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想い

結蘭は、自室で昇って来た月を見上げていた。

鷹の宮の即位式は、本当に緊張するものだった。それでも、初めて見たほかの王の宮に、珍しくてついうろうろとしてしまったことも事実。美しい庭、美しく広い設えの部屋、歴史を感じさせる構え。

全てが、夢のようだった。

そして何より、鷹王・箔翔の美しさには目を見張った。結蘭は、宮から出たこと自体がなかったので、兄王の公青以上に美しい神など見たことがなかった。しかし、あの兄が戦を起こした折に、龍王と元鳥王だという二人、そして白虎王志心と目の覚めるような美しい神々を目にすることになり、世にはあんな神々も居るのだと思ったものだった。

しかし、結蘭はまだ成人したばかりの女神だった。なので、その神々の美しさには驚いたが、まるで憧れのように、遠く見ているだけ良いといった感情しか湧かなかった。

なのに、あの箔翔は違った。まだ若く、成人したばかりであろうその姿は、大変に凛々しく美しく見えたのだ。今まで、遠くに見ていた美しい王達が、まるで鮮やかな色彩を帯びて自分の前に現れたかのような心地がした。

そして何より、その王を間近に見た…偶然会った、あの池の畔で、箔翔様は自分の顔を上げて、じっと見つめていらした。

結蘭は、頬を赤くした。月明かりの中、その箔翔の整った顔が冴え冴えと美しかったのを、思い出したのだ。

もう一度、お目にかかることが出来たなら…。

結蘭は、そんなことばかりを考えていた。あの時、あまりに恥ずかしくて思わずその場を逃げ出してしまった。もっと、お話できれば良かったものを…。

結蘭がそんなことを考えながら沈んでいると、兄の声がした。

「結蘭、入るぞ。」

結蘭は、慌てて背筋を伸ばして振り返った。兄に、こんな様を気取られてはいけない。

頭を下げていると、兄の公青が入って来た。

「まだ休んでおらなんだか。話があって参ったのだ。」

結蘭は、顔を上げた。

「はい、お兄様。」

公青は、側の椅子に座る。結蘭も、その前の椅子に座った。

「我は、主の嫁ぎ先に志心殿の宮とずっと思うておったのは知っておるの。」

結蘭は、驚いた顔をした。婚姻の話?

「はい…しかしながら、志心様はお望みではないと聞いておりまするが。」

公青は、ため息をつきながら頷いた。

「そうなのだ。主に限らず、誰であっても今は要らぬと言われての。考えあぐねておるうちに、昨日のことであるが、主を娶りたいという王が現われたのだ。」

結蘭の鼓動が、俄かに速くなった。それは…もしかして、箔翔様では…。

「いったい、どちらの宮からでございましょう。」

公青は、頷いた。

「鵬明殿という王ぞ。歳は、主より300は上か。しかし序列は、志心殿には劣るが上から三つ目。悪い話ではないと、臣下達は乗り気であるがの。」

結蘭は、落胆した。知らないかた…確かに、あの時少しお会いしただけなのに、私を妃になんて思ってはくださらないわね。まして、あのように逃げてしまったのだもの…。

結蘭が、何も言わずに袖で口元を押さえて下を向いたので、公青はまたため息をついた。

「困ったの。やはり乗り気ではないか。さもあろう、歳が離れすぎておるしの。妃も、主は5人目になろう。正妃として入るのではないし、臣下達が言うほど、我は良い縁だと思うてはおらぬ。」

結蘭は、公青を見た。公青は、同情するように結蘭を見ている。結蘭は、思い切って言った。

「お兄様…あの、鷹王様はいかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。」

公青は、驚いた顔をした。急に、箔翔の話になったからだ。

「箔翔殿か?いや、聞いておらぬの。即位からまだ数日であろうが。恐らくは、政務に慣れようとそちらに必死でおられるのではないかの。内政に手一杯の時期であろうから、その間は外から何某か言うて行かぬのが礼儀…」

そこまで言ってから、公青はハッとした。結蘭が、まるで一言一句聞き漏らさぬとでも言いたげに、こちらをじっと見てそれを聞いていたからだ。箔翔…確かに、あれならば歳が近い。鷹は龍や白虎と同じく序列が一番上に入っている。その上、若いので妃がまだ一人も居ない。いきなり正妃は無理にしても、もしや話の持って行きようでは、可能なのではないか。早くしなければ、他の宮の王達も、己の娘をと話を持って行っているのでは…。

公青は、結蘭に向き直った。

「…主、箔翔殿ならば嫁ぎたいか。」

結蘭は、急に兄にそう言われて、びっくりしたような顔をしたが、真っ赤になって下を向いた。そんな、女の方から嫁ぎたいなどと…嗜みがないと言われてしまう。

公青は、それを見て確信した。そうか、箔翔。確かに美しい神だった。まだ若々しく、そこが心配ではあるが、気は大きく強く、これからいくらでも伸びる王。何より、鷹は序列が高く、宮自体が力を持っている。父王箔炎が、維心や炎嘉の古くからの友人であるというのも、神世でうまくやっていける条件のような気がして、これ以上の縁はないように思えた。

公青は、いきなり膝を叩いた。

「よし!」と、公青は勢いよく立ち上がった。「鷹の宮ぞ!鷹の宮へ遣いを出す!主は、箔翔殿に嫁ぐのだ。我がなんとしても、この縁を繋いで見せようぞ!」

結蘭は、びっくりしたが、小さく頷いた。公青はそれを満足げに見て、そしてそこを出て行ったのだった。


箔翔は、政務に追われていた。

慣れないので、なかなかに進まない。というのも、龍の宮より確かにとても少ないが、こちらは勝手が違う鷹の宮。しかも、自分の決定に誰一人意義など差し挟むことはなく、それが合っているのか間違っているのかも分からないまま、どんどんと進んで行ってしまうので、箔翔が自分の言葉の重みを感じて、なかなかに決断することが出来ないからだった。

