誤解
「…では、龍王はまだ宮へ帰らぬと?」
軍神は、膝をついたまま答えた。
「はい、王よ。炎嘉様の宮へと、妃と共に移動したのだと聞いておりまする。何でも、炎嘉様が強引に連れて参ると主張して、それを龍王が飲んだ形のようであるとのこと。」
鵬明は、小さく息をついた。炎嘉。あれは大変な狸だ。表面の人当たりの良さに騙される神も多いが、しかし鵬明には分かっていた…前世から、炎嘉は大変に頭が良く策を練るのが巧みな神。その上、龍王に次ぐ力を持ち、一瞬にしてその人懐っこい表情が冷酷な殺戮者に変わるのを、鵬明は何度も見て知っていた。笑っているその腹の底で、一体何を考えているのか分からないことの方が多かった。
その点では、龍王の方がまだ扱いやすかった。なぜなら、思っていることが表面に現れる。喜怒哀楽が表情には確かに出ないが、腹を立てていたりすると、たちどころに気が変化し、すぐに分かる。なので、逆鱗に触れる前に退くことが可能だった。
しかし、炎嘉は違った。全く気にも表情にも現われないので、心を許して話しているうちに深くまで話してしまい、気がつくと全てを握られてしまっているという神が大変に多かった。なので、龍王と炎嘉の二人が居る限り、神世に逆らえる王など一人も居なかった。
鵬明は、軍神を見た。
「仕方のない。時はある、待てば良い。龍王とて、ずっと己の宮へ戻らぬ訳には行かぬだろうよ。恐らくはこのこと、龍王自身の耳にはもう入っておるだろう。だが、まだ妃にまで行っておらぬのだ。回りが巧みに隠しておる状態であろうの。しかし、女の口には戸は立てられぬ。こちらから、水を向けてみようぞ。」
軍神は、頭を下げた。
「は!では、早速に。」
鵬明は、今度こそ成功させると晴れ渡った空を睨んだ。我が祖父王の代に受けた屈辱は、こんなものではない。上から三つ目の序列の最上位に座っているのがなんだというのだ。そう、上から三つ目…三つ目という事実が、祖父にも父にも、そして自分にも暗い影を落とし続けて来たのだから。
そうしていると、臣下が入って来て頭を下げた。
「王、緑青様がお越しでございまするが。」
鵬明は、驚いた顔をした。緑青が?鷹の宮で別れて来たばかりではないか。
「通せ。」
鵬明が気持ちを入れ替えて自分の定位置に座ると、すぐに緑青が入って来た。そして、ほんの数日離れただけなのに、緑青の雰囲気が変わったのを見て取って眉を寄せた…何かあったのか。
「緑青?どうしたのだ、もう我が恋しゅうなったか?」
わざと冗談めかして言ったのだが、緑青は、笑うことはなかった。それどころか、一瞬うろたえたような顔をした。最近ではこんな顔をするところを見ていなかった鵬明は、真剣な顔をして緑青を見た。
「何ぞ?何かあったのか。」
緑青は、頷いた。だが、また首を振った。
「いや、その…帰って、月の宮へ話しに行って、そしたら急に主に会いとうなった。」
鵬明は、じっと緑青を見つめた。
「…蒼殿と何か話したのか。」
緑青は、下を向いた。鵬明は、じっと待った…緑青は、言うべきかどうか悩んでいるようだった。しかし、思い切ったように鵬明を見た。
「鵬明、我はずっと蒼殿を友だと思うておった。あちらは気を供給して宮を与えてくれたのにも関わらず、何も見返りを求めることもなく、ここまで共にやって来たのだ。なのに…急に、我らの動向を逐一報告するようにと言われた。まるで臣下のように…そうでなくば、気の供給を止められてしまう。我は王として、そんなことを受けられぬ。己一人のことならば、絶対に受けなかったことぞ。我は元の領地の気が尽きかけておった時、その土地と共に滅ぶことを選んでおったのだからの。しかし、今は違う。臣下達も、やっとあの清浄な気に包まれて生きて、それは幸福にしておる。我一人の誇りのせいで、あれらをまた苦しめて路頭に迷わせるわけには行かぬ。しかし、我にはそのようなこと、耐えられぬ…!」
鵬明は、険しい顔を崩すことなくじっと緑青の話を聞いていた。恐らく、それは蒼の考えではないだろう。龍王や炎嘉の差し金だ。そうでなければ、緑青を、輝重を、監視する必要などないはずなのだ。特に緑青は、我の友であるから…。妃達の実家の方も、龍の宮からの視察が頻繁にあると聞いている。我の回りを抑えようとしておるのか。
「緑青…我慢することは、無いではないか。」鵬明が、緑青の肩に手を置いて言った。「なぜに生まれつきの力だけで、上下が決められて上の者に無条件に従わねばならぬのだ。そのような理不尽なこと、あろうはずはないであろうが。」
緑青は、涙で潤んだ目で鵬明を見上げた。しかし、その表情は戸惑っていた。
「…鵬明?その…蒼殿は、悪くはないと思う。」
鵬明は、じっと緑青の目を見つめた。
「蒼殿だって、恐らくは本意ではないのだ。力を持ってはいても、後から神世に来たので、龍王や炎嘉から言われたらそのようにせねばならぬのだと思う。全ては、あれらが絶対的な力で高圧的に押さえつけておるがゆえのことであると、我は思うぞ。」
緑青は、それが当然で、そうであるからこそ世が平穏であるのだと信じていた。なので、じっと鵬明を見つめて戸惑ったまま言った。
「だが…世が平穏であるためには、致し方ないと我は思うて…。」
鵬明は、それでも険しい顔のままだった。
「我の妃の実家などまで把握しようとしておるのに?」緑青は、驚いた顔をした。妃の実家まで?「そう、我だって主と同じ。そうやってまるで臣下のように、詳しく調べられておるのだ。報告せよと言われたほうがまだましよ。全部知っておるだろうに、最近どうだった、などと会合などで平気で聞いて参る炎嘉などには、いつも腹が立って仕方がなかったのだ。」
緑青は、茫然と鵬明を見た。そんなに見られておったのか。
しかし、本当は鵬明が叛意ありと気取っているからこそ、周辺を調べられているのだが、それは緑青は知らなかった。
「どうせ、王だ王だと言われておって、表向き尊重されておるように見えても、裏では臣下のようなものよ。我とて、主と同じでそのような扱いには耐えられぬと思うておった一人であるがの。他に何人が、それに気付いて耐えておることか。」
緑青は、初めて知ったような気がした。そうか、だからいつも、鵬明は序列がと言うておったのか。
「主には、真実が見えておったのだな。」緑青は、落ち着いた表情になって、言った。「我は愚かであった。主の、そんな気持ちにも気付かず、安穏としておって…すまぬの、鵬明。」
鵬明は、そこまで己の主張に一生懸命になって、回りが見えていないような状態だった。我に返って、緑青にそう言われて、心の中がちくりと痛んだ…違う。緑青よ、我はただ、己の恨みの矛先をあちらへ向けておるだけ。それを気取って、あちらが我を監視しておるだけ…。
しかし、鵬明がそれを口に出来ることはなかった。
緑青は、何も知らずに鵬明を見つめ返していた。




