返歌
もう正月も間近に迫ったその日、ここ最近では珍しく、龍の宮から蒼宛てに私的な設えの書状が届いた。維月がここへ戻ってから初めてのことで、蒼は驚いて慌てて文箱を開けた…そこには二つの折りたたまれた手紙が入っていて、一つの方には蒼、と宛名があって、もう一つの方には無かった。蒼が、自分宛の方を開くと、見慣れた美しい維心の文字でこう書かれていた。
『蒼に折り入って頼みがあってこの書を送った。もう一つの書を、もしも差し支えがなければ維月へ渡してほしい。』
それだけだった。
蒼は急いでその書を手に取ると、懐に入れて落とさないように気を配りながら、必死に維月の部屋へと走った…維心様が、いったい何を言って来たのか分からないけど、でも、これって何かだよね?!
蒼がわき目も振らずに回廊を走っていると、何かが急に目の前に現れて勢いよくぶつかった。蒼は、突然のことに避ける間もなく、正面から当たって廊下に転がりそうになり、慌てて気を使って体勢を整えた。
「…十六夜!」蒼は、最近では十六夜も碧黎のようにパッと出て来るようになったのを思い出した。「宮の中ではやめろって言ったじゃないか!痛いだろうが!」
十六夜は、それには構わず真剣な顔で蒼ににじり寄った。
「蒼、それは維心からか?維心が、何を言って来た。私的な書簡だと翔馬が言っていたぞ。」
蒼は、懐の手紙を思わず押さえながら言った。
「…オレにじゃないよ。オレには、これを母さんに渡して欲しいってだけ。だから、急いでたんじゃないか。」
十六夜は、目に見えて驚いた顔をした。
「維心が維月に?!何を言って来たんだ、まさか悪いことじゃねぇよな?あいつ、最近は暗くってとても話しかけられたもんじゃねぇって維明から聞いてたんだ。維心の様子は、逐一知らせてもらってたんだけどよ。」
蒼は、まだ胸の手紙を庇いながら言った。
「知らないって!中身なんて、見れるはずないじゃないか。これは母さん宛てなんだからね!」
十六夜は、それでもじっと蒼の胸の手紙を凝視した。
「…なんだ、見えねぇな。くそ、今の維月にきついこと言ったりしたら、それこそ立ち直れねぇぞ!やっと最近、具合が良くなって来たのに。」
蒼は、十六夜に背を向けるようにして維月の部屋の方へとじりじりと歩いた。
「駄目だよ!他人の手紙を覗き見なんて、絶対だめだ!」と、蒼はまた走った。「気になるなら、母さんが見た後見せてもらえよ!」
「あ、こら蒼!」
十六夜が言うのも聞かず、蒼は維月の部屋へと飛び込んだ。
中では、維月が急に駆け込んで来た蒼に、びっくりしたように顔を上げたところだった。
「蒼?どうしたのよ、そんなに急いで。」
蒼は、不必要に体力を使ってしまったと、息を上げながら懐からその手紙を引っ張り出すと、維月に差し出した。
「母さんに。渡してくれって、維心様が。」
その後ろから、十六夜が部屋へと入って来る。維月は、目を見開いた…維心様が、これを?
