義父
維心と対面した日の夜、帝羽は自分に宛がわれた客室で、宮の書庫から持って来た書を大量に読みながら、必死にいろいろなことを学んでいた。早く、世の動きを知って、龍王が何と戦っているのか、自分はどんなことに巻き込まれているのか、せめて推察ぐらい出来るようにならなければならないと思ったのだ。
誰から譲り受けたのか、自分は術には大変に長けていた。巻物を一度に読んで頭に入れるなどお手のもので、昔からそれは、誰に教わったのでもなく出来たので、誰にでも出来るのだと思っていた…だが、気の大きさによって、出来る事と出来ない事があるのだと、経験から知った。自分は、大抵のことは出来た。親のように思っていた軍神は、龍であるから水の技が得意だろうといろいろ教えてもらったが、確かにそこに居る誰よりも強い技を出すことが出来たが、しっくり来なかった。だが、言われるままに、ずっとそれを使うようにしていた。
だが、ある日まだ体が小さかった帝羽を狙って、賊が斬りかかって来た時、帝羽の回りには軍神が誰も居なかった。帝羽は、もう駄目だと思いながらも、必死に術がなんだと考えずに気を放った…しかし、いつまで経っても何の衝撃もなく、水を打ったように静かだった。恐る恐る目を開けると、自分を襲った賊は一人も浮いていない。びっくりして回りを見ると、遠く回りの木々が燃え上がり、火の柱に囲まれていた。そして、その下には、自分を襲った賊が、黒こげになって力尽きていた。
見ていた軍神は、小さな帝羽の体から火柱が上がり、全てを一瞬にして焼き払ったのだと言った。そして、こうも言った…「帝羽、長生きしたければ、主はこれを使ってはならぬ。あくまで龍として、水の力を使うのだ」。
帝羽は、どうしてなのか分からなかったが、しかし忠実にそれを守って、それ以後その力は使わなかった。
幼い頃から、自分に生きる術を教えてくれた、桐…。近くの宮に世話を受けている、通いの軍神なのだと聞いていた。つまりは、宮に直接召抱えられている、血筋正しい軍神ではなく、はぐれ神の集団が、宮の役に立つことで契約しているだけの、つまりは使い捨てにされるような事もあるような、厳しい神の集まりだったのだ。
帝羽には、そんなことは知る由もなかった。現に、そこを離れて采の宮へ行くまでは、何も知らずに生きて来た。それでも、そんな厳しい状態であるにも関わらず、桐は自分の面倒を見てくれたのだ。厳しい師匠だったが、厳しいだけではなかった。桐は、本当は何も知らなかったのではないか…。あの龍玉も、誰かから母の遺したものだと言われて、自分に渡しただけではないのか。
帝羽が、巻物から顔を上げて物思いにふけっていると、不意に庭から、何かの気配がした。
『帝羽殿。』
それは、忘れもしない、仲間同士で使っていた、念とは少し違う、空気を震わせて伝える声だった。帝羽は、顔を上げた。
『何用か。』
すると、その声は言った。
『桐殿の、お命が狙われておりまする。』
帝羽は、思わず立ち上がった。桐が…確かに、恨まれる心当たりは、山のようにある。何しろ、言われるままにいろいろな神を討伐して回った仲間の長なのだ。
『厳しいのか。』
相手の声は、頷いたようだった。
『相手は、賊ではありませぬ。桐殿を使っておった、先の宮の王。恐らくは、もう用済みと軍神達を差し向ける魂胆かと。』
帝羽は、身を震わせた。ならば、桐達は一溜まりもない…自分が居た時ならいざ知らず、宮の洗練された軍神達に、敵うはずなどないのだ。何より、自分は誰より突出した気を持っていた。なので、皆を守る役目も果たしていたのだ。
しかし、今は龍王の結界の中。事態が収まるまで、ここに居ると約したばかり…。
『我は、ここから出ることは敵わぬ。龍王の結界が守っておるのだからの。』
相手の声は、促すように言った。
『南の庭を、奥へ。池の向こう側、岩の間から、下へ。それで宮の結界は抜けまする。その際、炎の結界を張って通ってこられるように。後は、我ら領地の結界を抜ける道をお教えしましょうぞ。』
帝羽は、頷いて迷わず自分の甲冑に手を掛けた。桐を助けねば…。そして、桐の口から全てを聞こうほどに。恐らく桐も、何も知らなかったのだ。利用されておるのだ!
