巻物
維心、蒼、碧黎がその記憶を見終わって顔を上げると、炎嘉が言った。
「…して、どうする、維心。」
維心の怒りの気は、幾分収まっていた。しかし、まだ回りにまとう気は、厳しかった。
「栄のことは、同情に値する。我が同じ立場であったなら、どれ程に辛かったかと思う。だが、頼…あやつらのこと、許そうとは思わぬ。どんな事情があるにしろ、維月を黄泉へ送るなど…今すぐにでも滅してやりたいほどぞ。」
炎嘉は、ため息をついた。
「私情は控えよ。地上の王としての判断を聞きたいのだ。」
維心は、炎嘉を睨んだ。しかし、しばらくして息をつくと、長く息を吐いて言った。
「…まずは、神世に告示せずあれらの巻物を調べ、どういった術をかけたのか本人達に詳しく聞いて検証する。術を解いた後、維月が無事ならあれらの種族は残す。沙汰は王のみ、神世に詳細は告示せずその時に決める。しかし、維月に万が一の事があれば、神世に告示し、一族ごと滅する。我が妃に仇名すとは、我に仇名すこと。つまりは龍族に仇名すことに他ならぬ。許すことな出来ぬ。」
炎嘉は、頷いた。
「では、行こう。これをあやつらに戻し、意識を戻して頼の宮の書庫へ。ぐずぐずしておっては間に合わぬ。十六夜まであちらへ引きずられぬうちに、術を解かねば!」
皆は、立ち上がった。碧黎が言った。
「蒼はここに居よ。十六夜があのような時、ここの守りがいつどうなるか分からぬ。我は主らの世に直接手を貸すことは出来ぬ…しかし十六夜と維月がいよいよとなれば、我は力を一時的に失ったとしても手を貸そうぞ。見ておるゆえ、呼ぶが良い。」
炎嘉と維心は、黙って頷いた。そして、二人で蒼の居間の窓から飛び立って行った。蒼と碧黎は、それを見送って月を見上げた。十六夜と維月の気は、まだそこにあった。
炎嘉は維心と並んで飛びながら、月を見た。月は、姿はそれは美しいままそこにあったが、気配は揺れていた。陽の月の気配が、陰の月の僅かばかりの気配を包み、離すものかと必死に抱え込んでいるのを感じる。炎嘉は、やはり維月は月で、自分とは違う命なのだと思った。そこからは、本来手が届かぬものという、絶望にも似た羨望のような、そんな気持ちが湧き上がって来る。しかし維心は、人であろうと月であろうと、神であろうと男であろうと、維月を愛してやまない神だった。その言葉通り死しても共に、生まれ変わっても共に来た。その数百年、維心の心は全くぶれることもなく、ただ一心に維月だけを見て維月だけを側に置き、他は望まずに居る。思えば、維心のような神は珍しい。何でも手に入る立場であるのに、ただ一つでいいと言うのだから。
維心が、ふと炎嘉を見た。
「何ぞ?我の顔に何かついておるか。」
炎嘉は、まだ不機嫌なままの維心を見て言った。
「いや、主は何と言うか、頑固だなと思うてな。」
維心は、ただでさえ不機嫌だったのに、余計に眉を寄せて言った。
「うるさいわ。前世より知っておろうが。いつなり頑固だ頑固だと。しかもこのような時に。」
炎嘉は、どういう意味で言っているのか通じていないことに苦笑した。
「まあ良いよ。それでこそ主であるし。」
維心は怪訝そうに炎嘉を見たが、不意に何かに気付いて前を見て、飛ぶのをやめた。炎嘉も同じように宙で止まると、前から覚えのある気が近付いて、目の前で止まった。
「おお、ちょうど良かった。主らに用があって月の宮へ向かっておったのだ。」
そこには、維心と炎嘉と同じく、部屋着のような気軽な格好の箔炎が浮いていた。箔炎がこんな所にこんな時間、しかも一人で浮いているなど、ただでさえ宮に篭って出てこないのに、あり得ないことだった。
炎嘉が驚いてまずそこから聞こうと口を開こうとすると、維心が横で不機嫌なまま言った。
「何の用ぞ?こっちはゴタゴタしておるというのに。」
炎嘉は呆れた。久しぶりに顔を見てそれか。