王で宮は決まる…。

維心はよく、維明にそう言っていた。今更に、その言葉を思い知る気持ちだった。まして、龍の宮など世の全てを決めていると言っても過言ではない。

箔翔は、そんなものを継ぐ維明のことを思った。自分は、この宮だけでいいのだ。もっと、精進せねば。

午前中の政務を終えて、箔翔がやっと居間でホッとしていると、重臣二人が入って来た。何やら、たくさんの書状を抱えている。今は、休憩時間ではないのか。

「…政務は後にせよ。」

箔翔が、うんざりして言うと、筆頭の玖伊が首を振った。

「王、これは政務ではありませぬ。近隣の宮よりの、王宛ての親書でございまして。」

箔翔は、眉を寄せた。だからそれが政務だろうが。

「午後からではならぬのか。」

玖伊の隣りに立っている璧が言った。

「ですから、これは王に婚姻の打診をする書状なのでございまする。」

箔翔は、仰天した。これ、全て?!

「何と申した?これ全てか?」

玖伊は頷いた。

「はい。何しろ、こちらの宮の序列は、父王から引き継がれた最高位。その上王はそのようにお若く、まだ一人の妃もお持ちであられませぬ。他の宮の王達が、己の娘をと考えるのも、無理のないことでございまする。序列最上位の他の宮は、尽く無理でありまするし…龍王は維月様のみ、炎嘉様、志心様はそのような意思もなく、蒼様は今いらっしゃる3人の妃がもう、良いお歳であるので、穏やかに過ごさせたいと今他に妃など考えておらぬようであられるし。」

箔翔は、呆然とその書状の数々を見た。そういうことになるのか。今、政務に必死でそれどころではないのに、こんな対応までしなければならないのか。しかも、こんな休憩時間に。

箔翔が呆気に取られているので、玖伊は苦笑して巻物を目の前に並べ始めた。

「王、今お忙しいのは分かっておりまする。とにかくは、当てずっぽうでもよろしいのです、幾つか選んで頂きまして、宮へ迎えてから気に入った皇女に通われるようになされては?正妃に迎える訳ではないのですから、そうでございまするな、取りあえず5人ぐらい見繕って頂ければ。」

箔翔は、開いた口が塞がらなかった。己の妃として迎えるのに、適当に見繕えと?

しかし、神世ではそんなものだった。こうして、誰がいいと聞いてもらえるのは良い方で、気が付いたら宮に居て、通うように言われるなどとざらなのだと聞いた。

だが、箔翔は人世にも居たし、父王があのように女嫌いで宮には女は居なかったし、学びに行った先の龍王は一人の妃を溺愛して本当に溺れていたし、神世の常識が非常識に見えた。側に置くのに、そんな適当に選ぶなど。

「…我はまだ、妃など考えられぬ。突き返せ。」

璧が、目を丸くして首を振った。

「そのような!王、いくらなんでも全てを突き返すなど無理でございまする!どうか、たった一人でも良いのです、こちらから選んで頂けないでしょうか。」

箔翔は、横を向いた。

「それどころではないと言うのに。それにの、我だって父上のように、自分が真に気に入った女だけを宮へ置く。龍王だとてそうだった。どうでもいい女など置きとうないわ。」

取り付く島もない。

「王…、」

玖伊が慌てて説得しようと口を開くと、そこへそそくさと侍従が入って来た。また、何か書状を持っている。そして、小さく玖伊の耳元に言った。

「こちらは、公青様からの書状でございます。」

玖伊が頷く。そして、侍従は出て行った。箔翔は、ちらとそれを見た…公青。では、あの結蘭の兄か。

忙しさにかまけてすっかり忘れていたが、箔翔もあの結蘭の美しさは時に思い出していた。美しい声で、しかもはきはきと話す。自分を見て驚いているようだったが、それでもああして、己の意思をはっきりと示して場を去った。普通の女なら、おろおろとされるがままだっただろう。

維月や陽華にも通じるような、凛とした雰囲気に、箔翔は惹かれていたのだ。

結蘭を思い出した箔翔は、まだ玖伊は何某か言っていたが、割り込んで言った。

「で、公青は何と言って参った。」

「それで…ええ?!」玖伊は驚いた顔をした。箔翔を説得しなければと必死に話していた最中だったからだ。「こ、公青様でございまするか?」

玖伊は、慌ててその巻物を開いて、中を確認した。そして、ふーっと肩で息をついた。

「…妹姫、結蘭殿を、王の妃にというお願いでございまする。」

箔翔は、眉を上げた。公青が、結蘭を我にと。

箔翔は、じっと考えた。このままでは埒が明かない。臣下達は、放って置いたら恐らく知らぬ間に妃を迎える算段をしてしまうだろう。ならば、この中から一人でも選ぶ方がいい。ならば、あの結蘭ならば…。あのように美しく、凛とした女。何よりあの時、妃に迎えとっても良いと思ったのだ。

「では、その皇女を。」箔翔は、あっさり言った。「公青殿の妹君、結蘭殿を迎えようぞ。」

玖伊と璧は呆気に取られた顔をした。何が起こったのか、一瞬分からなかったらしい。

しかし、玖伊が先に我に返って、頭を下げた。

「は、ははー!」そして、慌てて他の書状を拾い集めた。「では、すぐにお返事と手配を!」

まるで、気が変わっては困るでも言いたげな様子で、玖伊と璧の二人はまた、巻物を抱いて急いで居間を出て行ったのだった。

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