こっちでも
維心は、じっと座って庭の維月を気で追っていた。夫たる男にそこに留まれと言われたら、そこに居なければならないのが神の通常の女で、なんと自由がなく不便なのかと維心は苛々した。しかしついさっき、何も話さないで良いので楽だと思ったばかりなのを思い出した維心は、ベールの中で苦笑した。つまりは女は表に出ないでいいので面倒が無い分、表立って口を挟めないのだ。
維心が息をついてそんなことを考えていると、不意に何かに話し掛けられて慌ててそちらを見た。
…ああ、甲斐か。
維心は、心の中で思った。甲斐はそこそこの格の宮の王で、炎嘉と同じく世話好きで知られる王だった。恐らく、栄のことも世話していたのだろう。その甲斐は、柔らかに微笑んで言った。
「少し、お話してもよろしいか。」
維心は、ベールの中で扇を上げて眉を寄せた。そうか、こやつは我が我と知らぬから…それにしても、他人の妻と話をしたがるとは、神の王とは面倒なものぞ。
自分も普段はその神の王であるのに、維心はそう思いながら言った。
「夫が居らぬ時に、他の神と話す事には慣れておりませぬ。」
普通は、人妻であるならそう答えるので、維心はそう言った。しかし、甲斐は苦笑して強引に側に座ると、その手を取った。
「その様に構えずとも。僅かで良いのだ。」
本来なら、気で突き飛ばしていたところだが、女の姿なのでそれも出来ない。してもいいが、神の女がそんなことをすることはないので、疑われてしまうかもしれない。なので、維心はおぞけが走りながらも、顔を背けて手は取られたまま言った。
「どうか、あちらへいらして下さいませ。」
甲斐は、それでも両手でその手を握り直すと、言った。
「龍であられるか。このように高貴な気を持つ龍には、我は龍王以外に会うたことがない。近いお血筋であられるのだろうの。」
一瞬バレたのかと思った維心だったが、バレていたら手を握るなど出来ないはず。龍王に触れることなど、その妃以外に出来ないからだ。
維心は、とにかく早くどこかへ行って欲しいと、横を向いたまま扇を下げなかった。つくづく、女の気持ちがわかった…思うてもいない男に言い寄られるほど、鬱陶しいことはない。
甲斐は、それでもめげなかった。
「今まで表に出て来られなかったのは、残念なこと。龍王にお願いして、主を我が妃に迎えたのに。主のような気高い女は、妃の位置が似合いであろうに…ただの神の妻とは。」
維心は、ムッとした。維月は、ただの神などではないわ。
「…夫以外とは、これ以上お話をするつもりはありませぬ。」
甲斐は、ふっと笑った。
「主をこのような所に一人置いて置くような男であるのに?」維心が、それは探りを入れるためだと言うに、と思って黙っていると、甲斐は維心を引き寄せた。「我は王。このまま我が宮へお連れしても良いのだぞ。」
確かに、略奪は神世の常。
維心は、それに思い当たって王とはなんとワガママ放題なのかと思った。女の気持ちなど、二の次なのだ。
正体を現す訳にも行かず、側の軍神が王相手に手出し出来ないことも承知であってどうしたものかと考えていると、清が控えめに言った。
「甲斐殿…此度はどうか。龍王のご名代でいらしておる客人の妻君なのでございます。」
甲斐は、意地になってきたようだ。清を軽く睨むと、言った。
「ようそのようなことを。栄は、そんな無粋な事はいわなんだぞ。」
維心は、苛々した。維月ならば、軽く平手打ちをかましていただろう。だが、維心は育ちが良かったので、女の姿でそこまですることにためらいがあった。いよいよとなったら維月を真似ようか、と悩んでいると、急に甲斐が目の前から消え、維心の手は自由になった。一瞬のことで何があったのかと扇を上げるのも忘れてそちらを見ると、甲斐は横に転がり、身を起こしたところだった。
「何をしておる!」男の姿の、維月がそこに立っていた。「我が妻に触れる事は許さぬ!」
甲斐は、自分を軽く飛ばしたその気の大きさに驚いていた。龍王の血筋とは、こちらだったか。
皆がしんとなってこちらを見ている。甲斐は、軽く頭を下げた。
