罪放免になど出来ぬ。分かっておろう、公青の二の舞にはしとうないのだ!」
しかしそれには十六夜が答えた。
「うるさいぞ、炎嘉!オレの敷地内で人殺しなんてこれ以上たくさんなんだよ!とにかく、今すぐ止めてくれ!そもそもここをダシに使ったのはお前らの勝手だろうが!勝手に他人んちに敵をおびき寄せて罠なんか張るな!迷惑なんでぇ!」
蒼は、こんな時なのに苦笑した。十六夜の言い方が、あまりにも的を射ていたからだ。確かに、他人の家の敷地内に罠を張って獲物をおびき寄せて大騒ぎするなんて、大概迷惑な話だ。
維心は、黙っていたが、ため息をついた。
「…仕方のない。ま、我もあれを楽に死なせるつもりもなかったゆえ。」と、下を見た。「もう、危ないの。」
鵬明が、嘉韻に刀を奪われた上、地上へ叩き付けられた。嘉韻は、止めを刺そうと刀を縦に持ち替えて真っ直ぐに降りて行く。蒼が、慌てて叫んだ。
「嘉韻!やめよ!」
「無理ぞ。」維心は、軽く手を上げた。「それが聴こえたとしても、嘉韻には己で己を止められぬ。あの勢いではの。」
嘉韻は、地上へと刀を突き立てた。しかし、そこには鵬明の体は無かった。急いで回りを見回した嘉韻は、遥か上空に数人の神が浮いているのを見て取った。
「王!」
嘉韻は、すぐに上空へと浮き上がった。他の鵬明の宮の軍神達も、同じように叫んだ。
「王!」
そして、上へ浮き上がって来ようとするのを、炎嘉が広範囲に気の膜を張って、下へグッと押さえつけた。
「己らはそこへ居れ。」と、維心を見た。「して、それはどうする。」
維心は、自分の手の先を見た。そこには、鵬明が維心の気に捕まえられた状態で浮いていた。
「もはや死んでおるようなもの。どうするとて、これもさして気にしておらぬのではないのか。」
鵬明は、食い縛った歯の間から言った。
「なぜに助けた!殺せ!」
維心は、目を細めて鵬明を見た。
「別に助けたつもりなどない。主が楽になろうとしておるから、気に食わぬでな。どうせ逝くなら、全て吐いてからにせよ。」と、そのまま足を緑青の宮の方へと向けた。「蒼、我らはこのまま緑青の宮へ参る。十六夜の力を封じておる仙術を解かねばならぬが、それを出来るのは誰か。」
「我が。」嘉韻が、蒼の側に浮いて、言った。「以前のものと同じであるなら、出来まする。」
十六夜は、気遣わしげに維心に掴まれたままの鵬明を見た。
「今度の仙術は、別に大々的に力を封じられてるわけじゃねぇよ。こうして普通に人型だって取れてるし、難なく飛べる。だから急ぐことはねぇよ。」
維心は、呆れたように十六夜を見た。
「あのな十六夜。結界はどうするのだ。また我に長く張っておけと申すのではないだろうの。あそこには維月が居るのだ。早よう己で結界を張って守らぬか。維月だけなら我も守り続けるが、月の宮まで守る謂れはないぞ。己の領地であるのだから、責任を持て。」
炎嘉は、自分が張った膜の下で必死に上へ来ようとしている軍神達を見た。
「ほれ、このように。前のように気を奪ってどうにかしてもらわねばならぬからの。とにかくは」と、炎嘉は何かの力を下へ向かって放った。途端に、軍神達はバタバタと音を立てて地上へ落下して行く。「こうやっておとなしくさせておくかの。」
維心も頷いて、手を上げた。すると、鵬明を掴んでいるのとは反対側の手から、一気に広く気が拡散し、地上へ向かって照射された。
「うわ!」
明人が叫んで必死にそれを逃れて上空へと飛び上がる。月の宮の軍神達は、それと同じように皆、必死に逃れて上へと飛び上がって来た。あっちこっちでバタバタとまた、軍神達が地上へ落下して行く。
「維心様、炎嘉様?!」
蒼が焦って叫ぶと、炎嘉がちらと蒼を見た。
「あー主の言いたいことは分かっておる。殺しておらぬわ。案じずとも、皆生きておる。もっとも、その前に死んでおる軍神のことは知らぬがの。」
蒼は、ホッとして下を見た。たくさんの軍神達が、折り重なるようにして地上に倒れている様は、まさに戦場の凄惨な状況を思わせた。
蒼は、側に浮く嘉韻に言った。
「負傷者を探せ。すぐに宮の治癒の対へ。他の軍神達は、気を失っておるだけであるし、そのまま放って置いても良い。主は、仙術を解くために維心様達と一緒に行ってくれ。」
嘉韻は、頷いて立ち上がると、他の軍神を振り返った。
「負傷者を探せ!宮へ運ぶのだ!」
途端に、わらわらと部隊別に分かれて皆が今まで戦場であったところを飛び回り始めた。維心と炎嘉は、箔炎を見た。
「我らは、緑青の宮へ参る。主、すまぬが月が力を戻すまで、こちらで見張っておってくれぬか。中には気がつくやつも居るやもしれぬ。なに、仙術を解くまでのことよ。」
箔炎は、うんざりしたような顔をしたが、頷いた。
「わかった。任せておけばよい。」
そうして、維心と炎嘉は、鵬明を捕まえたまま、嘉韻を連れて緑青の宮へと向かったのだった。




