真実を
箔炎は、栄の宮へと法要へ行かせていた、筆頭重臣の玖伊の報告を受けていた。玖伊は、最近筆頭重臣であった者が亡くなったために、代替わりした新しい筆頭重臣だった。こちらも真面目に仕えている良い臣下で、まだ若いので箔翔にも仕えることになるだろう男で、箔炎もいろいろなことを学ばせようと自分の名代によく使っていた。なので、今回も栄の宮へ行かせたのだ。
玖伊は、頭を上げて言った。
「…そういうことで、滞りなく場は収まりましたが、炎嘉様が忍んで来ておられなければ場は乱れたまま終わっておったことでございましょう。」
箔炎は、苦笑して言った。
「まあのう、あの維心の遠縁であろう?己の妻に手を出す者を見れば、おとなしくはしておらぬであろうよ。」
陽蘭は、穏やかに微笑んで箔炎の横に座ってそれを聞いている。玖伊は、頷いた。
「はい。本当に、龍王を見るかのような。さすがにお血筋でしょうか、雰囲気も気の強さもよう似ておりました。名を、碧黎様と。」
箔炎は、驚いた顔をした。碧黎…それは、地の名ではなかったか。
箔炎が考え込んでいると、横で陽蘭が突然に額を押さえて下を向いた。箔炎は、慌てて陽蘭の肩を抱いた。
「陽蘭?どうしたのだ。」
陽蘭は、首を振った。
「いえ…何でもございませぬ。少し、眩暈がして。」
箔炎は、心配そうに陽蘭の顔を覗き込んだ。
「治癒の者を呼ぼうぞ。」
箔炎が指示を出そうとするのを、陽蘭は止めた。
「いえ、大丈夫でございます。本当に一瞬のことでございますから。」
玖伊は、そんな陽蘭を見て、ためらっていたが続けた。
「その…その、奥様の名が陽蘭様とおっしゃって、こちらの陽蘭様と同じくそれは美しいおかたで…龍の高貴な気がして、皆息を飲んで見つめておったものでございます。」
箔炎は、まだ陽蘭を気にしながらも、玖伊を見た。
「では、維心の遠縁はその碧黎殿と、陽蘭殿だったということか。」
玖伊は、頷いた。
「はい。それは美しいお二人で…さすがは龍王の血縁と、皆で密かに噂しておりました。特に碧黎様におかれましては、それは珍しい気であられて。女神達が、法要の後の宴であることも忘れて寄って参って、咎められたほどでありました。」
「珍しい、気…。」
箔炎は、復唱して、考え込んだ。碧黎と、陽蘭。我は知っておるはずだ。しかし、知っておるのは違う碧黎だ。あの地の片割れも、確か陽蘭だったのではないか。ここにも、陽蘭が居る。しかし、陽蘭は…。
陽蘭は、じっと黙って着物の袖で口元を押さえている。その瞳は、何か別のところを見ているように遠く向いていた。箔炎は、言った。
「陽蘭。主は何か、思い出したのではないか?」
陽蘭は、ハッとしたように顔を上げると、箔炎を見た。そして、無理に微笑んだかと思うと、首を振った。
「いいえ、違いまするの。このように他の陽蘭様が出て参るということは…もしかして、我は陽蘭ではないのかもしれないと、思い当たりました。」
箔炎は、驚いたように陽蘭を見た。
「それは…主の名が、違うやもということか?」
陽蘭は、頷いた。
「はい。思えばあの時、まだはっきりせぬ時で、目覚めて間がない頃でございました。どこかでその名を聞いておって、それを己の名だと思い込んだだけで、我は別の誰かなのではないでしょうか。」
箔炎は、それを違うともそうだとも言えず、口ごもった。確かに、記憶が定かでないのだから、陽蘭が最初に自分の名だと言ったこの名が、確かにそうなのだとは断言出来ない。
「しかし…我は、主の名は陽蘭と呼んで来たゆえな。今更に、違うなどと聞いて、違う名で呼ぶなど…間違っておっても、良いではないか。」
陽蘭は、首を振った。
「いいえ、箔炎様。その辺りの神と同じ名であっても良いかもしれませぬが、そのように龍王様に近い縁戚のかたと同じ名を名乗るなど…我は、箔炎様に名付けてもらいとうございます。」
箔炎は、ためらった。確かに、陽蘭の言うことは的を得ている。確かに、我の妃であるのに、今は潜んでいる状態であるからいいが、箔翔の代になって神世に告示などあった時、同じ名では混乱が生じるのは目に見えている。神世には、同じ名は滅多に存在しなかったからだ。同じ読みの名はたまにあるが、字が違っていたりするのが普通だった。
なので、箔炎は渋々ながら頷いた。
「わかった。主の名、では我が名付けようぞ。」箔炎は、じっと陽蘭を見つめた。華のように美しい、我の生の中でやっと見つけた光…。「陽華。陽華ではどうよ。」
陽蘭は、頷いた。
「はい。」と、それは美しく微笑んだ。「陽華。我は、これから陽華と名乗りまする。箔炎様から戴いた名、大切に致しまするから。」
