粉
維月に異変が現れ始めたのは、それから数週間経った頃だった。
始めは子の世話にと表面上は明るくしていた維月だったが、すぐに疲れたと座り込むようになり、そうして眠いとよく眠っているようになった。十六夜は、維月が具合が悪いのかとずっと月の宮に降りて側についていたが、碧黎がいうには、気の力弱まっているだけで、命に別状はないらしい。
それでも、維月は一日の大半を眠っていることが多かった。まるで、前世で人の体を失う前の症状のようだ、と十六夜は思っていた。
「何もないと親父は言うけどよ…絶対、どっか悪いって。」
すると、碧黎は眉を寄せた。
「我の見立てが間違っておると言うか。しかし命に別状はないのだからの。ただ、恐らく精神的に参っておるのだ。気を張っておったのだろう…本来、我慢などしないのが我らのような命。であるのに、こやつは回りを気遣う性質であるから、自分がつらくても、無理に笑っておったことがあったのやもしれぬ。」
十六夜は、心当たりが多すぎるほどあった。
「…やっぱり、維心か。」十六夜は、眠る維月を見た。「どうしたらいいんだ…。無理にあいつに押し付けるってもの出来ねぇし。」
碧黎は、ため息をついた。
「無理に?我はそうは思わぬが、しかしこれは主らのことであるからの。いくらかわいい娘のためとは言うて、口出しすることは出来ぬ。己で何とかするよりないの。」
十六夜は、恨めしげに碧黎を見た。
「なんでぇ、いつもいろいろ見えてるくせに何も言わねぇんだからよ。維月がこんな時ぐらい、何とかしてくれたらいいじゃねぇか。」
碧黎は、首を振った。
「あくまで、主らのこと。我には出来ぬ。言うたであろうが、我にも親が居るのだ。見えておらぬが、監視されておるようなもの。ここで勝手なことをしたら、また力が無うなってしまうわ。」と、斜め上を見た。「…そうよな。維明にでも頼めばどうか?あやつなら、維心に近いゆえ話も出来よう。炎嘉は、もう維心は駄目だと怒ってしまっておって、七夕からこっち維心と会うておらぬだろうが。」
十六夜は、長く息を吐いて、頷いた。
「ああ。何をどうしたらいいのかわからねぇが、とにかくは維明に相談してくるよ。じゃな。」
十六夜は、飛び立って行った。碧黎は、それを見送りながら、呟いた。
「ほんに神は、面倒よのう…。」
十六夜が、こっそりと維明の対に降りたって中を伺うと、維明は居間でじっと何かを読んでいた。よく見ると、箔翔もその前でじっと同じように巻物を広げている。十六夜は、そっと庭側から窓を開けて入った。
「…維明?入るぞ。」
維明と箔翔は、びっくりしたように振り返った。何の気配もなかった…そういえば、最近は十六夜と接していなかったから、忘れていたのだ。
「十六夜!久しぶりぞ。その、母上は…?」
十六夜は、首を振った。
「月の宮で、ちょっと具合が悪くてな。」と、手にある巻物を顎で示した。「政務か何かか?」
維明は、首を振った。
「違う。ここ最近、父上が奥へこもって何かの術をかけておられて…もう、数週間になるか。あまりに長いし、政務も溜まるゆえ、お出まし願うのだがすぐに引っ込んでしまわれる。奥へ入れるのは我ぐらいのものだし、一度お呼びするのに中へ入ったのだが、何かの粉のようなものを前に、目を凝らしてじっと術をかけていらしたのだ。問うても教えて下さらぬので、何の術なのか箔翔と調べておったのよ。」
十六夜は、怪訝な顔をした。
「粉?粉なんか、何に使うんでえ。」
維明は、首を振った。
「わからぬ。それを調べておる。」
十六夜は、考え込むように顎に手を置いて遠くを見た。
「…維心はいったい、どう思ってるんだ。維月をあんなにあっさり帰して…ほんとに、新しい生とやらを生きるつもりなのか。」
維明は、箔翔と顔を見合わせた。
「いや…むしろ、死んでおるような。」箔翔が、口を開いた。「何しろ、ずっと居間で居て外へ出ることなどない。政務以外では誰とも口をきかぬし、以前のように我や維明にも話してくれぬようになった。笑う事もない…表情が全く変わらぬからの。何を考えておられるのか、さっぱり分からぬのだ。」
維明は、頷いた。
