桜の宴
その日は、晴れ渡っていた。
何のことはない、維心が晴れさせていたからだったが、絶好の花見日和だった。
維心の腕に抱かれて月の宮へと降り立った維月は、嬉しそうな碧黎の声にそちらを見た。
「維月、よう帰ったの。」
維月は、喜んで碧黎に飛びついた。
「お父様!お久しぶりでございます。」
碧黎は、維月を抱き上げて微笑んだ。
「ほんに長く顔を見ないと落ち着かぬ。もっと里帰りせよ、維心にばかり良い思いをさせることはないぞ。」
維心が、相も変わらず若い姿で幸せそうに維月を抱きしめる碧黎を、仏頂面で見て言った。
「なぜに妃をそれほど頻繁に里帰りさせねばならぬ。一度も帰らない妃も居るぐらいであるのに。我は寛容なほうよ。」
碧黎は、維心を意地悪げに見た。
「神世の常がそうであることは知っておる。だがしかし、主らの婚姻はその常とは外れておるのだから、それに当てはめるのはおかしいのではないか?」
維心は、ぐっと黙った。維月は、慌てて割って入った。
「あの、お父様。桜は咲いておりまするか?」
碧黎は、途端にまた機嫌良く表情を変えると、維月の手を取って頷いた。
「咲いておるぞ。参れ、案内しよう。」
十六夜が、それをじっと黙って見ている。出迎えていた蒼は、気遣わしげに維心に歩み寄った。
「維心様、このたびはわざわざのお運びありがとうございます。あの、天気の方も、調節してくださって。」
維心は、ちらと蒼を見た。
「そのせいで明日からしばらく雨だがの。」と、十六夜に向き直って言った。「主も!何をおとなしく維月をつれて行かせておるのだ。いつもの威勢のよさはどうした。」
十六夜は、常より力なさげに維心を見た。維心は、驚いて十六夜を見返した。
「…誠にどうしたのだ。具合でも悪いか?」
十六夜は、首を振った。
「いいや。親父のあの様子も、仕方がねぇんだよ。言ってなかったが、おふくろが行方不明なんだ。」
維心は、呆気にとられた。おふくろ…陽蘭か。
「陽蘭は、確か磁場逆転の時に気を失って、それ以来本体の地で眠っておるのではなかったか。」
十六夜は頷いた。
「そうなんだ。だが、先日目が覚めたみたいで…人型を取ったのを親父が気取ったんだが、そのうちこっちへ戻って来るだろうって放って置いたら、居なくなった。まだ目が覚めたばっかで不安定だから、親父もよく気取れないみたいでな。」
維心は、呆れたように十六夜を見た。
「放って置いた?なぜに迎えに行かぬのだ。そういう所が分からぬの。」
十六夜は、歩き出しながら言った。
「そんなにお互い執着がないのが、親父とおふくろだからな。親父も、起きても起きなくてもどっちでもいいって感じだったし、起きて人型を取ったからって、来たければこっちへ来るだろうってあっさりした感じで。だが、さすがに居なくなったのは気にしてるみたいだ。何しろおふくろは、他の男とでも平気な性質だしさ。いくら執着がないって言っても、いい気はしないだろうが。」
維心は、十六夜について歩きながら言った。
「だが、前回炎嘉が焚き付けた時よりは落ち着いておるようよ。考えすぎではないのか。」
十六夜は、首を振った。
「維月が居るからに決まってるじゃねぇか。親父にとって、維月もおふくろも同じようなもんなんだよ。特に維月は、おふくろみたいに対等な意識じゃねぇから、懐いててかわいいだろうが。」
維心は、それこそ迷惑な話だと声を荒げた。
「そのような!全く主らは面倒よな、親子でも兄妹でも婚姻可能などややこしゅうて仕方がないわ!」
蒼が、気の毒そうな目で見ながらそんな維心の後を黙って着いて来ている。十六夜は、肩をすくめた。
「仕方がねぇだろうが、こんな命なんだからよ。お前が維月を望むからこうなってるんだぞ?我慢出来ないなら、返してくれていいからな。」
維心は、ぶんぶんと首を振った。
「何を言うておる!維月と共に居ること以外、我が望むことなどないわ!」
十六夜は、分かっていたので言ったのだが、呆れたように横を向いて答えた。
「へーへー、分かったよ。」
そうして、桜の宴が行なわれる奥の庭へと出て行ったのだった。