箔炎も苦笑したが、機嫌よく答えた。
「まあ主らしいわ。して、維月がどうしたのだ。もしかして、やはり頼か?」
維心が、目の色を変えた。そういえば、箔炎が知らせて来たのだった。
「あやつらの仙術にやられた。主、何か聞いておらぬか。」
箔炎は、首を振った。
「あれから、我には何も。だがしかし、仙術だというのなら、我の所にも巻物があって、我はあれを全て見ておるし、主らと仙術を解いたこともある。手伝おうぞ。」
維心は、じっと箔炎を見た。
「主の手助けは有難いが、だからと言って維月を許せとか言うのなら断る。炎嘉と二人で何とかするゆえ。」
箔炎は、呆れたように維心を見た。炎嘉も、言った。
「そんなことを言うておる時ではないではないか。維月のためぞ。」
しかし、箔炎は手を振った。
「維月のことは確かに案じておるが、それは我が妃が案じておるからぞ。なので、状況を見に参ったのだ。維月に何かあれば、あれが悲しむことが分かっておるからの。」
「妃?!」
維心と炎嘉は、同時に言った。しかし維心ははたと気付いた…そういえば、陽蘭…。
「箔炎、それは…」
維心が言おうとすると、箔炎はまた手を振った。
「知っておるだろうの。知らぬほうがおかしい。それでも、あれを留めておってくれておることには、地に感謝しておる。それより、今は維月ぞ。頼の宮か?」
訳が分からない炎嘉を他所に、維心は首を振った。
「いや、まずは栄の宮。そこに炎嘉が置いて来たのだ…記憶の玉を取っての。」
箔炎は頷いた。
「よし。では参るか。」と、飛び始めながら空を見上げた。「十六夜が頑張っておるのが効を奏しているのか、今は落ち着いておるようよ。しかし、早よう参ろう。」
三人は、栄の宮へと向かったのだった。
一方、維月はまだほの暗い黄泉の道に居た。
張維は、自分に出来ることはここまでだと言って消えて行き、維月は栄と二人、相変らず見えない十六夜につかまれたままらしい足に身動きが取れず、じっとそこに座って、術が解けるのを待っていた。
しかし、前にも感じたことだが、門の中へと行かないと段々と回りの空気が寒くなる。以前長くこの門の外の道の空間に残った時に、維月は魂までも凍りつくのかと思うほど、寒い思いをした。もしかしたら、このままここで長く待つことになるのかもしれない…。
維月がそう思いながら身を縮めていると、栄が横で気遣わしげに言った。
「維月殿?気温が下がっておるようだが…お寒いか?」
維月は、栄を見て困ったように微笑みながら、頷いた。
「ここのことは知っておりまするの。門に入ることを拒否してここに残ると、段々に体感気温が下がって参ります。そうして、魂まで凍りつくのだそうですわ。」と、回りの無限に見える空間を見回した。「先ほどからちらちらと見える回りを徘徊しておる影が、それでありまする。」
栄は、その回りの影と遭遇してしまわないように、動けない維月を抱いて移動することも多々だった。
「…我の着物を。」栄は、自分の袿を脱いで、維月を包んだ。「さすれば、少しはマシであろうか。」
維月は、首を振った。
「栄様…良いのです。これは、空気の寒さから感じておる寒さではないのですわ。何と申しますか…父が幼い頃からよう教えてくれたことなのですが。」維月は、袿を栄に返して、その肩に掛けながら言った。「ここでは、魂はたった一人なのだそうですわ。」
栄は、維月に身を寄せながら言った。
「一人?」
維月は、頷いた。
「はい。それが、ここを歩いている時には門の向こうで待っていてくれる者達と繋がっておるから、寒くはないのだけれど、その門を拒絶してこうしてここへ残ってしまうと、その繋がりが断たれて本当にたった一人になってしまう。それで、その孤独を寒さとして感じるのだと。これは、孤独の寒さなのですわ。」