「それほどに大切だとおっしゃるなら、側を離れるべきではないの、碧黎殿。軍神に出来る事には限りがあるぞ。王相手には役に立たぬ。」
後ろからついて来ていた、頼、実久、蒔が呆然と見ている。維月は、迂闊だったと思った。女の無力さは、自分が一番よく知っていたのに。維心が、皆の面前で力を使う事が出来ないのは、わかっていたことだった。龍王だとバレるからだ。
維月は、甲斐を睨み付けた。
「まさか法要でこのような不埒な輩が現れるなど、思うてもみなんだゆえに。神の王も、それぞれであるの。良い学びになった。」
清は、どうしたら良いのかとおろおろとした。両方共に世話になっている宮の客。どちらの肩を持つ事も出来ないが、しかし場をおさめねばならない。
維月がもうこの場を辞した方がいいか、と思って踵を返そうかと維心の手を取ろうとすると、後ろから呆れたような声が飛んだ。
「何ぞ、せっかくに栄を思い出して和んでおったというに。」皆が、そちらを向いた。「何のために我はこのように身をやつしてまでここへ来たのよ。」
それは、軍神の甲冑を身に付けた炎嘉だった。炎嘉は、びっくりして口を開けずにいる清に言った。
「すまぬの、我が正面から来ては、主も気を遣うであろう?なので、軍神に混じって来ておった。しかし相変わらずよな、甲斐よ。」と、同じく呆然としている維月と維心を見た。「主らも。此度は多目に見てやるが良い。甲斐は飲み過ぎておるのだ。本来女好きなやつなので、美しい女は見過ごせぬのだ。さ、皆も!長らく飲んでおるぞ。控えの部屋へ下がるが良い。清、侍女に命じよ。皆を部屋へ案内させるのだ。」
清は、我に返って慌てて侍女に命じ、皆がぞろぞろと控えの間へと下がって行くのを見守った。炎嘉は、維月と維心を見ると、言った。
「さ、主らも来い。話がある。」
炎嘉が、先に立って歩いて行くのに、二人は顔を見合わせると、仕方なくついて歩いて行ったのだった。
隣り合わせている貴賓室の対へと案内された三人は、炎嘉に促されるまま、炎嘉に宛がわれた方の部屋へと入った。そこまでじっと黙っていた三人だったが、炎嘉が甲冑の紐を解きながら二人を振り返って言った。
「して?何を遊んでおるのだ。身分柄、栄の法要などに来ることは出来ぬだろうが、そこまで栄を悼んでやりたかったのか?というか、栄の生前そこまで仲が良かったようには見えなんだがの。ここいらの神のことは我にばかり世話を頼んでおったではないか、維心。」
炎嘉は、肩の甲冑を外して寝台へと放り投げながら、女の姿の維心を見て言った。維心は、ふっと息をついた。
「…そんな単純な理由でここへ参ったのではないわ。」と、男の姿の維月を見た。「維月が、なぜにこのような姿で居ると思うか。」
炎嘉は、眉を上げた。
「なかなかに似合うかと思うが。男の主に通じるところが多い、美しい男であるからの。女に囲まれておったではないか。ま、我は女の維月の方が良いが。」
維心は、ふんと側の椅子に座った。
「我はどっちでもいいが、しかしこのままでは支障も出よう。我が龍王として君臨せねばならぬから、常女で居るわけには行かぬ。それに、女とは不便であるのがよう分かったしの。」
炎嘉は、ニッと笑った。
「甲斐などに手を握られおってからに。あれも、己が握っておったのが龍王の手だと知れば、腰を抜かすであろうぞ?」
維心は、不機嫌に顔をしかめた。
「笑い事ではないわ。身の毛もよだつとはまさにあのことよな。維月があのように来てくれて良かったことよ。」
維心は、ただでさえ美しい顔で維月を見上げて花のように微笑んだ。維月は思わず微笑み返したが、慌てて表情を引き締めて言った。
「…あの…いつも維心様があのようになさるので。私も、甲斐様が維心様の手を握っておるのを見た時に、思わず気で突き飛ばしてしまいました。」
炎嘉は、ため息をついた。
