兆し
維心は、宮を空ける事が多くなっていた。
その年の終わりには、今まで筆頭軍神として仕えていた慎怜は退役し、代わりに老いが止まって退役後も変わらず軍を支えていた義心を復職させ、その息子義蓮を次席として軍は再編されていた。慎怜は、義心と違って他の神と同じように老いて来ていたので、やっと解放されたと隠居生活に入っていた。
その義心だけを連れて、維心は外出することが多かった。戻っても前のようにすぐには居間へ戻らず、会合の間で留まってしばらく話した後に、部屋へ戻っていた。なので、維月は維心が一体どこで何をしているのか、全く分からなかった。
元より、義心は絶対に維心の許しなく外出の中身まで話す事はない。まさか維心に限って、昔の蒼のように誰かの元へ密かに通っている、などと言うことはないとは思うが、それでも今までになかった事に、落ち着かなかった。
今日も、維心は部屋へと戻って来た。維月は、それを出迎えた。
「お帰りなさいませ。お着替えを。」
維心は、まだ甲冑のままだった。そして、幾分緊張気味な表情で頷いた。
「手早くの。」
何か、抑えている。
維月は、維心の様子にそれを感じた。苛々しているというか、気が逆立っているような感じだった。
なので、とにかく手早く維心から甲冑を外して着物に替えると、いつものように維月を抱き寄せる事もなく、踵を返した。
「…湯殿へ参る。」
維月は、慌てて言った。
「湯殿へ?あの、ではすぐに準備を。」
維月が共に行かないと、いつもなら維心の機嫌が悪くなるからだ。維月は、自分の着物もまだ準備していなかった。
「…良い。一人で参る。主はここで待っておれ。」
維月は、びっくりして呆然と頷いた。
「はい…。」
維心は、そのまま一人、湯殿へと出て行った。
維月は、何が起こっているのか分からなかった。
維心が湯殿から戻って来たのは、いつもの湯浴みより長い、一時ほど経ってからのことだった。
居間で、維月が考え込んで座っていると、そこへ歩み寄り、維月を横から抱きしめた。
「…待たせたの。時を取ってしもうた…本日は、留守中大事なかったか?」
維月は、いつもの通りの維心に、まだ少し戸惑いながら、頷いた。
「はい。いつものように、侍女達と話などをしておるだけでございます。」
維心は、頷いた。
「そうか。では、奥へ参ろう。」
立ち上がろうとする維心に、維月は慌てて首を振った。
「維心様がこちらで待つようにとおっしゃったので、私はまだ湯殿へ参っておりませぬの。あの、私も湯殿へ参りまする。」
維心は、少し怪訝な顔をした。
「ここで?ああ…そうだったか。」維心は、何かを思い出すように眉を寄せて言った。「良いではないか。我は気にせぬ。」
しかし、維月は気になった。なので、ぶんぶんと首を振った。
「すぐ戻りまするから。御前失礼を。」
しかし、維心は維月の腕を掴んだ手を離さなかった。
「良いと申したであろう。さあ、我が妃よ。主の務めぞ。参れ。」
いくらなんでも、あまりに勝手な気がして、維月はキッと維心を睨んだ。維心は、ぐっと眉を寄せて維月を見返した。
「なぜに主はそのように我に抗うのだ!務めを果たせと申しておる!」
維月は、維心に掴まれている部分の腕を光に戻して維心の手を振り切ると、断固とした口調で言った。
「維心様。あまりに勝手でいらっしゃいまするわ!ここのところ、ずっと義心だけを連れてお留守になさり、そうしてその後会合で遅くなられて、そのわけもおっしゃらずに大変にぴりぴりとしたご様子で戻られて!お仕事ならば仕方がないと思うて黙っておりましたが、私を湯殿にも行けぬようにしてしまわれるなんて、一体どうなさったの?!まるで何かを隠されるよう…私は、桂と蒼のことを思い出しましてございまする!」
維心は、それを聞いて顔色を変えた。桂と蒼…蒼は、隠れ屋敷に住んでいた桂に、ずっと密かに通っていた。明人だけを連れて…ある日、その子を連れて戻って、事が発覚したが、それまでは誰も知らなかった。