帝羽は、素早く甲冑を見につけると、言われた通りに庭を進んだ。帝羽の心には、桐のことしかなかった。
維明は、帝羽が弟でなかったことに、少なからずがっかりしていた。しかし、母のことを考えても、それでよかったのだと思うようにしていた。よく考えるとあの父が、母以外に興味を示すはずもなかった。それでもこれからしばらくは、帝羽がここに滞在して龍を学ぶのだと聞いて、友のように過ごそうと気持ちを明るくしていた。
そんな維明は、帝羽の部屋へと話をしようと訪れた。しかし、そこには帝羽は居なかった。テーブルの上には、大量の書が積まれてあった。中には、読みかけではないかといった物まである。どこへ行ったのかと回りを見回した維明は、側の寝台に、帝羽の袿が放り出されてあるのが目に付いて、そうして、そこにあったはずの甲冑がないのに気付いた。
「…まさか、帝羽?!」
父上の結界を、破れるはずはない。
維明は、すぐに帝羽を捜して庭を低空に勢い良く飛んだ。
帝羽の気は、すぐに気取ることが出来た。炎の気が感じ取られて、池の向こうの、結界の綻びと呼ばれている所を、まるで知っているように抜けて行く。確かに、宮の結界はこれで抜けられる。
維明は、まさか帝羽は、偽りを言っていたのかと、ショックを受けていた。結界の綻びまで知っていて、こうして逃れて行こうとしている。しかし、父の力は絶対だった。こうしている間も、もしかして見ているのかもしれない。どうしても、父上に気取られぬうちに、帝羽を連れ戻さねば…。
維明は、必死に帝羽を追った。
そして、宮の結界を抜けて前の森に入り、帝羽が炎の結界を解いたのを見計らって、突然に前へと飛び出した。
「帝羽!」
帝羽は、突然に飛び出して来た維明に、サッと構えた。そして、それが維明だと知ると、息をついた。
「維明殿。我は、行かねばならぬのだ。」
帝羽は、先を急ごうと歩き出す。維明は、前に回って首を振った。
「帝羽、父上の結界は破れぬ。炎嘉殿でさえ、かなりの力を使ってやっとのこと破れるかもしれぬと言っていたほどの力。弾かれるだけではないぞ。」
帝羽は、維明を睨んだ。
「それでも、ぞ!知らせが来た。仲間が命を狙われておるのだ。我が抜けたあの軍は、今はあまり無理な任務は受けておらぬのだと聞いた。そんな仲間が襲撃されれば、間違いなく終わりぞ!」
維明は、負けじと帝羽を睨んだ。
「帝羽!父上の力を知っておるだろうが!絶対に無理ぞ、諦めよ!ここを出るのは、無理だ!」
帝羽は、道を塞ぐ維明の胸倉を掴んだ。
「我の親代わりであった男ぞ!主は、その親が殺されようとしておると聞いて、じっと篭められておるというのか!」
維明は、息を飲んだ。親代わり…では、育ててくれたという、軍神か。
「では…主をずっと世話しておったという、軍神か。」
帝羽は、我に返って維明から手を放した。そして、横を向いた。
「…桐と申す。我がまだ母と暮らしておった時から、通ってくれておった軍神ぞ。桐が言うには、あれは命を受けて来ていただけだとのことだったが、その後もずっと、小さな我を伴って、足手まといになるのを知りながら世話をしながら戦っていた。何と危ないことをと思うかもしれぬが、そうして置かねば誰にさらわれるかわからなんだからだ。皆が出払った屋敷に子供が一人居ては、どうなるか分からぬ土地柄であったゆえ。」
維明は、絶句した。そんな世界に居たのか…我など、乳母や母、軍神達に囲まれて守られ、父の最強の結界に守られて、安穏と育った。それなのに、帝羽は戦いの場で育ったのだ。
帝羽は、維明に訴えた。
「行かせて欲しい、維明殿!我は、桐を助けたいのだ。そうして、我にああ言って龍玉を渡したのは、誰かの指示であったのか、それとも何も知らなかったのか、問いただしたいのだ!どうしても、我はここを出なければならぬ!」
維明は、帝羽の必死な様子に、言葉を失った。我は、ここまで何かを守ろうと戦ったことがあっただろうか。与えられたものの中で、与えられたように平和に暮らしておっただけではないか…。
じっと自分を見つめる帝羽に、維明は見つめ返した。そして、踵を返した。
「こちらぞ。父上の結界の中だが、月の力が強い箇所がある…そこを、我の母から受け継いだ陰の月の力で抜けようぞ。月は、結界に掛からぬ。」
帝羽は、驚いたような顔をしたが、すぐに頷いて維明に続いた。
「恩にきるぞ、維明殿。」
そうして、二人は森を抜けて、龍の領地を抜けて北へと向かった。




