幸福
鷹の宮は、すっかり様変わりしていた。
箔翔は、視察に行った後、戻ったと聞いた父に挨拶して龍の宮へ戻ったのでその後の事は知らなかったが、その後箔炎は、連れ帰った陽蘭のために着物を仕立てさせ、部屋を設えさせて、そして陽蘭のために世話をする侍女を里から連れて来させて宮へ召し抱えていた。
箔炎が王座に就いてから、侍女が仕えるのは初めてのことだった。
陽蘭は維月のようにはっきりとした物言いの、それは清々しい性質の女だった。側に居るだけで、箔炎は癒された。今日も、共に宮の回りの森を歩きながら、話していた。
「ここは、大変に落ち着いた場所でありますこと。」陽蘭は、微笑んで言った。「騒がしいのは面倒なので、癒されまするわ。」
箔炎は、微笑み返した。
「あまり世と関わらずに来たからの。しかし息子に跡を譲ったら、また騒がしくなるやもしれぬがの。」
陽蘭は、苦笑した。
「まあ。でも、それでもこちらは良い土地ですわ。気が安定していて…我は好きですわ。」
箔炎は、陽蘭を、突然に抱き寄せた。陽蘭は、驚いたようだが身を退く事もなく、箔炎を見上げた。
「箔炎様?どうなさいましたの?」
箔炎は、そのまま陽蘭を、見ずに言った。
「陽蘭…それがここへ、ずっと我と共に居てくれるということであったなら。」
陽蘭は、驚いた顔をした。
「え…我が?」
箔炎は、頷いた。
「我には一人の妃もおらぬ。ここへ、我が妃として留まってはくれぬか。」
陽蘭は、箔炎を見上げたまま言った。
「そのような…我はこのように何も覚えておらぬゆえ、どこの誰かも分からぬのに。」
しかし、箔炎は首を振った。
「主が主でさえあれば、我は良い。我が妃に、陽蘭。」
陽蘭は、少し涙ぐんで微笑んだ。
「まあ…強引であられること。」と、箔炎の頬に手を触れた。「我などでよろしいのなら。お側に置いて下さいませ。」
陽蘭は、箔炎の短い金髪を手で優しく梳いた。箔炎は、その手を握って頬を摺り寄せ、同じく涙目になりながら微笑んだ。
「主でなくばならぬ。」箔炎は、陽蘭に唇を寄せた。「やっと見つけた、我の妃よ。」
箔炎は、こうして誰かを思い、その女も自分を思ってくれるということに、初めて心の底から幸福だと思った。
維月ではなく、間違いなく陽蘭を、箔炎は愛し始めていた。
しだれ桜のその前で、維月と維心は、ただ二人寄り添って佇んでいた。
その大きなしだれ桜は、前世から二人で愛でて来たもの。時を経て、また一段と大きく太くなっていた。
その花は、他の桜より送れて咲くため、まだ花も少ない。それでも、二人はその桜に見とれた。
「…変わらぬこと。こうして、二人でこれを見るのは、もう何度目のことでしょうか。」
維月が言うと、維心も頷いた。
「ほんになあ…。主と始めにこれを見に参った時は、十六夜に見つからぬようにと、別々に席を立って待ち合わせて。」
維月が、プッと噴き出して笑った。
「ああ、覚えておりまする。維心様ったら、私を待っておる時に皇女に出くわして、維心様はそのように美しい容姿であられるから、寄って来たのを斬ろうとなさって…。」
維心は、笑い事ではない、という表情で維月を見た。
「あの時は、本気であった。主に誤解されてしもうては、またどこかへ行ってしまうのではないかと…心底案じて。」
維月は、首を振った。
「このように美しい龍王であられる維心様に、望まぬでも女のかたが寄って来るのは分かっておることでございまする。それに、信じておりまするもの。」と、桜が舞い散る中、それは美しい維心に見とれながら続けた。「維心様は、私だけを見てくださいまする。生まれ変わっても、それは変わらず。私はいつも感謝しておりまするの。私などを、選んでずっと共に居てくださることを。愛しておりまするわ。心の底から。」
維心は、維月を見下ろしながら引き寄せ、その顔を上げさせてじっと瞳を見つめた。
「維月…愛している。我とて同じ。何度生まれ変わっても、我らは共よな。我らの魂は一つであるから。」
維月は、維心に唇を寄せた。
「維心様…。」
維心は、維月に口付けた。愛している…何があっても、我は維月を手放さぬ。これほどまでに思い合うことが出来て、我は何と幸福であることか…。
そうして二人は、長い間そうしていたのだった。
「遅い。」十六夜が、不機嫌に言った。「まだ里帰り期間じゃないから譲ってやってたら、お前はよ。いつまで維月を独り占めしてるつもりなんだよ。」
維心は、ため息をついた。
「わかっておるわ。ほんにもう、うるさいの。明日からはここへ里帰りということになるのだから、今日ぐらいは良いではないか。」
すると、蒼が十六夜の後ろから進み出た。
「維心様、待っていたんです。あの、維心様が留守であるからと、こちらへ兆加から書状が転送されて参りまして。箔炎様からのものらしいのですが。」
維心は、眉を寄せて足を進めた。
「箔炎?何かあったのか。」
蒼は、宮の方へと歩き出しながら首を振った。
「いえ、こちらには何も。維心様であるから知らせたかったことがあるのかもしれません。」
維心は、頷いて蒼について歩いた。維月も、その後ろを十六夜と共について来る。
そうして、蒼の居間へと入ると、蒼は厨子を手渡した。
「これです。本日の早朝に龍の宮へ届いたものであるらしく、中を見て、兆加が慌ててこちらへ送って参ったようです。」
維心は、頷いて紐を解き、中を確認した。そして、すぐに顔を上げた。
