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苦悩

月の宮では、夜を迎えていた。

箔炎は、地の宮に使いを出して、しばらくは月の宮に居る、と、理由と共に陽華に知らせていた。自分の責務はまだ分からないが、とりあえずは目の前の問題を解決することに手を貸すのが一番だと思ったのだ。義心は、こちらの様子を知らせよと命を受けているので、龍の宮へと帰っていた。

蒼は、まだ緑青を訪ねて鵬明にくみしてはならないと説得すると言って聞かなかった。自分が少なからず絡んでいるこの状態で、いくら世のためでも緑青が犠牲になるのが耐えられないらしい。

そんな考えでは王として世を守る事は出来ぬと箔炎は説得するが、蒼は考えを変える様子はなかった。

「ならば、維心に知らせてからにするが良い。」箔炎は、自分では説得出来ないとそう言った。「この世を統べているのは維心。何か起こった時に、その後始末をするのもあやつぞ。主には出来まい…力だけあっても世はまとまらぬ。」

蒼は、痛い所を突かれて下を向いた。確かに、今まで維心に頼ってばかりだった。自分が緑青を止めて、そしてまた闇に潜る鵬明の企みを、再び暴いて罰するのは、維心にしか出来なかった。

すると、戸口の方から声がした。

「その必要はないぞ。」入って来たのは、維月と、その肩を抱いた維心だった。「義心から聞いた。蒼がごねて箔炎が困っておるとの。」

蒼は、維心の姿を見て、居心地悪かった。まるで、いたずらしようとしていたのを親に見付けられた子供の気分だった。

「維心様…。」

蒼が呟くように言うと、維心は困ったように笑った。

「主の性質なら緑青に知らせたいであろうの。維月も訳を聞いて同じ事を言うた。だがの、戦になることを思えば、犠牲は少ない。それに、緑青は迷うておるのであろう…もしやあれが、ここへ鵬明の企みを知らせて来るやもしれぬではないか?あれの命は、変わらずあれが握っておる。結局は、あれが決める事なのだ。信じて待つが良い。」

しかし、蒼は訴えた。

「ですが維心様、友の事なのです!緑青に友を裏切る決断をさせよと?」

維心は、首を振った。

「そうではない。友であるなら、同じ破滅の道を歩いてはならぬのだ。間違っておるなら、これ以上道を踏み外さぬうちに、正してやらねばならぬ。これが仮に炎嘉だとして、我は遠慮なく刀を抜いた。逆も然り。世を乱す、つまりは己の守るべき民まで巻き込むのだぞ。戦乱の世がどれ程に酷いものか、主には分からぬかの。」

維月が、それを聞いて下を向いた。維心が見て来た殺戮の時代を、その記憶を見る事で知っているのだ。他の宮まで巻き込み、誰もが安心して暮らせない、いつ誰が攻めて来るかもわからない世…。確かに蒼には、想像も出来ないのかもしれない。

蒼は、また下を向いた。自分には、誰かを助けるために、誰かを捨てることが出来ない…。だが、維心は個よりも全体を見ているのだ。それは、箔炎も、炎嘉もそうだった。

「蒼。」維月が、進み出て蒼の肩に触れた。「分かっているわよ。あなたは私が育てたんだもの。小さな頃からとても優しい子で花も踏み潰さない性格だったわ。でも、人ではないから…神同士の戦いは、とても激しくてその犠牲は計り知れないわ。人すら巻き込んで、古来から起こって来たことなの。このまま、緑青を信じて待ちましょう。」

蒼は、維月を見た。人の頃、五人の子を育てた母。こうして月になって、すっかり忘れていた感覚を思い出したのだ。

「わかったよ、母さん。」

蒼が、うなだれながらもそう答えると、箔炎も維心も、まるで自分の息子を見るような目で蒼を見て、微笑んだ。誰もが通る道…。そう言っているように、蒼には思えた。王は、自分の感情と必要な事の間で、きっと悩むのだ。そして、必要な事を選ぶようになって行くのだろう。

