懸念
碧黎は、気を抑えて鷹の宮を訪れていた。
元々、碧黎の気は大地なので大き過ぎて、それに自然なので皆側に感じても抑えてさえいれば分かりづらい。なので、誰にも気取られることなく中を伺うことが出来た。
姿すら、地に溶け込んでいれば見せることもない中で、しかし同じ地である陽蘭には気取られようと、細心の注意を払って近付いた。
すると、箔炎と、維月かと見まごう姿の、若い人型の陽蘭が並んで居間の椅子に座っていた。
その姿は、まるで維心と維月を見るようで、それは仲睦まじかった。
やはり、陽蘭も気が一新されたゆえ、姿が若くなっておるのか…。
碧黎は、そう思って見ていた。元々、維月の姿は陽蘭を元に考えて作ったもの。維月と陽蘭が似ていてもおかしくはなかった。ただ、歳と髪や目の色が違ったので、違うように見えていただけだなのだ。
「…風が…。」
陽蘭が、ふと目を上げた。箔炎が、陽蘭の肩を抱いた。
「何か、感じたか?」
陽蘭は、頷いた。
「はい。何か、懐かしいような…」陽蘭は、困ったように首をかしげた。「何でござましょうか。分かりませぬが、本当に懐かしい気を感じましてございます。」
箔炎は、不安げに陽蘭を見た。
「まさか…主を探して誰かが参っておるのではあるまいの。」
陽蘭は、困ったように微笑んで箔炎を見上げた。
「そのような。我をどうのと考えるような者は、居らぬかと思いまする。それに、迎えにと申して、我はこのように何も覚えておらぬのに。そのような、知らぬ神について参ることなどありませぬから。そのように不安げなお顔はなさらないで。」
箔炎は、ホッとしように肩の力を抜いたが、それでも目は不安そうだった。
「しかし…まるで主は、突然に月にでも帰ってしまいそうな気がする…。」
陽蘭は、微笑んだ。
「ああ、あの竹取の話でございまするわね?我は月ではありませぬから。それより、我は人世の書でありましたなら、あの、たくさんの歌を記したものが好きでございまするわ。」
箔炎は、笑った。
「おお、主はあれが気に入っておったの。他にも、昔から所蔵しておる古い巻物がたくさんあるぞ。その、歌のものばかりをここへ持って来させよう。二人で眺めようぞ。」
陽蘭は、微笑んで頷いた。
「はい。やはり、恋歌が良うございます。我は、人が詠んだあの短い歌の中に、深い意味が幾通りにもあることを知って、それは感心しましたの。」
箔炎は、側の侍従に指示を出してから、陽蘭を振り返った。
「人は賢い。我も、主を得て共にあれを見て、その意味を実感した…昔は、馬鹿なものよと笑っておったのに。誠、女を恋うるということをの。」
陽蘭は、頬を染めた。
「まあ…箔炎様…。」陽蘭は、そして暗い表情になった。「こうして、大切にしてくださるのに。我は、未だ何も思い出せず…何のお役にも立てなくて、歯がゆいばかりでございます。」
箔炎は、慌てて首を振った。
「何を言う!主は、こうして我に神としての生を取り戻してくれたのだ。思えば、我は生きておったのかと思う…こうして、幸せになって初めて己が不幸であったと知るとはの。」
陽蘭は、箔炎を見上げた。
「箔炎様…。」
「陽蘭…」箔炎は、せつなぜに陽蘭を見つめた。「何も思い出さなくて良い。思い出せば、主は居なくなるやもと我は不安でならぬのだ。」
二人は、抱き合ってじっとお互いの体温を心地よく感じていた。
碧黎は、それを見てそっとそこを出て、飛び立って行った。
「遅い!」維心が、月の宮で言った。「何度も呼んだであろうが!維月ならば一瞬で現れるくせに。」
碧黎は、窓から入って来ながら面倒そうに言った。
「うるさいの。我とて暇ではないのだ。して、何用よ。」
維心は、憮然として言った。
「頼のこと、箔炎が我に知らせて参った。」碧黎が、眉を上げる。維心は続けた。「主が言っておったのは、このことであろう?して、なぜにあれは維月を恨んでおるのだ。」
