栄2
それから、蒔が不自然だと止めるのも聞かず、栄は観覧席の頼達に挨拶もなくすぐに月の宮を後にした。一緒に来ていた清も、何が何だかわからず驚いていたが、王である兄が戻るのだからと急いで結果外へと辞して行った。頼と実久も、栄の具合がそれほどに悪いのかと案じて、蒔に詰め寄った。
「栄は、無理をしておったのか。具合の悪い時に、このような混み合う場に連れて参ったのが悪かった。どんな具合だったのだ。」
頼が言うのに、実久も頷いた。
「朝は元気そうであったのだ。なのに、ここへ座っておっても何やら気が跳ね上がったり落ち込んだりと繰り返しておったゆえ、体調を崩しておるのかとは思っておったのだが。」
二人があまりにも深刻な顔をして話し込んでいるので、蒔は黙っていられず、言った。
「頼、実久…話がある。」ちょうど休憩に入って、回りの神達が外へと立ち上がって進んで行くところだった。「ちょっと、こっちへ。」
蒔が、スッと浮き上がる。頼と実久は、やはり何かあったのかと、自分達の筆頭重臣に実久の妹を頼んで、三人で森の方へと飛んで行ったのだった。
上空から見ると、コロシアムから出た神達は、皆外で準備されている飲み物を手に、思い思いの方向に散策して話していた。蒔は、誰にも聞かれたくなかったので、森の出来るだけ奥へと飛んで、降り立った。頼と実久も、無言でそれに従い、三人は、大きくて立派な銀杏の前で向き合った。
「頼、実久。栄は、女に懸想してしもうてな。」
頼と実久は、驚いた。そんな話、栄に限って聞いたことがなかったからだ。
しかし、一瞬驚いた顔をした二人だったが、すぐに表情を緩めて笑った。
「なんだ、そうだったのか。それで、終わるのも待てずにその女と二人で宮へ?我らに一言あっても良いのに、栄のヤツは。」
実久も、頼の言葉に頷いた。
「そうよ。しかし気恥ずかしいのだろうよ。何しろ、あの栄だぞ?そのように性急に連れ帰るなど、我でもしたことがないからの。」
しかし、笑う二人とは対照的に、蒔は深刻な顔をしている。頼と実久の顔から、スッと笑顔が消えた。
「…違うのか?相手が、否と申したとか?」
蒔は、首を振った。
「いいや。相手に、想いを告げることもしておらぬ。」蒔は、目を潤ませた。「我らの身分で、どうにも出来ぬこと。相手は、陰の月。あの、龍王が飲み込まんばかりに執心の龍王妃ぞ。」
頼と実久は、一斉に息を飲んだ。陰の月…ちらと見た時、あまりに慕わしい気であるゆえに、反射的に遮断した。それからは、見ているだけでも慕わしいその姿に、鑑賞するような気持ちでちらちらと観覧席の方を盗み見ていたのは、頼も実久も同じだった。
「そんな…しかし、あれは遮断すればこちらに影響もない。我とてどれほどに惹きつけられたことか。しかし、経験上そんな気は危険だと知っておるからの。女に溺れるなどということは、あってはならぬと父上にも言われて育ったし。」
そう、頼はもっと若い皇子の頃からあまりに遊び回るので、父王に呼ばれてそう諌められたのだ。遊ぶのは良いが、溺れてはならぬと。なので、それからは本気にならぬように、少しでも惹かれる気に遭遇したら、遮断する癖がついていた。それは、実久もそうだった。蒔とて、たびたび嫌がるのを連れて出ていたので、同じようにそれを覚えていた。しかし…栄は、一度もそんな遊びにはついて来なかった。
「栄は、最初からあれに惹かれておったのだ。」蒔は、下を向いて言った。「我らのように、溺れるような慕わしい気というものの存在を、知らぬで生きて来たから。そうして、あの陰の月が席を立って出て行くのを見て、急いで追って行ったのよ。そうして、そこで知った…それが、龍王妃であることを。」