「維月、見たくねぇならいいから。突き返してもいいと思うぞ。」
維月は、黙ってその手紙を見た。そして、それを蒼から受け取ると、中を開いて、読んだ。
嘆けとて 月やはものを 思はする かこちがほなる わが涙かな
横から十六夜が、それを覗き込んで顔をしかめた。
「なんでぇ、これだけか?何のつもりだ。」
しかし、維月は見る見る涙を浮かべ、ぽろぽろと涙を流した。
「返歌だわ…。」維月は、嗚咽を抑えて言った。「読んでくださったのだわ。」
涙が、ぽたぽたとその手紙に落ちる。十六夜は、茫然として言った。
「だが、あの手紙は維心の手には渡らなかったはずだぞ。炎嘉が目の前で燃やしちまって…」
そこで、十六夜はハッとした。燃やした手紙。灰になる。粉…黒い粉とは、あの手紙だったのだ。維心が必死に復元しようとしていたのは、あの時炎嘉が燃やした維月からの手紙だったのだ。
「なんでぇ。」十六夜は、呟くように言った。「そうだったのか。あいつは、維月からの手紙を復元させようと、ずっと篭ってたってことなのか。」
蒼は、維月の手にある手紙を覗き込んだ。しかし、自分も和歌には全く疎い。すると、相変らずパッと現れた碧黎が、同じように手紙を覗き込んで、言った。
「『月が我を嘆かせるのか。いや月のせいではない。主が恋しいゆえだ。それでも月がただ美しくて我の涙をさそうのだと思いたいのだ。』と言うておると、我には読める。人世の歌の真似事であるがな。」
しかし、維月は首を振った。
「私に、歌の意味が分からないから。」維月は、まだ泣いていた。「維心様は、いつもこうして、現存する歌の中から選んで、私に送ってくれておりました。それならば、学校に通っておった時に訳を覚えて知っておるものもあるので。そうやって、いつも、こちらを気遣ってくれましたの…。」
維月が回りも構わずに泣いているので、十六夜が駆け寄ってその肩を抱いた。
「維月…だったら、今すぐ行くか?送ってやろう。」
だが、それには蒼が渋い顔をした。
「無理だよ。神世に、もう離縁したって告示されてるんだからね。正月も七夕も、母さんが出てないしそれが本当だってことは周知されてしまってる。おまけに、嘉翔が生まれたのもみんな知ってるし。維心様と離縁したから、母さんが嘉韻と再婚したって思ってると思うよ。だって、維心様のほかに嘉韻も居たなんて、誰も知らないから。」
十六夜が、怒ったように手を振った。
「そんなもん!回りがどう思おうが、いいじゃねぇか!当人同士のことだろうが!」
しかし、碧黎も首を振った。
「十六夜、神世は面倒なのだ。一度事が成ってしもうたら、元へ戻すのに時間が掛かる。維心とてそれを知っておる…まして、己が離縁した女をまた娶るなど、前代未聞のことであろうからの。龍王妃であるぞ?」
蒼が、珍しく碧黎が神世のことを理解した物言いなので幾分ホッとしながら、頷いた。
「その通りなんだよ。もう一度元へ戻るってことは、もう一度結婚しなきゃならないから、一から段取り踏んで進まないと。まずは…」
「…茶会。」意外にも、十六夜が言った。「分かってるよ。段取りだろ?神世は何でも茶会だ。仲直りの茶会、慰安の茶会、見合いの茶会。仕方がねぇ、蒼、ここで茶会を開け。そっからだ。」
蒼は、頷いた。維月は、幾分明るい顔になって、十六夜を見上げた。十六夜は、維月の頭を撫でた。
「ちったあ元気になったか?早く前の維月に戻ってくれよ、オレはお前がどんな状態だって好きだが、でも元気がないのはこっちの心に辛いんでぇ。」
維月は、笑って涙を拭いながら頷いた。十六夜は、そんな維月を抱きしめて、蒼は覚悟した…また、一から龍王妃になる道筋を、歩かさなきゃならないんだから!
