過ぎて行く時に
そうして、時はゆるゆると流れた。あれから、もう半年以上過ぎていた。正月も節分も、いつも龍の宮で過ごしていた維月にとって、物足りない状態ではあったが、それでも少しずつ心の痛みは楽になって来ていた。炎嘉は政務の間を縫って維月に会いに月の宮へとやって来た。そして一時維月と過ごし、宮へと帰って行く。
維月は十六夜の部屋へと戻っていたが、十六夜は毎日そこに居る訳でもなく、月に戻ったりとやはり気ままだった。維月の事は気にしていたが、それでも生活習慣は変えられないのだ。今まで維月は龍の宮に居て維心と生活していて、自分は会いたくなったら会いに行く生活をし、連れて帰って来たひと月ほどは一緒に居るが、他は気ままにしていたので、ずっと一緒に居るということに慣れないのだ。
黄泉へ行った時でもそんな感じだったので、維月は十六夜の性質は知っているし、それに悪気がないのも分かっていた。なので、何も言わず、もっぱら碧黎や嘉韻と過ごすことの方が多かった。嘉韻はこちらを気遣ってくれていたし、本当に大切にしてくれていたので、維月は救われていた。なので今日も、維月は嘉韻と共に過ごしていた。
「さあ、日も暮れて参った。そろそろ宮へ戻ろうぞ。」
二人で湖を眺めていた嘉韻は、維月の肩を抱いて言った。
維月は、嘉韻を見上げた。
「嘉韻…私、あなたに言わなきゃならないことが。」
嘉韻は、何も言わずに問いかけるような視線を向けて、維月を促して歩き始めた。維月は、自分の腹を押えた。
「以前、言っていたわね。もう、子供は諦めていると。」
嘉韻は、頷いて視線を維月の腹へと落とした。確かに、龍王から一時許されているだけなのに、子供など無理だろうと、維月を娶った時諦めた。それでも、愛した維月と過ごしていけるならと、自分を鼓舞してここまで来たのだ。
「無理は言わぬ。我の老いが止まっておるとは言え、普通の神であるしな。主とて…まだ、龍王を想うておるのであろう?」
維月は、下を向いた。忘れようと思っても、湧き上がって来る維心への想いは、確かにまだ心にあった。それでも、自分は前を向いていかねばならないのだ。
「嘉韻。何も言わずにごめんなさい。私、あなたの子を身ごもっているの。」
嘉韻は、言葉を失った。我の子…もう、宿っておるというか。
「なんと…もう?」嘉韻は、思わず維月の腹に手を置いた。「我の子が、ここに?」
維月の腹は、少しせり出ていた。最初は維月と夜も共に過ごしていたのだが、維月が龍王を思い出してつらそうなので、それからは夜は手を出さずに来た。なので、維月が身ごもっているなど気付かなかったのだ。
気を探ると、確かに自分の気が、生きて動いているのを感じた。嘉韻は、それを感じた瞬間、思ってもみなかったことに、歓喜ともなんとも言えぬ感情が湧きあがって来て、涙があふれて来た。
「まあ、嘉韻…。」
維月が、気遣わしげに嘉韻の頬に触れる。嘉韻は、涙を流したまま微笑んだ。
「諦めておったのに。」嘉韻は、維月の腹に頬を摺り寄せて抱きしめた。「もう、ここまで大きくなっておるとは。」
維月は、微笑んで頷いた。
「もう、7ヶ月なの。」嘉韻は、驚いたように維月を見上げた。維月はふふと笑った。「ここへ戻ってしばらくの頃だったから。」
嘉韻は、目を丸くした。
「なんと。ならばもう、産み月は近いの。十六夜は知っておるのか。」
維月は、首を振った。
「いいえ。あちらも私を気遣って、夜も共に寝るだけだったから。でも、もう言わなきゃと思って…まずは、あなたに。」
嘉韻は、頷いて立ち上がった。
「おお、忙しゅうなるの。明人と慎吾に聞かねばならぬ。まさか、我に子がなどと思いもせなんだゆえ…そうだ、名も。」と、歩き出しながら腹を見た。「どちらかの。」
維月は、笑った。
「男よ。この気は男の子だわ。」
嘉韻は、嬉しそうに言った。
「男か。」と、空を見上げた。「父上にも知らせねば…何と嬉しいことよ。」
二人は、そうして宮へと歩いて行ったのだった。
維心は、七夕の祭りで恒例の、龍王の顔見世に出ていた。
