段取り
維月は、維心に連れられて龍の宮へと帰って来た。
維明は、いつもならひと月は戻っている母がもう戻って来たのに驚いたが、里帰り自体が急な事で驚いた後だったので、それが父との軋轢のせいで飛び出しただろう事は予測出来て、あえて理由は聞かなかった。
挨拶に居間を訪れると、母は父と共に定位置に腰掛けて、茶を飲んでいるところだった。父が、入って来た維明を見た。
「維明。」
維明は、頭を下げた。
「父上。お戻りと聞き、ご挨拶に参りました。」
維心は頷いた。
「我の居らぬ間に箔翔が戻ったそうだの。」
維明は、顔を上げて頷いた。
「はい。何分急な事でありまして、父上にはくれぐれもよろしくとのことでございました。」
維月が、気遣わしげに維心を見る。維心は、そんな維月の肩を抱きながら、維明に言った。
「箔炎が譲位するとか。即位の式には、我も参ろうと思う。」
維明は驚いた顔をした。滅多にそんな式にはお出ましにならぬのに。
「父上が?その…我が名代で参ってもよろしゅうございますが。」
維心は、首を振った。
「我でなくてはならぬ。維明よ、龍王とはの、ここぞという時には出て行かねばならぬのだ。我が参れば、神世でそれに出ないと言える神は居らぬ。これからの箔翔の統治のためには、あれは神世で高い位置に座らねばならぬのだ。鷹を守るためにの。これは鷹のため。箔翔のため。何より我が友箔炎のためぞ。あれには安心して余生を送らせてやりたいからの。」
つまりは、龍王ですら出て来るほど尊重している種族なのだと知らしめるために、維心は出ると言っているのだ。
維月が、横で身を震わせて下を向いた。袖口で口元を押さえているので表情はうかがい知れなかった。
「はい、父上。それでは、我はお留守の間宮を守りまする。」
維心は、うっすら微笑んで頷いた。
「頼んだぞ。」
そして、横の維月を抱いている手に力を入れた。維月は、まだ下を向いている。維明はそれが気になったが、何も聞かずに頭を下げると、父の前を辞した。
奥宮からの回廊を歩いていると、正面から兆加が歩いて来て維明に頭を下げた。
「維明様。王が、此度の鷹王の即位式に出られるとおっしゃっておられまするので、その間のご政務は維明様がということになりまする。」
維明は、立ち止まって頷いた。
「ああ。今、父上ともその話をしておった。」
兆加は、頷いて続けた。
「即位式の間、三日こちらを留守にされまする。ですが、その間、訓練場での催しもございまする。」
維明は、ハッとした。そういえば、即位式の日取りを見たら、近隣の皇子達とその軍神を集めて試合をする催しが被っていた。あれは、自分が主催であるから、出ない訳にはいかない。
「失念しておった。そうか、そうであったの。しかし、今更に日取りの変更というわけにも行くまい。」
兆加は、重々しく頷いた。
「はい。こちらの宮へ上がるとなると、どこの宮でも事前に大層な支度をしておりまする。他の宮から侍女侍従をその期間借り受けておるような宮もあると聞きまする。即位式には、我が王維心様が出られる時点でどこの宮でも王が出ることは分かっておりまするが、皇子達には支障はないかと思いまする。」
維明は、少し眉を寄せた。
「王が不在であるのに、皇子が出て参って良いと?」
兆加は、そこで首を振った。
「維明様、どこの宮もここ龍の宮ほど政務が山積しているわけではありませぬ。こちらは神世最大の宮。他の宮からの陳情なども受けるので、王のお仕事は多岐に渡っておるわけでありまするが、他の宮はここまでではございませぬ。大概は少しぐらい王と皇子が外出しておっても、臣下が何とかしておける範囲でありまして。」
維明は、少しショックを受けた。そうか、これは龍の宮だからなのか。他の宮の王も、これぐらいのことはこなしておるのだと思っていた。
「では、問題は我の方であるな。しかし、それでなくとも父上の代行は我にとり気が張るもの。その合間に催しもとなると、面倒やもしれぬ。」
兆加は分かっているとばかりに頷いた。
「なので、その間だけでも将維様にお越し頂こうかと。たった一日の催しの間だけでございまする。隠居なさっておるとは言うて、将維様にも老いは止まり、大変に壮健で何事にも精力的でいらして、最近ではご退屈なさっておいでだと伺っておりまするし。」