「…政務の話よ。維月、主は維織にでも会って参るが良い。」
維月は、首をかしげた。
「ですが維心様…何か緊急の御用なのでは?」
維心は、首を振った。
「いいや。さっき碧黎とあのような話になったからか?主の母のことではないぞ。案ずるでない。」
十六夜が、悟って維月をせっついた。
「そうだぞ、維月。いくら結婚したからって、維織だって母親が恋しいんだ。見て来てやれよ。」
維月は、渋々立ち上がった。
「そうね。わかりましたわ、では行って参ります。」
維月は、こちらを振り返り振り返り、出て行った。経験から、こういう時に気強くここに残ると言っても、皆が余計に許してくれないからだ。
それを見送ってから、十六夜が言った。
「維月を行かせたってことは、何かあったんだな。」
維心は、頷いた。
「箔炎の所へ、頼が訪ねて参ったらしい。先頃から、しばし具合が悪いとかで宮に篭っておったのだが、先日の王の会合には顔色が悪いながら出席して来ておったので、良いかと思うておったのだがの。我は、会合で皆の気を探っておるが、あやつの気は我ら上座の神に向けて何の敵意もなかった。なので気にしておらなんだのだが…あれが恨んでおるのは、維月であると。」
蒼が、驚いた顔をした。
「え、母さんを?面識があるんですか?」
維心は、首を振った。
「分からぬ。しかし龍王妃であるのだから、あちらから催しの時などに一方的に見るのは可能ぞ。」維心は、ため息をついた。「維月が、陰の月で、皆を誘うような気であることが悪なのだというておったらしい。そして、箔炎を同じように焚きつけようとしたらしく、あれの宮へと訪ねて話したというのだ…大層な恨みようであったらしいぞ。もちろん、箔炎はそんな話には乗らなかった…だが、頼が何を企んでおるのかまではわからなんだらしい。気を付けよと、それを知らせて参ったのだ。」
十六夜が、息をついて椅子の背もたれにもたれた。
「何だよ…かわいさ余って憎さ百倍ってやつか?その頼のやつも、維月が欲しいってことなんだろう。」
維心は、しかしそれには首を振った。
「いいや。最初は慕わしいと思ったというておったらしが、すぐにそんなものは消し飛んだのだと聞いた。なので、そんなものではないの。誠憎んでおるようであったらしい。」
蒼は、困ったように維心を見た。
「でも…母さんにだってどうしようもないことですし。あれは、陰の月の能力で、いわば自己防衛本能でしょう。自分を殺そうと思わせないようにする…力が弱いから。」
十六夜が、頷いた。
「そうなんだ。維月が意識してそうなってるんじゃねぇからな。維月を見て相手が望むと、その通りになっちまう。だが、その時だけだぞ?すぐに自分の思う相手の望む気に戻るからな。それが、本当の維月の気だからだ。あれでもちょっと制御がうまくなって来たんだけど…維心がどっか向いて自分の方を見て無い時なんかに、こっちを向かそうと気を放つとか言ってたからな。そんなこと、前世は意識して出来なかったし。」
維心が、驚いたような顔をした。
「維月が?我に?」
十六夜は、しまった、という顔をした。
「維月に言うなって言われてたんだった。お前、知らんふりしてろよ。」
しかし、維心は呆然として聞いていなかった。維月がそんなことを…我はいつなり維月を見ておるのに。見ておらぬ時などないであろうに。それは、常維月は我が維月を見ておらぬといけないと思っているということなのか。
「…維月は、我が少しでも他所を見ておったら否と。なのでそうやって我に気を放つと言うておったのか。」
十六夜は、困ったように首を振った。
「だから、忘れろ!今は箔炎の知らせて来たことだろうが。」
維心は、同じように首を振った。
「それも大事であるが、我には同じように大切なことなのだ!」
十六夜は、観念して頷いた。
「あーそうだよ。維月はいつなり自分を見ててくれないと嫌なんだってさ。お互いにストーカーみたいなもんだなと、オレはそれを聞いて思ったね。さ、もういいだろうが。続きだ続き!」
維心は、しかし十六夜を見ていなかった。
「維月が…。」
蒼は、心配そうに維心を見た。いくら維心でも、そこまで維月が維心維心と言っているとなると、面倒になるのではないのか。
しかし、維心はぱあっと明るい顔をして十六夜を見た。
「おお、そのような気を遣わせておったとは。我とていつなり維月を見ておりたいのに、まだ足らぬとな。では、これからはもっと側に置くようにするゆえに。」
十六夜は、面倒そうに手を振った。
「これ以上どうやってくっつくってんだよ。もう充分だから、後は維月に任せときな。気を放ってくれるからよ。それより、お前頼の企みとやらに見当はつくのか。」
維心は、急に真面目な顔になった。
「いや、全く。あれらに動きはない。年末に、栄が亡くなったであろう?それゆえ、その回りの宮は軒並み喪中でな。暗い気がたち込めておるだけだ。頼は、栄の隣りの宮で大層仲良かったのだと聞いておるが。」
十六夜は、うーんと考え込んだ。
「じゃあ、正月の挨拶で維月を見て云々ではなさそうだな。その前の催しで、何かあったのか。」
蒼は、首をかしげた。
「…運動会?」
維心と十六夜は、顔を見合わせた。運動会…あれは確かに、大変な数の神が居た。あの中に頼が居て、その時に何かあったとしてもおかしくはない…。
「…少し、碧黎に会うて来る。」
維心は、突然に立ち上がると、蒼の居間を出て行った。