これは、前世から大嫌いな行事の一つで、ここに座って回りの段々になっている回廊に鈴なりになっている神達に眺められるに任せるのは、はっきり言って見世物以外の何物でもなかった。それでも、今生維月と共に座るようになってからは、着飾った維月を皆に見せたい一心で、七夕も待ち遠しかった。それなのに、今はたった一人、こうして座っている。全て、自分が決めたことだった。月の宮の様子も、普通の神が知っているようなことしか、維心も知らなかった。神の会合で会う蒼とも、炎嘉はよく話していたが、維心は顔を見るのも避けていた。維月に似ている蒼を見ることで、心の内に封じている維月への想いが抑え切れなくなりそうで、とても見ることが出来なかったのだ。
蒼も、それが分かるのか、維心の前では維月や十六夜の話さえしなかった。炎嘉も、あえてその話題は出さなかった。
維心が、相変らず不機嫌な様子でそこに座っていると、炎嘉がやって来た。炎嘉は、最近穏やかに優しい気を発するようになった。維月を娶ったとは聞いていない…しかし、足げく月の宮へと通っているようだった。炎嘉は、維心の前まで進み出ると、笑って言った。
「また相も変わらず不機嫌よな。」
維心は、炎嘉を睨んだ。
「見世物になって上機嫌とは行かぬだろうが。」
炎嘉は笑ったまま、維心に歩み寄って奥へと首を振った。
「助けてやろうぞ。奥へ参ろう。話があるのだ。」
維心は、やっと解放されるかとホッとすると、立ち上がって炎嘉と共に奥へと向かった。背後からは、残念そうなため息が漏れていた。
二人で並んで回廊を歩いていると、炎嘉は言った。
「主がまた独り身になったと知って、此度は皇女の数が多いこと。少しでも主の目に留まろうと皆必死であったのに、主、回りに目もくれずにおったの。」
維心は、炎嘉の方を見もせずに言った。
「ふん。あんなもの鬱陶しいばかりぞ。もう維明も居るし臣下もうるそう言わぬ。我は妃など要らぬわ。」
しかし、炎嘉は言った。
「維月は、子を産んだぞ?」維心は、ぴたりと足を止めた。炎嘉が、続けた。「嘉韻の子。嘉韻によう似たそれは美しい金髪の男の赤子であったわ。」
維心は、炎嘉を睨んだ。しかし、何も言わなかった。炎嘉は、続けた。
「十六夜はあのように気ままであるし、維月は嘉韻と共に居ることが多い。嘉韻は、大変に気遣いの出来る男であるようでの。我も、自分の筆頭軍神嘉楠の息子であるし、無下に出来ぬで祝いを述べて来たのよ。維月は、前を向こうとしておる…最近になってやっと話してくれたが、主は己から維月を一方的に離縁したらしいではないか。維月は表面には出さぬが深く傷ついておったようで、それを嘉韻が気遣って側に居たようだ。我も維月には会いに行っておったが、何しろ今は王であるから…ずっと共に居ることは出来ぬでな。しかし、いつかは宮へ迎え取りたいと思うておるが。」
維心は、じっと黙って視線を床へ向けていた。維月は、我を忘れて嘉韻と幸せにしておるのか。子を育て…嘉韻と共に。
維心は、炎嘉に背を向けて回廊の向こうの庭を見た。
「もはや他人と主が言うたではないか。あれが誰と幸福にしていようと、我には関係のないことぞ。我は己の責務に邁進するだけぞ。」
炎嘉は、維心の背を見つめた。
「…そうか。」炎嘉は、フッと息をついた。「では、維月のことはもう、本当に良いの。」
維心は、怒ったように声を荒げた。
「しつこいぞ!もう良いと言うのに!」
炎嘉は、頷いた。
「わかった。では、我はもう何も言うまい。」と、懐から出した、畳んだ紙を宙に浮かせた。「もしも維心が自分の話を聞いてくれる気持ちであったなら、これを渡して欲しいと維月に言われておったのだがの。主には渡せぬな。」
維心が、驚いて振り返った。しかし、炎嘉はそれを一瞬のうちに焼いた。それは炎を上げて、炭なって床へと舞い落ちた。
「我が愚かであった。維月に本心を言えと迫って、そうして涙を流しながら言うたことを、これに書かせたのだ。未だに立ち直れておらぬ維月に、一縷の望みでもあればと思うたのだが。主には何もない。以前の主に、戻ってしもうた。」と、踵を返した。「我はもう帰る。お節介なだけであったの。ではな。」
炎嘉は、踵を返して来た道を戻って出て行った。
維心は、消し炭になったその手紙を、ただじっと見詰めてそこに佇んでいた。




