鷹の宮
箔翔は、しばらく離れていた自分の宮に降り立った。
龍の宮に慣れていた身には、狭く暗い雰囲気に見えた…何しろ、世間から隠れるようになってから、宮は平屋建てになり、広く敷地は有しているものの龍の宮ほど高さがないからだ。それは、箔翔がここに来た時からであったので、馴れていたはずだったが、今ではとても圧迫感を感じた。
やはり、父上は世間から隠れていらしたのだ…。
箔翔は、今更ながらに実感していた。
奥にある王の居間へと到着した箔翔は、頭を下げた。
「父上。ただ今戻りました。」
箔炎は、正面の椅子に座って目を上げた。
「箔翔。よう戻った。」と、側の、自分の前の椅子を指した。「座るがよい。」
箔翔は、言われるままにその椅子へと腰掛けた。箔炎は、箔翔の顔をじっと見ていたが、言った。
「…良い顔になったの。あちらで、成長しておるようよ。」
箔翔は、頷いた。
「はい。ちょうど同じ年のころの、維明と共に毎日立ち合いをしておりまして、剣術は自信をつけ始めておりまする。」
箔炎は、少し頬を緩めた。
「…ああ、上達を始めた頃は、そうやって自信を持つものよな。しかし、上には上が居ること、そして、実際に戦場ではどれほどに相手が豹変するかなどを知って、またその自信を無くす。そうして、また精進して、己を高めるものなのだ。我とて、同じ。」と、フッと息をついた。「…炎嘉も維心も、しかしいくら精進しても我は超えることが出来なんだがの。あやつらは別格ぞ。主も、己の力の限界を知るためにも、一度あれらに立ち合うてもろうておいたほうが良い。戦を起こさずに何とかしようと考えるようになるであろうからの。」
箔翔は、黙って下を向いた。確かに、自分はまだ維明にすら勝てない。何とか形になるような立ち合いが出来るようになって来て、自信をつけている場合ではないのだ。
「はい。肝に銘じておきまする。」
箔炎は、手を振った。
「ああ、別に我は主を諌めるために戻したのではない。何にしろ、僅かの間に主が成長しておることを見て安堵しておる。それより、主、世の方はどうよ。維心の側で、あれの政務を見ておるのであろう?」
箔翔は、頷いた。維明がそうやって、いつも維心の横に立って維心の政務を見ているので、自分も黙ってそれに従っていた。それは、確かに学びになった。父の箔炎は、外部からの来客など滅多に受けない上、来客自体が鷹の宮には少ないのだが、龍の宮は桁外れに多い。全て維心が対応しているのではないが、重要な用件だと判断すると、維心は出て来て対応する。そうして指示を出す…近隣の宮のいざこざであっても、それは同じだった。維心は、広く神世を統べて見ているのだ。
「はい。大変に学びになりまする。いつも側に居て見ておりまするが…何でも一瞬で判断し、次々に指示を出して行かれる。いつなり妃とべったりののんびりした王なのかと、最初は思ったものでありましたが、実際に側についていると、その素早さと判断の正確さには、羨望すら感じるほどでございます。」
箔炎は、眉を寄せた。
「あれは、まだ維月とべたべたとしておるのか。」
箔翔は、しまったと思ったが、渋々頷いた。
「は。いつなり側におり、穏やかに過ごしておりまする。」
箔炎は、また怒り出すかと思ったが、少し考え込むような顔をした。
「そうか、穏やかにの…。」そして、箔翔を見た。「して、何か変わったことはあるか?ここに居ると、世の動向など良く見えぬでな。」
箔翔は、思い出そうと考え込んだ。何か変わったこと…。
「いえ…特には。父上のご存知のことばかりで。正月の挨拶の時も、特に問題なく進みましたし。」
箔炎は、首を振った。
「そんなもの。挨拶に来るような者が、維心に何某か謀ろうなどと考えることはないわ。あれと真正面で対峙して、歯向かおうと考える神など今神世には居らぬ。一瞬で滅しられてしまうからの。」
箔翔は、一生懸命思い出そうとしたが、心に留めるような変わったことなど龍の宮で起こってはいなかった。