栄は、そんなことを父から聞いたという事実に驚いたが、維月は陰の月なのだ。維月の父は、地だと聞いている。つまりは、地が維月に話して聞かせているのだ。栄は、そっと維月の肩を抱いてみた。すると、すーっと寒さが消え、二人の間に暖かい空気が出来たのがわかった。栄がびっくりしていると、維月が微笑んで栄を見上げた。
「まあ。そうですわね、今は一人きりではありませぬもの。少し寒さがましになりましたわ。」
栄は、微笑んで頷いた。
「良かったことよ。主をこんな目に合わせておるのも、元はと言えば我があのように主に懸想し…死しても悔いはないと思うておったが、ただの自己満足でしかなかったのだと、あちらへ逝ってこちらを省みて思った。逝った我は良いが、遺されたあやつらの苦しみの方が、大きかったのだと知った。こちらへ来てから後悔しても先の無いことと打ちひしがれておったら、張維殿が訪ねて参られて、我を戻せるやもしれぬと聞いて…どれほどに嬉しかったか。我は、あやつらに謝らねばならぬのだ。」
維月は、栄を見上げて袖で口元を押さえた。維心のような、実直そうな瞳で、真っ直ぐに前を見る王。だからこそ、維月は覚えていた。一瞬の出来事だったにも関わらず…。
「栄様…。私は、このような気を制御も出来ず、こちらこそご迷惑をお掛けしてしもうたのでございます。どうしたらいいのか分からず、前世から維心様にもようお悩みであられて…。」
栄は、それを聞いて維月も思わぬ場所から思わぬ者に見られて、言い寄られて苦労したのだと悟った。龍王も、そんな維月を妻に持ち、皆に狙われるのを必死に追い払い追い払い、案じて側に置いていたのだろう。それでも根を上げることもなく、ずっと共に居るのだ。龍王であるのだから忙しさは小さな宮の王の比ではないだろうに。
確かに慕わしい維月も、そうして考えると大変に遠い、もしも手にしてもそれからが険しい道であることが栄には分かった。あっちからこっちから維月を狙う輩が来て、それから守るだけでも相当な心労だろう。自分にはとても無理だ…。
栄は思った。遠く見ているだけなら良かった維月も、手にしてしまうと維持が大変なのだ。自分の力と財力では、それを支えきるのは無理だろう。何より、世にたった一人の月の女なのだから。
「なぜか、分かった気がする。」栄は、維月に言った。維月は驚いたように栄を見上げた。「憧れておったのであろうの。その気と、姿に。真に深く深く愛したならば、龍王のように大変なことになる。我には無理ぞ。龍王ほどの力を持っておれば、可能であったろうがの。維月殿、我は初恋というものを、卒業したのやもしれぬの。」
維月は、栄を見上げて微笑んだ。
「まあ…栄様、そうですわね。私など、元は人でありまするし、そしてそれが月として生まれ変わっても性質は全く変わらないのですわ。栄様は、やんごとない宮の王であられるのですから。もっと嗜みのある皇女を妃になさるのが、一番でありまする。私など、ただ月であるだけで何の取り得もありませぬもの。維心様にも…なぜにここまでお側に置いてくださるのか、分からぬ時がございますから。」
栄は、声を立てて笑った。
「おお、すまぬ。」栄は、そんなに声を立てて笑うなどない神の王族だったので、まだくっくと声を抑えながら笑って言った。「いやしかし、主は大変に気取りがなく、我も側に居て和むことよ。こうして話す前は、もっと高貴なイメージを持っておったのに。そこがまた慕わしいのかもしれぬ…だが、我は己の想像でなく生身の主を見て、また違った慕わしさを感じておるよ。そう、まるで妹に対するような。」
維月は、微笑んだ。
「まあ。確かにそうかもしれませぬわね。私はどう見ても、神の王の妃という感じではありませぬから。」
二人は、微笑み合って、それからもいろいろな話をしながら時を過ごしていた。