箔炎は、陽華が笑ったので、自然に嬉しくなって微笑んだ。
「おお、気に入ったか。陽華よ、では、これで主の憂いも無いの。」と、玖伊を見た。「皆に知らせよ。我が妃は、陽華ぞ。」
玖伊は、深く頭を下げた。
「は!ではそのように。」
玖伊は、そこを出て行った。
陽華は、その背を見送りながら、少しホッとしたような顔をしていた。
炎嘉は、皆が帰った後も栄の宮に残り、頼と実久、蒔を庭へと呼んでいた。維心と維月が言ったことを、嘘だとは思ってはいない。しかし、これらの話を聞いておきたいと思ったのだ。
緊張した面持ちの頼と実久、蒔と向き合って、炎嘉は言った。
「まずは言わねばならぬ。我は、月の宮とも交流が深い。それは、知っておるの。」
頼は、じっと炎嘉を見ていたが、険しい表情のまま、言った。
「…碧黎殿と、話されたのか。」
炎嘉は、頷いた。
「あれと我は、月の宮でたびたび会う中であるからの。此度はここで会って驚いたほど。あれの力は確かに強いが、このままことが公になってしもうては王ではないから抑える力は持っておらぬ。なので、我に力を貸せと言うのだ。維心に、知られてしもうたらこの辺りは一瞬で消されるぞ。あやつは神世を治めておる王。甘い顔など出来ぬのだ。心ならず、主らを滅することで見せしめにせねばならぬのだ。主らだけではない…一族が綺麗になくなることになるのだ。」
頼は、険しい顔をした。そして、一歩踏み出して言った。
「これは、我が策したことでありまする。実久も蒔も、仕方なく手助けしただけのこと。これらのせいではありませぬ。」
炎嘉は、ため息をついた。
「だが、持って行ったのは実久であろうが。まず最初に疑われ、消されるのは実久。そして頼。そして蒔であろうの。どちらにしても、疑わしきは消されるのがこの神世の常。碧黎は、それを恐れて密かに証拠を消してしまおうとしておるのだ。主らが、若く将来のある神達だったというておったゆえ…維心の耳に入らぬように、早く証拠を隠滅してしまわねば。」
頼は、実久と顔を見合わせた。そして、炎嘉に向き直った。
「…こそこそするのは、性に合いませぬ。栄のこと、我はどれほどに悔しかったことか。それを、せめて知って欲しかった。陰の月の、維月殿に。」
炎嘉は、常にない厳しい顔つきの頼に、維月は話して来たと言っていたが、本心は話していないのだ、と悟った。これらも、神世の王。維月は、女で、政務に詳しくはない。駆け引きなど、知らない真っ直ぐな月なのだ。もしかして、騙されておるのか…?
「…主、碧黎を騙したか。」
頼は、睨むように炎嘉を見た。
「騙したとは人聞きの悪い。あのように、世から離れていらした大変に素直で純粋な神であられる碧黎殿を、利用させて頂こうと思うたまで。所詮、あれほどに気が大きく力のある神には、我らの気持ちなど分からぬ。我らは、あの宮の軍神にも劣る力しかない王。ならば、知恵で切り抜けるよりないのですから。」
炎嘉は、頼を睨みつけた。目が、薄っすらと赤く光る。元は鳥の王であった炎嘉は、怒ると目が赤く光るのだ。いつも穏やかで飄々とした風で、険しい顔などすることのない炎嘉の怒った姿を初めて見た頼達三人は、無意識にひるんだ。
「心底助けようとしておる神を、謀るとはの。」炎嘉の表情は、確かに神の王として維心と世を二分して君臨していた恐ろしい王の姿だった。「今ここで我が滅しても良いが、それでは維心の楽しみも無くなろう。これまでを話すが良い。我は気が長い方ではないぞ?」
三人は、太平の世になってから生まれて育って来た小さな宮の王だった。戦場を体験したことがないので、こんな風にあからさまに殺意を向けられたことは今までなかった。
頼が、冷や汗を流しながらも、炎嘉から目をそらせることが出来ずに、それでも黙っていると、炎嘉は手を翳した。
「…ま、言わぬであろうの。では、記憶をもらおうぞ。」
頼が思わず後ずさると、他の二人も慌てて頼の前に庇うように出た。
「そのような…廃人になってしまうのでは!」
炎嘉は、フッと笑った。
「知らぬのか?我ら神世を統べる神とは、世を乱す輩には殊のほか非情になるのよ。維心が非情だといわれるのは、それゆえぞ。」炎嘉は、三人の頭に向けて光を放った。三人が逃れようと身を翻すよりずっと早かった。「ではの、頼、実久、蒔よ。」
頼は、遠くなって行く意識の中で、力の差とはこうなのだと思い知った。神世は、力の差で身分が決まってしまっている。記憶を取ってしまえる神など、世でも一握りしかいない。そう、力の大きさで、出来ることも限られている…。
そうして、何も分からなくなった。