「そうは申して…父上が知っておられることぐらいしか、神世にはありませんでしたので。そういえば、今年は例年より挨拶の神が少なかったので助かったのだと維明が言っていた。」
箔炎は、面倒そうに手を振って背もたれにもたれ掛かった。
「それは、年末に一人、神の王が亡くなっておったからよ。その回りの宮の神は、喪に服しておってな。何しろ、まだ若い神だった。小さな宮の王達は、気軽に行き来して仲が良いので、そうやって他の宮の王の不幸でも喪に服したりするのだ。」
箔炎は、首をかしげた。
「は、確かにそのように聞きましてございます。では、本当に変わったことなど、無かったかと。」
箔炎は、頷いた。しかし、目は箔翔を見ていなかった…何か、別のことを考えている。
箔翔は、父王のその表情を見てそう思った。
「父上、何か気になさるようなことがおありですか?」
箔炎は、ハッとしたように箔翔を見た。そして、首を振った。
「いや、別に。主が世に出て行こうとしておるのに、我が世を知らぬ訳には行かぬと思うたまで。」と、侍女を見た。「貴青を呼べ。」
侍女は、頭を下げて出て行く。箔翔は、貴青が筆頭軍神だと知っていたので、頭を下げて同じように出て行こうとした。すると、箔炎が手を上げた。
「待て。主に用があるのだ。」
箔翔は、驚いて立ち止まり、また椅子へと戻った。甲冑姿の貴青が入って来て、膝をついた。
「お呼びでございましょうか。」
箔炎は、言った。
「前に申しておったの。こやつに領地内を広く見せてやるが良い。」
箔翔は、驚いた顔をした。まだ、父の結界内でも端の方までは見たことがないのだ。それは、政務に必要な場だけを覚えよということで、見せてもらえなかったからだった。
「は。では、箔翔様、お供致しまする。」
箔翔は、ためらいがちに箔炎を見たが箔炎は頷いた。そして、箔翔は貴青と共に出て行ったのだった。
鷹の領地は、それほど大きな物ではなかったが、そこの何処に宮があるのかを知っている神は少なかった。
飛び上がって上空から見ると、大きな森にしか見えない。しかし、実際にはここには、鷹王箔炎に許された者だけがその結界に守られて生きていた。小さな里のようなものもあったが、そこは小さな頃貴青に連れられて行って見たことがあった。龍の結界内で見た集落より数段に小さなものが点々とあるだけであったが、そこには普通の家族が居て、もちろんのこと女も居た。しかし、宮には一人の女も居らず、里の女も決して宮の敷居をまたがせてはもらえなかった。神世での女の地位は人世に比べて極端に低いが、それでもこの鷹の領地の中ではそれが殊に低かった…全ては、箔翔が長い間女を否定して生きて来たからで、里の中の女も、王が視察に来ると聞けば目に触れないようにと家の奥へと潜んでいなければならないほどであった。
なので、里に住む女はまた少なかった。そんな環境に耐えられないこともあったが、子が娘であった場合、他の宮の結界内のつてを辿って養子に出して、普通の暮らしをさせる親が多かったせいでもあった。
箔翔は、そんなことを神世の普通だと思って育っていたが、人世や龍の宮を経験してここが異常であるのだと知るに至った。今も、上空を飛ぶ自分の姿を見た女が、慌てて家の中へと引っ込んで行くのを何度も目撃していた。箔翔がため息をついていると、貴青が言った。
「この辺りは、幼い頃よりお連れした場。王が言っておられたのは、あちらの北の領地のことでございまする。」
箔翔は、そちらを見た。特に、何もないように見える。
「…森、よな。」
貴青は、頷いた。
「はい。しかしながら、あちらにも集落がございます。」
箔翔は、驚いた顔をした。
「そうなのか。それは、ここらの小さな里と同じか?」
貴青は、首を振った。
「いいえ。しかし、空から行けばあれらは驚いて卒倒してしまうやもしれぬので、ここからは、森の中を低く飛んで参りましょう。」
箔翔は、固唾を飲んで頷いた。いったい、どんな者達が住んでおるというのだろう。
貴青について飛びながら、箔翔は先に見えて来た岩場に近付いていた。