頼は、声を荒げた。
「そんな!我も実久も最初から知っておったぞ!主、知らなんだのか!」
蒔は、また首を振った。
「知らぬ。何しろ、我はそっちは見ておらなんだから。主らのように、女を物色するような癖もないゆえな。なので、栄の後をつけていて、栄と同じ時にあれが龍王妃であると知った。我は主らと出かけることがあったので反射的にあの気は遮断したが、栄は違う。観覧席で見ておった時から、ずっとその気を追っていたのだ。」
実久は、力なく目を泳がせた。
「ならば…ならば栄は、誠あの陰の月に?」
蒔は、頷いた。
「ああ。主らには言うなと言われた。そのように案じるゆえにの。しかし、あれはもう、逃れられぬ目。栄は、己でも言うておった…このまま一生、忘れることなど出来ぬだろうとの。しかし、これ以上同じ場に居ると、誠、苦しくなるからと、すぐに発ったのだ。」
頼は、神が絶対的に愛する存在というものを見つけた時のことを知っている。龍王がいい例だ。一夫多妻の世であっても、龍王のように心底愛する女を見つけた神は、その女だけを求め、他は見えず、報われない時は、己から湧き上がる思慕の気に苛まれて命を落とすことすらあるという。自分はまだそんな女に出会ってはいなかったが、そうなることを恐れても居た。それこそが、女に溺れるということのような気がしてならなかったからだった。
「栄が、案じられるの。」頼は、呟いた。「しかし、臣下が妃の候補を見繕っているらしい。ならばそこから誰か娶れば、もしかして忘れるやもしれぬではないか。陰の月の気も、確かその場だけであると聞いたぞ。こちらに合わせて変化するのだそうだが、それは身を守るための無意識の反応だと。誠の気は、陰の月が愛している相手が望む気なのだそうだ。つまりは龍王の好みの気であると思うが、それに惹かれておるのでないなら大丈夫よ。」
実久も、無理に表情を明るくした。
「おお、そうだったの。ならば、少し時間が掛かっても、恐らくあれは元へ戻る。栄に限って、女に溺れるなどということはないであろうよ。」
蒔も、頷いた。そう思いたかったのだ。
しかし、頼には分かっていた…栄が惹かれたのは、陰の月の元の気だ。相手は、あの混雑する観覧席に居たのに、そこに居る一人一人に合わせた気など形作れるはずはない。遠く陰の月を見て懸想した栄を、陰の月が気取ることも難しかっただろう。
無理に元気なふりをして戻った観覧席でも、三人はとても最後まで見る気にはなれず、終わりを待たずに月の宮を後にしたのだった。
そこからの月日は、早かったように思う。
それがなぜかは分からないが、気が付くともう、年末も近かった。
それはどこの宮も同じだったようで、正月の挨拶へと向かわねばならないのでその準備に忙しくしていて、他の三人とも会うことも出来なかった。
やっとのことで時間を作った時には、もう年の瀬も押し詰まっていて、元旦まで一週間を切っていた。頼が栄の様子を見に行ってやらねばと準備していると、実久が慌てたように居間の窓に降り立った。
「頼!早ようせよ、間に合わぬ!」
頼は、びっくりしながらも実久に駆け寄った。
「なに?何が間に合わぬのだっ?」
袿を引っ掛けて浮き上がると、実久は涙を浮かべて飛んだ。
「栄よ!」頼がショックを受けたような顔をしたのを、実久は見もせずに続けた。「我も蒔が知らせて参って必死で宮を出て来た。ここのところ忙しゅうて…栄のことを見舞うことも出来なんだから…。」
頼は、全開のスピードで飛ぶ実久に必死に合わせて飛びながら言った。
「見舞う?!栄は、どうしたのだ?!」
