命
箔炎は、維心を見上げた。十六夜が、維心の後ろから追って飛んで来てその横に浮いた。維月は、まだ維心に対して何となく猜疑心を持っていたので、複雑な表情をした。箔炎はそれには気付かず、維心に言った。
「我は、ひと月などと言わぬ。我の妃は、不死なのだ。ならば生きられるだけ、運命に抗ってみようと思うだけよ。主には、我の心が分かるのではないのか。」
維心は、スッと目を細めたかと思うと、庭の綺麗に刈り込まれた芝の上に降り立って、頷いた。
「…分かっておる。いつなり、いつになれば死ねるなどと言うておった主が、そこまでして生にしがみつく理由など聞かずともの。だが、碧黎は首を縦には振るまい。主は、世に背を向けて参ったではないか…主の子は、ああして維明について我が宮で学んでおるのにも関わらず。あれをなぜに我の所へやった?…主では、宮の外の政務を教えられぬからではないのか。」
箔炎は、唇を引き結んだ。自業自得というのか。
「…維心。」箔炎は、飛び上がりながら言った。「我は、運命に抗う。老いと戦ってみせようぞ。」
箔炎は、そうして飛び去って行った。維心はそれを見送り、側で黙って立っている維月に視線を移した。
「維月。」
維月は下を向いていたが、おずおずと顔を上げた。十六夜も、心配そうな、だが諦めたような顔で維月を見ている。維心は、お構いなしに維月に歩み寄ると、維月の肩を抱いた。
「迎えに参った。もう気が済んだか?戻ろうぞ。」
維月は、首を振った。
「維心様には、何をコソコソとなさっておいででありましたか?やはり、他に妃をお持ちになっていらっしゃるのですか?」
維心は、ため息をついて首を振った。
「維月、言うたであろうが。我がなぜに今更他の女などに興味を示すなどと申す。我には主だけ。約したこと、絶対に違えぬ。我が偽りを申したことがあるか?」
維月は、まだじっと維心を恨めしげに見た。維心は、それを正面から受けて見つめ返して言った。
「…まさか、主の方が心持ちを変えたと申すのではないであろうの。」
維月はびっくりした。どうしてそんなことを…。
維心の背後の十六夜が、ぐっと眉を寄せたのが見える。維月はそれを見て、十六夜が維心にここ数日のことを話したのだと悟った。なので、維心からするりと身を引き外すと、言った。
「確かに、父にいろいろと聞いて、父を見る目が変わりました。ですが、私がこれ以上誰に嫁ぐと申すのでしょうか。元より、十六夜とは身を同じくする片割れで兄妹で、共に育って愛しているので離れるつもりなどありませぬ。維心様のことは、前世より深く愛しておりまする。維心様が私を愛してくださるのなら、私は他へ嫁ぐことなどありませぬ。」
十六夜が、ホッとしたように穏やかな表情をした。維心も、表情には表れなかったが肩の力を抜いた。
「ならば何の問題もあるまい。無理を申さず、共に帰ろう。」
しかし維月は、首を振った。
「維心様…箔炎様のことでございまするわ。あのように、突き放した言い方をなさって…」維月は、まるで自分のことのように苦しげな顔をした。「あれほどに長く孤独であられた箔炎様が、ようやく幸せを掴まれたのに。あのように、命を落とさねばならないなんて。まるでわが身のことのように、辛く思いまする。」
そこまで涼しい顔をして無表情を貫いていた維心だが、維月の本当に苦しげな様子に、気遣わしげに表情を変えた。
「維月…神も人も、決められた寿命を終えたら黄泉へと参るのだ。あちらは、穏やかな安息の地。知っておるだろう。」
「あちらでは母は、居りませぬわ。」維月は、訴えるように維心の胸に手を置いて言った。「私達は、不死。私は維心様のお力で死ぬ事が出来まするが、母はそうは行きませぬ。もしも母自身が望んでも、父がそれを許すとは思えませぬ。十六夜と私のように、どちらが欠けてもそれは孤独で寂しい生き方になってしまいまするもの…。箔炎様は、手にして僅かに1年程で、それを永遠に失ってしまわれるのです…。」
維心は、それを聞いて胸が詰まった。それが、もしも自分だったならどうだったろう。恐らくは箔炎と同じように、なりふり構わず生にしがみつき、抗おうとしたのではないか。
すると、少し上から声が割り込んだ。
「…あれは、帰ったかの?」
維心と維月、十六夜が見上げると碧黎がそこに浮いてこちらを見ていた。何もかも、知っているような風情だ。十六夜が言った。
「親父!知ってたんなら、どうして来なかったんだよ。」
碧黎は、芝へ降り立って腕を組んだ。
「知っておったから我はここを出ていた。何をしておっても、見ようと思えば見える。維月とここで話していて、箔炎がこちらへ向かうのを気取ったゆえに出て行った。恐らくは我に会いに来るのだと分かったからの。」
維月は、だから急にああおっしゃったのか、と思いながら、ムダだと分かっていながら口を開いた。
「お父様…どうか、箔炎様の事、助けて差し上げてくださいませ。あまりに不憫でありまするわ。たった1年…本当に、たった1年でしたのに。」
碧黎は、苦笑しながらため息をついた。
