復元
維心は、黒い粉を前に、じっと考え込んでいた。これが、自然の炎に焼かれたものであれば、一瞬の内に復元できたであろうが、これは神の気によって生じた炎で焼かれたもの。いくら維心でも、一筋縄では戻せなかった。
このひと月あまり、あれこれと術を使って復元を試みて来たが、全て無駄に終わった。しかし、手ごたえは感じていた…後一押し。何が足りぬ。
維心は、立ち上がって窓際へと歩いた。空には、月が出ている。こうして月を見ることなど、この一年以上なかった。月は、様々なことを思い出させる。そして、自分の心を暗い場所へと追い詰めて行く…。
維心は、目を反らしてまた黒い粉へと向かおうと踵を返した時、側の棚に当たって、傾いた拍子に中の引き出しが音を立てて床へと落ちた。そこに入っていた小さな小箱も床へと放り出されて蓋が飛び、中身が甲高い金属音を立てて落ちて床を転がって行く。
維心は、慌てて手を上げるとそれを気で掴み、自分の手へと引き寄せた。そうして、自分の手の中で光る、その小さな輪を見て胸を締め付けられるような心地がした…それは、維月との結婚指輪だったのだ。
決して外さないと約したもの。自分が、人世に行ってまで買い求め、元、人だった維月のためにとお互いに、黄泉を越えてまだ持って来た変わらぬ愛情の証。
維心は、自分の中にまだあった、維月への想いが堰を切ったように流れて出て来るのを感じた。愛しているのだ。気が狂いそうなほど、我は維月を愛している。だが、自分からあのように維月を突き放し、乱暴に離縁してしまった。維月は、きっとあちらで嘉韻と十六夜と共に、新しい生を生きているのだろう。我を、忘れて…。
維心は、この一年封じていた想いがどんどんと胸を突き、別れてから初めて涙を流した。だが、どうすれば良かったのだ。命が違うなどと言われたら、自分にはどうしようもないではないか。だが、愛している維月を案じるなといわれても、自分には無理だ。側から離れただけでも、心配で仕方がなかった維月を、碧黎や十六夜のような感覚で見るのは到底無理なのだ…。
維心は、涙を拭うと、その指輪をそっとテーブルの端に置き、横に置いてあった黒い粉の入った皿を見つめた。これを、復元出来たなら。我は、そこに何があったのか知りたいのだ。
維心が術を放つと、何かがすーっと後押しするかのように維心の力に加わって来たように感じた。
…いける!
維心が悟って力を込めると、黒い粉は瞬く間に白く、所々黒く変化し、一枚の紙へと形を変えた。そうして、それは形を失った時そのままに折りたたまれた状態へと変わると、そこへ落ちた。
「…復元されたか。」
維心は、小さく呟いた。このひと月、どれほどに術を放っても微動だにしなかったのに。
ふと見ると、側に置いた指輪が薄っすらと光っていた。そして、その光は維心の見ている前でスッと収まった。
「この、輪が…。」
維心は、維月だと思った。維月と自分の長い想いがここにあって、それがこうして力を貸してくれたのだ。我が、どれほどにこれを見たいと思っても、この想いを忘れたままでは復元出来なかったのだろう。
維心は、その折りたたまれた紙を、震える手で持ち、ゆっくりと開いた。
それは、炎嘉があの日、一瞬で燃やしてしまった維月からの手紙だった。
あの日、炎嘉が目の前で焼き消したこれを、どんな想いでかき集め、中を見たいと願ったか。最後に維月は、何を我に言いたかったのか。それが突き放すようなことでも、どうしても知りたい…!