実久は、睨むように頼を見た。
「陰の月ぞ!」
頼は、その一言で悟った。栄は、やはり忘れることなど出来なかったのだ。誰よりも真面目で一本気な男だった。遊びなど知らずに来た。そんな男が初めて知った深い想いに、抗えるはずなどなかった。
実久と頼が到着した宮は、暗い気に包まれていた。中に居る神達の心が形作っている雰囲気なのだとわかった。二人は、慣れた宮の中を奥の間に向けて走った。
中には、清がいた。そして、寝台を囲むように治癒の者達が、気を補充しようと戦っていた。蒔が、力無く二人を見た。
「実久、頼…。」
頼は、寝台に駆け寄った。栄が、やつれて見る影も無いほどに憔悴しきってそこにいた。
「栄…!なぜにこのようになるまで知らせなかった!」
頼は、涙を流した。僅な間に、こんなことに。
栄は、弱々しく微笑んだ。
「年末は忙しいではないか…しかし、もう、最後かと思うて。」
皆、涙を流している。栄は、回りの臣下達に手を振った。
「もう、良い。無駄ぞ。場を外せ。」
「しかし王…!」
筆頭重臣が、食い下がる。しかし、栄は首を振った。
「友と話したい。主らは、出よ。」
仕方なく、皆ぞろぞろと出て行く。そして、栄は清を見た。
「主に跡を頼む。主も出よ。」
清は涙をためた目で栄を見たが、何も言わずに頭を下げて、そこを出た。それを見送ってから、実久が言った。
「栄…!なぜに、我らに相談せなんだ!ならば我ら、どうあっても陰の月をここへ連れ参ったのに。」
栄は、首を振った。
「そのようなこと、出来まいが。わかっておるよ、我らの身分にはそぐわぬ相手。あちらは我の事など覚えてもいまい。それでも、忘れる事など出来ぬ。あの、慕わしい姿、そして気。想うにつけて気が補充出来なくなり、今はこのように。」栄は、息をついた。「叶わぬ月。あの、遠い場所にある女に身のほどもわきまえず懸想した報いぞ。しかし、何という甘美な思い…我は知らずに生きるより、良かったと思うておる。後悔は、しておらぬ。」
頼は、ひたすらに涙を流した。悔しくてならなかったのだ。なぜに、これほどに思うのに、その思いすら知らせることも出来ずに世から去って行かねばならぬ。相手に、その存在すら知ってもらうことも出来ぬとは…。
栄が、薄っすらと微笑んで頼を見た。
「悲しむでない。頼よ、我は愚かぞ。主らから見たら、そうであろう。しかし、我は不幸ではなかった。我を哀れむでない…あちらへ逝っても、我はあの月を想うのだと思う。この想いは、苦しいが、幸福なもの。主に、我の想いがどんなものか知ってもらうことが出来たなら…」
栄は、苦しげに眉をひそめた。実久と頼、蒔は、慌てて栄の手を握った。
「栄!」
栄は、すっと視線を天上へと向けた。そして、微笑んだ。
「ああ。我は逝く。」栄は、視線を動かさずに言った。「あの美しい慕わしい姿を、またあちらから見ることが出来ようと思うと、歓喜の気持ちでいっぱいぞ。頼、実久、蒔。また、あちらでの。」
頼は、目を閉じようとする栄に向かって、力いっぱい叫んだ。
「栄!栄、ならぬ!」
しかし、栄はまた薄っすらと微笑むと、そのまま息を引き取った。
「栄ー!!」
三人の絶叫は、栄の宮に響き渡った。それを聞いた臣下達を清が、急いで駆け込んで来る。
栄の崩御を知った皆が泣き崩れる中、頼は、小さく呟いた。
「…栄。必ず、主と陰の月を会わせてやろうぞ。龍王など居らぬ、そちらの地で。必ず、主は身分など関係のない地で、陰の月と幸せになるのだから。」
そうして、栄は世を去って逝き、頼、実久、蒔の宮と、その近くの宮の神々は、急遽喪に服して正月の挨拶なども控え、ひっそりと過ごしたのだった。