「ま、主は維心しか知らぬしああするのも仕方がないが、維心は特殊であると考えよ。主に対する執着は並ではないゆえ、皆の面前で消し去ることさえ厭わぬ男。しかし、普通はあのように公に突き飛ばしたり消し去ったりはせぬのだ。場の空気が乱れようが。清も、どうやって収めたらいいのか分からぬで困っておったわ。我が居らねば、あの場は気まずい雰囲気のまま終わっておったやもしれぬぞ?栄の法要が、その様な形で終わるなど、我も本意ではないからの。」と、やっと甲冑を全て解いて寝台の上へと放り投げ終わると、炎嘉は維心の前の椅子へと腰掛けた。「して、維月は男のまま戻れぬのか?」
維心は、頷いた。
「そうなのだ。我は、己でこの型を取っておるだけであるが、維月と十六夜が逆転した状態で、どうしてこのようなことになったのか探りに参った。」と、維月を見た。「して、分かったか、維月よ。」
維月は、頷きながらも暗い顔になった。炎嘉が、眉を寄せて維月を見た。
「…何ぞ?まさか、ここらの神が何か画策したのではあるまいな。」
炎嘉は、この辺りの龍の宮からの援助を担当していたので、皆そこそこに交流があって知っているのだ。心底案じているような顔だった。維月は、顔を上げた。
「私が、悪いのです。」維月は、炎嘉に言った。「栄が、私の気に惹かれておったのだと聞きました。私からは、顔すら知らなかった神であるのに…栄は、私を想って死んで逝ったのだと頼も、実久も、蒔も恨んでいた。でも、殺そうなどとは考えておらず、そんな性質を恨んで、男にしたなら支障がなかろうと、仙術を学んで必死に三人で作り上げた薬を月の宮へ届けたのです。そうして、私は男に固定されてしまった。十六夜は、おまけのようなものなのです。たまたま一緒に居て、一緒に同じ薬を飲んだから。」
それを聞いた炎嘉は、維心を見た。
「維心、あれらは悪い神ではないのだ。気持ちも分かる…栄も良い神だった。若かったがの。兄弟のようなものなのだ。恨む気持ちも分かる。」
維心は、必死に庇おうとしている炎嘉を見て、フッと息をついた。
「分かっておる。しかし事が公になれば、我はあれらを罰しねばならぬ。何とか、あれらを改心させて二度とこのようなことを起こさぬと約させ、維月と十六夜を元へ戻させねば。」
維月は、維心を見て言った。
「言って聞かせましたわ。あの、作り話をして、あれらの信用を得ました。そうして、あれらから話を聞いたのです。とても素直な神達でした。碧黎としての私が、どうにかして事を収めて来ると話をつけました。しかし、本来仙術には詳しくないので、どうしたら解けるのかは知らぬのだと…。」
仙術の厄介さは、前世で嫌ほど知っていた。炎嘉が、下を向いて難しい顔をした。
「ならば…しかしあれらを術者であるからと殺すことには反対ぞ。若気の至りということもあろう。解き方は我らで探そうぞ。維心、見逃してやるが良い。」
維心は、また息をついて仕方がないと言う風に頷いた。
「分かっておる。とにかくは我の目に触れぬようにすることぞ。我が皆の前でそれを見てしもうたら、もう取り返しはつかぬ。神世への示しがつかぬから、罰することになる。短期で収めねばならぬぞ。」
維月は、頷いた。
「はい。蒔が言うには、もう一度あの薬を試せば元に戻るのではないか、というのです。術が解けるのとは違いまするが、それでも元の性へと戻ることが出来るのなら、とりあえずはそれで凌いで、後のことはそれからゆっくりとお父様にご相談して解いて行けば良いのではないかと…。」
維心は、甘いのではないかと思ったが、炎嘉を見て言った。
「では、炎嘉。主がここらの神を監視するようにせよ。頼には、義心に付かせておるが、戻らせる。あれらのことは、主が責任を持つと申すなら、我は此度のことは不問に付そうぞ。」
炎嘉は、維心に真剣な顔で頷いた。
「恩に着るぞ、維心。では、とにかくは主らは明日の朝戻って、元へ戻すが良い。我は、その仙術の解き方を探しながら、あやつらの動向を見張ろう。」
維心は、立ち上がっていつものように維月に手を差し出したが、考えたら自分の方が女で小さかったので、反対に維月に手を取られて炎嘉の部屋を後にした。炎嘉は、その背を見送りながら、まだ真剣な顔を崩さなかった。