ひとはいさ 心も知らず ふるさとは 月ぞ昔の 色残しけり
たった一行、そう書いてあった。
その歌が、昔維月と共に見た人世の歌であったのを思い出した…しかし、その歌は「月」ではなく「花」だった。維月には歌の心得はなくて、維心がよく、いろいろと詠んで聞かせたものだった。だが、それでも維月は歌が苦手だった。なので維心も、維月に分かるようにと既にある人世の歌を引用して、維月と詠み合いをして楽しんだのだ。これは、そんな維月が、維月なりに必死に考えて書いた、月である維月自身に掛けた、歌なのだ。
「維月…あのように、一方的に離縁したのにか。」
維心は、また涙を流した。
…今のあなたのお気持ちはわかりませんが、私は昔と変わらず、あなたを想っています。
その歌はそう、言っていたのだった。
もう、年の瀬も押し詰まって来ていた。
維月は、嘉翔を抱いて庭で座っていた。嘉韻は、今日は任務でコロシアムの立ち合いを見ている。なので、ここで嘉翔と二人、時を過ごしていたのだ。
嘉翔は、もうしっかりとして来ていて、一人で座ることも出来るようになった。維月のことも嘉韻のことも分かるようになって、いつも嬉しそうに手を差し出して来る。維月は、目の前の芝に嘉翔を下ろした。
「ハイハイしてみる?ここなら、大丈夫よ。」
嘉翔は、維月に言われて恐る恐る芝に手を付いて、そして、いつも床を這うように尻をふりふりと左右に揺らしながら喜んで芝の上を這っている。まだ生まれて半年だが、それでも神の子は育ちが早い。時にふんわりと飛び上がって、気でふらふらと飛んだりするので、目が離せない時期だった。
維月が、飛んだらすぐに捕まえないと、と思って見ている側から、嘉翔はスッと浮き上がった。
やっぱり!
維月は慌てて側へと急いだ。何しろ気が何かも分かっていないのに使っているので、いきなり落ちたりするのだ。
「嘉翔、飛ぶのはまだ駄目よ!」
結構高く飛んでしまっている嘉翔に叫んで維月も飛ぶと、思った通りこちらを振り返りざま、嘉翔は下へと落下した。
「嘉翔!」
維月が慌ててその下へとクッションになるために滑り込むと、嘉翔はピタリと宙で止まった。
「あら…?」
維月がびっくりしていると、嘉翔はするすると何かに引っ張られるように飛んで、いつの間にか側に来ていた甲冑姿の嘉韻の腕へと飛び込んだ。
「危ないことよ。己で気を使うことも知らぬのに、こやつは。」
嘉韻が、気で嘉翔を受け止めて自分の方へ運んだのだ。維月は、ホッとして嘉韻に駆け寄った。
「ありがとう。この子ったら、とっても飛ぶのが早いのですもの。困ったこと。」
嘉韻は、苦笑した。
「ま、少しは痛い思いもせねば、分からぬのであるがの。つい手を出してしもうて。」
嘉翔は、喜んで嘉韻の甲冑に触れている。嘉韻は、そんな嘉翔を愛おしそうに見た。
「こら、主は。母を困らせてはならぬぞ?父が来なければ、主は母を下敷きにしておったのだからの。」
ある程度は言葉の意味がわかるらしい嘉翔は、その途端に神妙な顔をした。維月は、ふふと笑った。
「良いのよ。男の子はこれぐらい元気でなければね。まして嘉翔は、きっと軍神になるのでしょうし。」
嘉韻は、困ったように微笑んだ。
「ほんにこやつに務まるものか。今から案じることぞ。」と、維月を見た。「今日は、気分も良いようよ。しかし、もう休んでおったほうが良い。」
維月は、嘉韻に微笑んで見せた。
「大丈夫よ。そういつまでも落ち込んだりとか、性に合わないから。」と、嘉翔を嘉韻から抱き取った。「さあ、父上はお着替えをなさるから、あなたも乳母の所へ行きましょうね。」
嘉翔は、きゃっきゃと喜んでいる。維月は、嘉翔を抱いて宮の中へと入って行った。
嘉韻は、そんな維月に、まだ無理をしている、と案じて見送っていた。