「以前は、軽く冗談などもおっしゃったのに。今は、いつも気だるげにしておられるだけで、絶対にそんなことはない。そんな父上が、急に何かに集中されておるので気になっての。」維明は、巻物に視線を落とした。「何かの復元の術のような波動のようぞ。」
十六夜は、険しい顔で二人を見た。
「復元?その粉は、何かの跡なのか。」
維明は、また首を振った。
「何であろうの。黒い粉で、だが、よくは見えなかった。我が行くと、隠すように奥へ押しやられので。」
十六夜は、首をひねった。
「黒い粉…何かの事件の検証でもしてるのか?」
維明は、それには首を振った。
「いや…それならばなぜに我に隠す必要があるのだ。大体、世は今平穏ぞ。父上が常にないほど厳しく見ておられるから、誰も悪巧みなど出来ぬのだ。」
十六夜は、考えながら、何か維月に関係あるものかと思ったが、しかし黒い粉などに心当たりはない。仕方なく、維明を見た。
「わからねぇな。じゃあとにかく、お前は維心のことを見ててくれや。こっちは、維月を見てないと気になって仕方がなくてな。」
それには、維明が表情を崩して心底心配そうな顔をした。
「母上が?母上はどうしておられる。気になってはおったが、父上があのようなご様子であるし、我も訪ねることも出来ぬでな。兆加に聞いたところによると、父上が許されておった月の宮筆頭軍神の嘉韻との間に、子を産まれたのだと。大変に美しい子であると、他の宮の臣下達の間でも噂になっておったほどぞ。」
十六夜は、顔をしかめた。そんな噂が流れているのか。
「確かにめちゃくちゃ綺麗な顔立ちの子だ。世話係りがいっつもとっかえひっかえ抱いてて、ベッドに寝かされてる時間の方が短いぐらいだからな。嘉韻そっくりなうえ、陰の月の気まで継いでる訳だから、ああなるのは分かるが。まさかお前まで知ってるなんて、噂ってのは怖いな。」
維明は、頷いた。
「月の宮の筆頭軍神の子であるからな。母上が、お幸せであるなら我は良いかと思うておったが、あまり表に出てこられることもないのだと聞いて、あれほどに活発な母上がと案じておったのだ。」
十六夜は、さすが維月の息子だと維明を見つめた。維心とは違って、相手の心の内を気遣うことが出来るのだ。
「…誰にも言うなよ。維月は、未だに維心のことが忘れられねぇんだ。だからオレも嘉韻も、最初は夜一緒に過ごしていたが、維月が維心を思い出してつらそうなんで、それからずっと夜指一本触れてねぇ。嘉翔は、戻ってすぐの頃に宿った子で、嘉韻だって驚いたぐらいだ。維月はそういうことの調節が出来るから、前向きにならないとと嘉韻の子を産む決心をしたようなんだがな。だが、精神的に無理をしすぎてて、今は眠ってることが多い。維心のことなど気にしないと回りに思わせるために、明るく振舞ってたんだろうけど、それが今になって体に来てるみたいなんだ。」
維明は、目に見えて悲しげに肩を落とした。箔翔が、気遣って維明の肩に手を置く。維明は、そんな箔翔に弱々しく微笑みかけて、十六夜に言った。
「母上は、ご無理をなさっておいでか。それでは、父上にそっくりの我などが行っては余計にご無理をさせることになったであろう。行かずで、良かったことよ。」と、視線を落とした。「あの、何事にも前向きで快活な母上が。そのようにおつらい想いをなさっておいでだとは、我も居た堪れぬ。」
今度は十六夜が、維明の肩に手を置いた。
「仕方がねぇよ。男と女ってのは、外野がごちゃごちゃ言ってもどうにもならねぇし。だが、維心は元々女を近寄らせない男だったからな。維月に愛想尽かしてるんなら、これ以上無理強いするのもって思ってる。余計に毛嫌いするようになるかもしれねぇじゃねぇか。だから、後は維月の問題なんだ。だが、あいつも頑固で一度好きになると梃子でも忘れられねぇヤツだからよ…維心が、少しでも歩み寄るような気持ちで居るならって、ちょっと期待してるだけさ。」
そして、十六夜は窓へと歩み寄った。
「とにかく、維心を観察してて欲しい。何か、ちょっとでも維月と話せそうな感じだったら、知らせてくれねぇか。別れるにしても、最後がケンカ別れみたいになっちまってるから、きちんと気持ちの整理を付けさせてやりてぇんだ。」
維明は、飛び立とうとしている十六夜に向かって、頷いた。
「わかった。見ておこうぞ。」
十六夜は、そうして龍の宮を飛び立って行った。