維明は、すっかり忘れていた祖父の将維のことをそこで思い出した。最近では、自分もなかなか月の宮へ出かけることが出来なくて、将維に会う機会もなかった。しかし、確かに前龍王なのだから、一日ぐらい政務の代行などお手の物だろう。
「…我は助かるが、父上が何とおっしゃるか。」
兆加は、顔を輝かせた。
「はい。恐らく王も良いとおっしゃってくださるかと思いまする。それをお伺いしに、これから参ろうとしておった次第で。維明様にも、ではそれで良いとのことで、王にお話して参りまする。」
維明は、頷いた。
「では、よろしく頼む。」
兆加は、深々と頭を下げた。
「はい。では、御前失礼を。」
兆加は、いそいそと今維明が戻って来た回廊を、維心の居間へと向かって歩いて行った。維明は、ため息をついた…運命とはいえ、自分はあの父の代わりにいつか、箔翔のように王座に就くというのか。出来るようになるのか、今から気が重いことよ…。
鷹の宮では、箔炎が箔翔を待って居間で座っていた。ここ数日で、体が思うように動かなくなって来ているのが分かる。表面上は、まだ誤魔化すことが出来る範囲だが、間違いなく身のうちでは物凄い速さで老いが進んでいるのがわかった。こうして座っている間にも、何年の時が自分の体の中で進んでいることか。
箔炎が思いに沈んでいると、陽華が入って来て、微笑みながら箔炎の横に座った。
「箔炎様?最近はお疲れでしょうか…気が、少し弱まっていらっしゃるような。」
箔炎は、微笑んで見せた。
「譲位を決めて、肩の荷が下りたのかの。回りがバタバタとして落ち着かぬのも、疲れる原因やもしれぬ。」
陽華は、気遣わしげに箔炎の頬に触れた。
「やはりお疲れなのですね。では、我が少し気を補充してみまするわ。」
ふわっと、陽華の大きな癒しの気が箔炎を包んだ。普段から、意識せずとも回りを癒す、維月にも似たこの気には癒されて来たが、こうして意識的に気を向けられると、まるで身の中を洗われているような心地よさがあった。箔炎は、目を閉じて清々しいその心地に酔った。
「ああ…主の気、まるで生き返るかのようぞ。」
陽華は、微笑んでそんな箔炎を見ながら気を送っていたが、ふと箔炎の手に目をやった…炎の痣。これは、どこかで聞いた…そう、碧黎が言っていなかったか。鳥や鷹の死期が近付くと出る、確か、死斑と…。
陽華は、途端に震え出した。そう、忘れていた。自分は、人や神の寿命が見える。もしや、箔炎様は…。
陽華は、自分の力を使うこと自体を忘れていた。ここに居ると、そんな必要がないためにすっかり出来ることも忘れていたのだ。いや、それよりも、箔炎が寿命を持つこと自体に思いが至ることを、無意識に避けていたのかもしれない。
陽華が心の目を開くと、箔炎の寿命がはっきりと見えた。それは、間違いなく、もしかしてこの瞬間でもおかしくはないほど、先のないものだった。
「ああ」陽華は、思わず声を上げた。「そんな…。」
箔炎は、陽華の気が戸惑うように揺らいだのに気付いて、目を開けた。すると、目の前の陽華は、流れ出す涙を拭うこともせず、じっと箔炎を見ていた。
…気付いたか。
箔炎は気取って、陽華を抱きしめた。
「我は、抗ってみせる。」箔炎は、陽華を抱きしめたまま、自分に言って聞かせるように一言一言かみ締めて言った。「主と、少しでも長く共に居られるように。案ずるでない。」
陽華は、こみ上げて来る涙でしゃくりあげそうになるのを、必死に抑えて言った。
「我が、逝かせませぬわ。」陽華は、必死だった。「我は地の陰。碧黎に出来て、我に出来ぬなど。そんなはずはありませぬもの。我が箔炎様をお留めしまする。」
陽華は、思っていた。箔炎様が譲位なさるというのなら、都合の良いこと。式が終わったらすぐに、地の宮へと行こう。あそこが、何と言っても自分にとって最大限の力を引き出せる場所。碧黎が反対するのは分かっている。でも、自分は絶対に、この孤独だった王を幸せにすると決めたのだ。こんなにすぐに、あちらへ逝かせてしまうために、ここに留まったのではないのだもの!