碧黎は、側の椅子にどっかと座った。
「だから、我には言えることと言えぬことがあるというに。しかし、我が一番に懸念していた、箔炎が頼に手を貸すということは無うなった。ゆえ、ここから先何があろうと、主ならば簡単に御せるだろうと思うがの。」
維心は、眉を寄せた。
「それは…やはり、頼は我に反旗を翻そうと思うておるのか。」
碧黎は、動かなかった。
「我は何も教えることは出来ぬの。ただ言えるのは、頼は主を憎いとは思うておらぬ。あれが恨んでおるのは、唯一維月のみ。それがなぜであるかは、主が調べよ。」
維心は、ため息をついた。
「…主が、我に鷹が何とかと言うて来たのは正月の夜。つまりは、それまでに何かあったということよな。」
碧黎は、フッと笑った。
「察しがいいの。」
維心は、続けた。
「そして、直近の催しは月の宮運動会。その前の神の会合では、頼にも変調はなかった。つまりは、何かあったすれば、運動会の日。」
碧黎は、黙って維心を見ている。維心は、その目を見返した。
「…維月を、見ておったやつが居るの。頼…」しかし、碧黎は、動かない。維心は、じっと考えながら、碧黎を見ていて、何かを気取ったように目を見開くと、いきなり立ち上がった。「…まさか、栄か!」
碧黎は、満足げに維心を見上げた。
「おお、よう己でその考えに至ったものよ。して、どうする?」
維心は、茫然としていたが、すぐに踵を返した。
「蒼と十六夜に申して、策を練る!」
維心は、急いでそこを出て蒼の居間へと走って行く。
碧黎は、それを見送りながら、空を見上げた。しかし、維心の対策は間に合うのか。いや、もう間に合わぬかもしれぬ…だが、事が起こっても、解決の道はあるだろう。
頼は、自分の宮で空を見上げていた。
こうして、見えなくてもあちらからはこちらを見ているかもしれない、月。地上に居る限り、月から逃れることなど出来ない。まして、自分はこれほどに小さな宮の、ちっぽけな神の王。龍王ですら敵わぬという月の力に、抗えるはずなどなかった。
陽の月に気取られずに、あれを滅する方法はないのか。
頼は、最初そう考えた。しかし、そんなことは無理だとすぐに考えを直した…そんな方法では、月に報復など出来ない。何も滅することだけが、月に報復することにはならない。
頼は、手に握り締めた小さな瓶を見つめた。人は、その力の無さを知恵で補っているという。ならば、我ら力の弱い神の王も、知恵を使えばきっと成し遂げることが出来るはず…。
そこへ、隣りの宮の王の、実久がやって来た。大きな規模を誇る宮の龍の宮などとは違い、こうした小さな宮の王達は、礼儀がどうのなど言わず気軽に行き来するのだ。
「頼、準備は出来たか。」
頼は、頷いて実久を見上げた。
「実久…ここからは、我が。発覚した時、主まで罰しられるやもしれぬ。蒔にも久実にも言うておいてくれぬか。もう、関わるでないと。」
しかし、実久は首を振った。
「何を言うておる。それを作ったのは我ら皆の知恵を絞った成果ぞ。皆で必死に書庫に篭って探した結果ではないか。のう頼、もう後には退けぬ。箔炎殿のお力を借りることが出来なかった今、それを使うことが出来るのは、我ら。頼は、もしかして龍王に警戒されておるやもしれぬだろう?箔炎殿は、恐らく龍王に伝えておるであろうから。」
頼は、下を向いた。
「我が、浅はかであった。単純に、箔炎殿の力を借りられれば、事は簡単に進むと考えたのだ。だが、そう上手くは行かぬわな。」と、その小瓶を、実久に差し出した。「実久、ではここからは主に任せる。」
実久は、それを受け取りながら頷いた。
「任せるが良い。もう、蒔と算段はしておるのだ。」と、頼の肩に手を置いた。「きっと、うまく行く。我らの恨みを、晴らそうぞ。」
頼は、涙を溜めた目で実久を見て頷いた。実久は、そんな頼に微笑みかけて頷くと、小瓶を大事そうに懐へと入れると、また飛び立って行ったのだった。