「言うと思うたわ。維心が言うておったであろう?箔炎は、神世に関わら無さすぎた。あれはあの力を、維心や炎嘉の助けのために使わねばならなかったのだ。それを放棄して千年以上、本来ならもう、とうに寿命は尽きていた。しかし、あれには最後の責務が残っていた…その力を継ぐ世に役立つ子を残すというな。」
維月は、息を飲んだ。ならば、もう…。
維月の表情を見た碧黎は、頷いた。
「箔翔は、良い王になるだろう。箔炎の力を継ぎ維心の教育を受け、あれは維明に次ぐ能力を身につけようとしている。箔炎は、責務を果たした。世を去らねばならぬ…そして、箔翔が鷹の地位を安泰へと導くのだ。」
碧黎の言葉に、維月は、助けを求めるように見た維心が無表情でありながら、薄っすらと憐憫の情を目元に浮かべて黙って立っているのを見た。だから、箔炎様は自業自得と言ったのね。
「…では、もう箔炎様が世を去るということは変えられないと?」
碧黎は、見上げる維月に頷いた。
「元より、我にはそれが見えておったからこそ、箔炎の元に陽蘭が居っても良いかと思うたのだ。その生の最後に、幸福をとの。陽蘭が見ておるかは分からぬが…あやつの気、まだ完全ではないのだ。力は戻っておらぬだろうからの。」
維月は、もはやどうしようもないことなのだと、黙って涙を流した。誰の身の上にも起こること…愛しい者達との別れ。もっと不幸な一生を終えた神も居た。箔炎だけが、特別なのではない。まして、神世に背を向けて生きて来た力を持つ王の、最期としては恐らく良い方なのかもしれない…。
箔翔は、今日も龍の宮で維明と共に立ち合いをこなしていた。
最近、殊に維明の動きがよく見えるようになった。気の大きさでは敵わないので、恐らく実際の戦場では維明の足元にも及ばないかもしれないが、技術だけで言えば、かなり近付いたと自負していた。
「最近、動きがいいな。」維明が、肩と胸の甲冑を外して上気した体を冷やしながら言った。「我の太刀もすんなり受けよる。これは油断していられぬの。」
箔翔は、自分も同じように甲冑を外して言った。
「なぜだが身が軽い。思うように動けるようになって参った。前は、どうしても後手後手に回ってしまっておったがの。」
維明は、頷いた。
「そう、そこからが真に自分との戦いぞ。」維明は、側の侍従から飲み物を受け取りながら言った。「技術の向上が、そこまでは目に見えていて面白いのだ。我もそうだった。だが、そこからは細かい判断を己で身につけていくよりない。じわじわと向上しておるのだろうが、それが己では見えづらくなる。毎日立ち合っていても、波があったり。父上がここへほんの時々降りて来られて稽古をつけてくださるが、同じ場所を動きもせずにおられるのに、落胆するばかりでの。」
箔翔は、ふっと肩の力を抜いた。
「なんだ、我はまだまだか。昔の主に、やっと追いついたということであるからな。」
維明は、箔翔の方を見て苦笑した。
「我は3歳の頃から立ち合っておるのだぞ?そうそう同じ位置まですんなりと来られては我の立場がないわ。」
箔翔は、空を見上げた。
「主には一生敵わぬのだろうの…しかし、追う相手が居るというのはいいことぞ。」
維明も、それには頷いた。
「我もそのように。父上が居られるから、我はもっともっとと必死に精進するのだ。あの父上に、敵うことなどないと思いながらの。」
二人が、訓練場の日陰でそうして並んで座って、吹き抜ける風に心地よく吹かれていると、箔翔の臣下の一人が慌てた様子で走って来た。箔翔は何事かとその臣下を見た。
「何ぞ、璧?」
璧は、息を切らせながら膝を付いた。
「おお、箔翔様。急ぎ宮へお帰りくださいませ!」
箔翔は、飛び上がるようにして立ち上がった。
「父上に何か?!」
璧は、慌てて首を振った。
「いえ、最近お疲れであられるのかといった風情ではあられましたが、しかしお元気でありまする。それが、王が突然に箔翔様にご譲位をされると公に告示されまして…もう、我ら何のお言葉も賜っておらず、びっくりしてしもうて。聞いたのも、先ほどこちらの兆加殿からなのでありまする。」
箔翔は、愕然とした。譲位?譲位とは…我に、今すぐ王座へ就けとおっしゃるのか!
「そのようなこと!我も、父上から一言も聞いておらぬ!」
箔翔の様子に、びっくりして絶句していた維明が、横から言った。
「とにかくは、直接に聞いて参るといい。ここで何某か言うておっても始まらぬ。主はすぐに宮へ帰らねば。」
箔翔は、動転していた。譲位…王になる…。こんなに突然に。
箔翔の様子に、かえってしっかりした璧は、箔翔を先導しながら言った。
「箔翔様、今、王になられたわけではありませぬから。まだ、譲位の式までは暇もございまする。式の案内が、龍の宮へ届いておって、それを我が兆加殿に見せられて、事の次第を知ったので。とにかくは、父王にお目通りを。」
箔翔は、ただただ頷いて、維明に形ばかりの挨拶を、気もそぞろにして訓練場を出て行った。
維明は、その後ろ姿に、何事があったのだろう、と訝しんだ。