維心は、慌てて首を振った。
「そのような!我は誰にも通うておらぬ!そのような、主に顔向け出来ぬようなことを今更にすると思うのか!」
維月は、維心を睨みつけながら答えた。
「そのようなこと!男のかたの言うことなど、信じられませぬわ!」と、見る見る光に変わった。《少し月に帰って頭を冷やして参りまする!それから、月の宮へしばらく里帰りしますわ!維心様にも、その間に私に見られたくないことは、終わらせてしまってくださいますように!》
維心は、慌てて窓から飛び出して行く維月の光を追った。
「維月!違うのだ、戻らぬか!」
しかし、月である維月の速さは尋常ではなかった。維心が、茫然と月を見上げていると、光が空へと打ちあがったのを見た義心が、急いで駆けつけて維心の前に膝を付いた。
「王。あれは、維月様でございまするか?」
維心は、苦々しげに義心を見た。
「…我の気が乱れておったゆえ。維月に気取られてはならぬと思うて、戻ってすぐに湯殿へ出かけたのを、あやつは不審に思うておったのだ。湯殿で完全に気を制御して参ったと思うておったのに…まだ収まっておらなんだか。」
義心は、愁傷な顔をして、下を向いた。
「我ら軍神でも、そのように。気が昂ぶると、思わず強く出てしまい、屋敷の者達も我が戦などから戻ると側へ寄るのもびくびくとしておる始末でございまするから。」
維心は、月から、今度は月の宮の方角に向けて維月の光が降りて行くのを、成す術なく眺めた。どうしたら良いのだ…維月に知られるわけには行かぬ。確かに、隠し事をしても維月には分かっただろう。しかし、何を隠しておるのかまで分からぬから、あのように猜疑心に溢れた心持ちになってしまうのだ。
維心は、ため息をついた。
「しかし、確かにもう隠しようもなくなって来ておったことであるし。維月が戻っておる間に、さっさと片を付けてしまうぞ、義心。」
義心は、維心に頭を下げた。維心は、途端に目を薄っすらと光らせた。
我が妃との間に、諍いまで起こしおってからに。どうあっても、世に知らせず密かに終わらせてしまわねばならぬ。
維心の心は、そうして維月とは別の方向へと向かい、維心は険しい顔のまま、その夜居間で考えに沈んで過ごした。
箔炎は、長く世にあっただけあって、世に動きには敏感だった。なので、最近の神世の密やかな動きは、皆気の流れなどで分かっていた。鷹も、今では世に出て神の一員としてやっている。いろいろと、会合でも発言せねばならぬか、と庭を見ていると、一瞬眩暈がした。
何事か、とすぐに身を立て直したが、それでも、そんなことは初めてだった箔炎は、側の椅子へ倒れ込むように座った。息を大きく一つして、すぐに戻って来た通常の感覚にホッとしながらも、もう歳であるな、と自嘲気味に笑った。何しろ、もう1800歳にもなる。維心が、前世生きていたのと同じだけ生きているのだ。
何事もなかったかのようにしっかりとした箔炎は、一時的なもの、と立ち上がろうと椅子の肘掛に手をついて、そこで固まった。
自分の左手首に、炎のような形の、赤い痣が出ていたのだ。
「箔炎様!」
箔炎が、ショックを受けたように固まっていると、そこに陽華の声が聞こえた。ハッと我に返った箔炎は、慌てて腕を下げて手を袖の中へと滑り込ませると、陽華を振り返った。陽華は、庭から居間へと入って来るところだった。
「ああ、こちらに。あの、あちらに植えてくださった、花が咲いたのですわ。共に見ようとおっしゃってくださっておった。」
箔炎は、陽華を見て微笑んだ。
「おお、あの花か。そうか、では、共に。」
箔炎は、陽華に右手を差し出した。陽華は、微笑み返してその手を取った。
「はい。ほら、あちらですのよ。」
陽華は、嬉しそうにぐいぐいと箔炎を引っ張って庭を歩いて行く。
箔炎は、一瞬たりとも逃さぬように、陽華の楽しげな様子を見つめていた。
ここで二人が話している蒼の出来事は、新・迷ったら月に聞け4 王の妃達をご参照ください。