明けて、正月はどこの宮も忙しかった。
しかし、月の宮はいつも正月の挨拶は受けない決まりになっているので、軍神達も長い休みがあった。嘉韻も、元旦の挨拶を蒼にした他は、屋敷に居て維月と嘉翔と共に過ごした。
維心のことは、聞いていた。維月がまだ維心を愛していることは、嘉韻にも分かっていた。元より、維月がそうなのだと知っていて自分は維月を娶ってここまで来た。なので、また龍の宮へと戻ることになりそうだと聞いても、仕方がないことだと割り切ることは出来た。
この一年と半年の間、嘉韻は普通の神の家庭というものを経験できた。しかも、もう諦めていた子まで手にした。このまま一生、日陰の身であると思っていた嘉韻にとって、夢ようなひと時だった。
今日も、両隣の明人と慎吾の家族と共に、嘉韻は嘉翔を抱いて、維月を伴って散策に出ていた。いつも他の二人に遠慮していた嘉韻には、自分にも家族と言えるものが出来て、とても幸福だった。
「ああ、本当に愛らしいこと。」慎吾の妻の、結朋が嘉翔を腕に言った。「嘉韻様によう似ていらして。金髪であるのに、龍であるから気が大きいし。」
慎吾は、嘉翔の顔を覗き込んで頷いた。
「ほんになあ。育つと更に際立つことよ。早よう年頃になって、その姿を見てみたいもの。」
嘉韻は、苦笑した。
「まだ半年ほどであるのに。主らは気が早いことよ。」
明人と慎吾の孫と同じぐらいの歳になる嘉翔なので、両家族にはかわいくて仕方がないようで、嘉翔はよく構ってもらっていた。維月も、それを微笑ましげに見ている。嘉韻は、そんな維月の肩を抱いた。
「少し、嘉翔をあれらに任せてあちらへ参ろうぞ、維月。」
維月は、頷いて立ち上がった。きっと話があるのだ。
そうして、湖を回りこんで森の方へと歩いて行く。その間、嘉韻は何も話さなかった。しかし、維月はじっと黙ってその後をついて行った。
しばらく歩くと、嘉韻は木を見上げて立ち止まった。
「ああ、ここぞ。」
維月は、同じようにその木を見上げた。しかし、枝が絡み合っている他は、何もなかった。
「ここが、どうしたの?」
嘉韻は、振り返った。
「主と追いかけっこをして、捕らえた場所。あそこから、この地面へと落ちた主を庇って我は、主の下敷きになった。」
維月は、思い出して頬を赤らめた。そうだ、あの時は前世の記憶もなくて、それは子供で…。
「…困ったこと。あのように、子供の私を覚えておられるなんて。」
しかし嘉韻は、維月を抱き寄せた。
「だが、我はあの時主を愛しているのを知ったのだ。恋うるということを、あの瞬間まで知らずに来た。あれは…なので、忘れることなどない。」
「嘉韻…。」
維月は、嘉韻を見上げた。嘉韻は、こうして自分を想ってくれる。自分も、維心に出会う前は嘉韻を愛しそうになっていた。しかし、維心と出会い、その想いは一気に維心へと流れ込んで、そうして…。
維月は、下を向いた。嘉韻を幸せに出来る自信はなかった。でも、嘉韻がとても自分を望んでくれたので、維心が許したこともあって、里帰りの僅かな時間、一緒に過ごして来たのだ。嘉韻が、他に誰かを見つけたならば、別れるはずの関係だった。しかし、嘉韻はずっとぶれずに維月を想って生きて来てくれた。だからこそ、こうして子をなし、産もうと思ったのだから。
だが、自分はやはり維心を愛している。また、以前の状態へと戻ろうとしているのだ。
嘉韻は、維月の顔を上げさせて言った。
「何を憂いておる。我は、己で選んだ道なのだ。それに、もう諦めていたのに、こうして家族というものを持つことが出来た。主だって、居なくなる訳ではないではないか。誰が何と言おうとも、嘉翔は主と我の子であるのだ。あれの母であるということが、我と主を結んでいる。離れることなどない。」
維月は、嘉韻を見て涙ぐんだ。そんな風に思ってくれるの…。
「嘉韻…私は嘉韻のことを大切に思っているわよ。だからこそ、嘉翔を生んだのだもの。」
嘉韻は、微笑んで頷いた。
「わかっておるよ。そのように気にするでない…我は、またここで待っておるから。今度は、一人ではない。嘉翔と共にの。」
維月は、微笑んで頷いた。
「ええ嘉韻。」と、嘉韻に抱きついた。「ありがとう、嘉韻…。」
嘉韻は、維月を抱きしめた。
「愛している。我はあの時から、ずっと主を想うておるよ。後悔したことなどない。」
二人は、そのまましばらくそこで、抱き合って立っていたのだった。