すると、そこへ翔馬が入って来て頭を下げた。

「王。炎嘉様がお越しになりました。それから、鷹の宮からの書状と、地の宮の陽華様から箔炎様への書状もお持ち致しました。」

蒼は、顔を上げた。

「炎嘉様は、お通ししてくれ。」

翔馬は、頷いて書状を蒼と箔炎に渡し、炎嘉を呼びに出て行った。蒼が書状を開けて見ていると、箔炎が先に自分宛の書状から顔を上げた。

「維心、箔翔が公青の妹を娶ることにしたようだ。陽華が、宮から連絡があったと知らせて来た。」

蒼も、遅れて書状から目を上げて言った。

「はい。こちらにも、そのような知らせが参っておりまする。」

維心は、片眉を上げると、維月を見て頷いた。

「まあ、王座に就いた途端にたくさんの縁談が一気に参ったであろうしの。しかし、選んだのが公青の妹とは。」

箔炎は、考え込むように言った。

「…あれにも、そんな良識があったのか。今この時に、公青を押さえるとは。」

維心は、微笑んで維月を伴うと側の椅子へと腰掛けた。

「子は、親の知らぬ所で成長しておるものよ。それにしても、箔翔は鵬明の動きを知っておったのかの。」

そこへ炎嘉が入って来た。そして、箔炎と維心、それに蒼を見て驚いたような顔をした。

「何との、皆ここに?龍の宮へ行ったら、ここだと言われてこちらへ来たのだ。それに箔炎、主無理はならぬのではないのか。」

箔炎は、炎嘉に左手首を上げて見せた。

「碧黎よ。100年、先延ばしになった。だがの、責務が残っておるとかで延ばされたので、こうして出掛けて来ておるのだ。して、主は何ぞ?」

炎嘉は、側の空いている椅子へと腰掛けた。

「箔翔が公青の妹を娶ると書状が来たゆえな。ならばもう、ここしか残っておらぬと思うた。」と、維心を見る。「主もそうであろうが、維心。」

維心は、炎嘉を見て肩をすくめるような仕草をした。

「いや、我は来ても来なくても良かったがの。事が起こってから間に合わなんだらどうするのだと維月にせっつかれて、急がされたのだ。ま、確かに我が居ったほうが事は早よう終わるのだがな。」

炎嘉は、フッと肩で息をした。

「どう終わらせるのかは聞かずに置こうぞ。して、様子はどうよ。」

維心は、首を振った。

「まだ何も。ここへ来る前、維月と共に飛びながらあちらを読んだが、静かなものよ。決めかねておるのであろうの。」

炎嘉は、息をついて椅子にもたれ掛かった。

「待たねばならぬか。義心はどうだ。」

維心は、頷いた。

「鵬明の宮から、若い、義心でも顔を知らぬような軍神が一人、緑青の宮へ行ったとは聞いておる。恐らく急かしておるのではないかの。帝羽が生き残って、我が宮へ戻ったのを気取ったであろうから。」

炎嘉は、維心の方へ身を乗り出した。

「ああ、それよ。主からの書状は読んだが、ならば鵬明が黒であることは証明されたのではないか?宮へ攻め入っても良いのではないのか。」

維心は、首を振った。

「いや、まだ早い。あやつは李俊一人に罪を擦り付けて己は逃れる手を考えるだろう。あやつが出て来ざるをえぬ状況を作り、押さえたいのだ。緑青が迷うておるなら、良い傾向よ。あれは痺れを切らして、己で緑青の宮へ来るやもしれぬ。そこを押さえるのだ。」

箔炎は、感心したように維心を見た。

「何ぞ、主は端から緑青の性質ならなかなかに仕掛けて来れぬのをわかっておって、策を講じたのか。相変わらず、よう考えておることよ。」

蒼は、それを聞いて下を向いた。緑青は…つまりは、人がいいのを利用されているということなのか。

世を治めるためには必要な事かもしれないが、蒼には納得出来ない事だった。

蒼はしかし、何もその事には触れずに言った。

「…では、本日はもうこのような時間でございますし。部屋へ案内させましょう。どちらにしろ、待たねばならぬのでしょうから。」

維心は少し眉を上げたが、頷いた。

「では、我は我の対へ行く。炎嘉も箔炎も、その時のために休めば良い。」

そうして、皆は部屋へと引き上げて行った。

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