蒼に案内され、上座になる奥の桜に囲まれた場所に敷かれた赤い毛氈の上に落ち着くと、維心は維月を探して辺りを見回した。すると、少し離れた桜の林の下で、碧黎と維月が舞い散る桜を見上げて、楽しげにしているのを見つけた。その様は、どう見ても恋仲の二人で、はしゃぐ維月の髪に降りかかる花びらを碧黎が優しく払うことすら維心には嫉妬を覚えて耐えられなかった。しかし、碧黎は維心にも敵わぬ力を持ち、そして、維月を望んでいるわけでもない。ただ、ああして父として共に過ごしたいと思っているだけなのだ。それを邪魔して、では妃にするなどと言い出したら、その方が維心には耐えられなかった。
なので、維心はせつなげにじっとその様子を見ていた。
すると、不意に維月がこちらを振り返った。
「維月…。」
維心が、聞こえないのを承知で呟くように言うと、維月は途端にこちらへ向けて駆けて来た。
「維心様ー!」
維心は、胸が熱くなった。維月、我に気付いてくれたのか。
しかし、妃なのだから気付く云々より、まず側から離れることが問題であるのだが、その瞬間、維心の頭からはそれが吹っ飛んでしまっていた。
「維月。」
側まで来て、自分に抱きつく維月を抱き留めて抱きしめながら、維心はその髪に頬を寄せた。維月は、顔を上げて言った。
「申し訳ありませぬ、お側から離れてしまって。父が後から来るゆえ、と申してどんどん歩いて行ってしまうので、先に来てしまっておりました。」
維心は微笑んで、首を振った。
「もう良い。桜と戯れておったか?」
維月の髪には、花びらが何枚も絡んでいた。それを取ってやりながら、維心は言った。維月は、微笑んだ。
「はい。毎年とても綺麗ですのに、今年は特に。奥のしだれ桜を見に参りませぬか?」
維心は、頷いて立ち上がった。
「参ろうぞ。毎年参るものの。」
維月は、ふふと笑った。
「前世から私たちの場所ですものね。あそこは静かで、桜が散る音まで聞こえそうに思って…。」
維心は、維月の肩を抱いて歩き出した。すると、碧黎が呆れたように腰に手を当てて立っていて、言った。
「全く維月は。主は一つのことに気を取られるとすぐ他を忘れるの。幼い頃よりそうよ。」
維月は、ハッとして碧黎をバツが悪そうに見た。お父様を、ほったらかしで来てしまっていた。
「申し訳ありませぬ、お父様。維心様がお一人で座っていらっしゃるのを見て、たまらなくて。気が付くと、お側へ走っておりました。」
碧黎は、首を振った。
「良い。夫のことは、見てやらねばの。では、我は少し母を捜すか。」
維月は、心配そうに碧黎を見上げた。
「お母様は、どちらへいらしたのでしょう。」
碧黎は、困ったように微笑んだ。
「まだ不安定でな。人型になるのが早かったのであろうの。何しろ、まだ数年は寝ておるだろうと我は思うておったのだ。なかなかに気が戻らぬから。しかし…」と、眉を寄せて何かを読むような顔をした。「…どうも、神の結界の中に居るような。しかも、そこそこの力の神であろうの、我が気取りにくいのであるから。」
「我ではないぞ!」維心は、強い調子で言った。「我は陽蘭云々考えておらぬから。」
碧黎は、苦笑した。
「主などと思うてはおらぬわ。ならば陽蘭を渡して維月を返してもらえば済むからの。」維心が、やっぱりそういう考えか、と顔を青くしているのにも気付かぬように、碧黎は続けた。「これはしかし…炎嘉か?いや、あやつはもう龍か。ならば、箔炎?」
維月が、驚いたように碧黎を見た。
「え?箔炎様が、お母様を保護なさっておいでだと?」
碧黎は、首をかしげた。
「どうであろうの…陽蘭の気がほんにまだ弱いのだ。しかし、あれを通して微かに感じるのは、鳥や鷹など特有の波動。」と、空を見上げた。「…ならば、このままでも良いやもしれぬ。」
維心が、びっくりしたように碧黎を見た。
「箔炎が、もしも陽蘭を娶っておっても良いと申すか?」
碧黎は、まだ空を見ていたが、維心に視線を向けて言った。
「我は、非情ではないし、己の感情など何とでも出来る。それが良いと判断したら、そうする。この場合、その方が四方丸く収まる。」
維心は、どういうことか分からなくて顔をしかめて碧黎を見た。
「何を言うておる。四方とは何ぞ?」
碧黎は、うんざりしたように維心を見返した。
「言うたであろうが、世を広く見よと。まあ、我が危惧した方向へはどうやら行かぬようであるし、良いがの。」と、維月の頭を撫でた。「さ、維心と出かけて参れ。後で父に酒を注ぐのだぞ?」
維月は、微笑んで頷いた。
「はい、お父様。」
維心は、何が起こっているのか気になるまま、維月と共にしだれ桜の場所へと向かったのだった。